分人主義

これは価値観の押し売り。この文章のエッセンスは丸パクリ。

小説家、平野啓一郎さんの「分人」という考え方に救われた。彼の著書「私とは何か」で述べられている自己の捉え方。

絶対的な「個人」なんて存在しないというもの。自己は、外界との相互作用によって生じる複数の「分人」によって成り立つというもの。

そもそも個人という考え方は、individualという単語の成り立ちを考えると分かりやすい。不可能を表す「in」に、分割可能なものを表す「dividual」。合わされば、「それ以上分割できないもの」になる。それこそが基本的な「個人」という考え方だった。

しかしそれ故に、人はしばしば絶対普遍的な自己の探究に思い悩む。分割不可能ということは、自己を頭の先からつま先まで串刺しにして表現しうる1つの特性があるのではないか。そんな特性があると信じるからこそ、時と場合によって都合よく自分の顔色を変化させることに嫌悪感を抱く。

おれもそうだった。真面目な人と称されれば、真面目ではない瞬間の自分を引き合いに出すし、優しいと表現されれば薄汚れた自己の側面を脳内に出現させる。そうしてあたかも俺を串刺しで評価しているかのような他人に、そしてその評価に対し素直に首を縦に振れない自分に、腹が立つ。

しかし平野さんはこう言った。自分は分割不可能なものなんかじゃない。実際は「dividual」であって、何体もの「分人」によって自分は構成されている。そしてそれらの分人は、他者や外界との相互作用によって生まれ、時間と共に形を変えていく。

他者が見ているものは、自分全部ではない。自分がその人といる環境、時間において出現させている「分人」に過ぎない。他者の評価は、その「分人」に対する断片的感想に過ぎない。

そう捉えられた時、不思議と肩の力が緩まった。なんだ、自分はそんなにも変わりゆくものなんだ。絶対的で、不変で、揺るぎなく自分を定義する言葉なんて存在しないんだ。

優しい自分も、薄汚れた自分も、真面目な自分も、姑息な自分も、全ては自分である。問題なのは、それらがどういう割合で自分を構成しているか、だ。果たして自分は、自分が心地いいと思える「分人」をスタメンに配置できているだろうか。その「分人」を産んでくれるような他者・環境を持てているだろうか。

この捉え方を知ったおかげで、以前よりは自分に下される評価に素直になれたのではないか。そう感じる。