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「恐れ」の正体は、ホントウの自分になると大事な人から愛されないと思い込んでいる状態だった。

僕は小さい頃から

「短気は損気」

と言われて育った。


それだけ見ると、至極ごもっともに見える内容だし

自分が尊敬し大好きな母親から言われ続けたことだから

何の疑いもなく、それを信じて守った。


だから

それを平気で破っている父親を見るのが

たまらなく嫌だった。

時折、ぶっ殺したくなるくらいの衝動に駆られる程

憎たらしい存在だった。


最愛の母は、もう15年以上前に他界した。

ガンで苦しんで亡くなっていく姿を見る当時の僕の悲しみは

計り知れなかった。


でも同時に、今振り返るとだけれど

何かから解放された感覚もあった。


その証拠に

母が死んで、わずか3ヵ月後に

僕は8年間勤めた大手の外資系を自社退社した。


当然、次の会社など決まっていなかった。

そのことからも明らかなのは

僕がイヤイヤながらも会社に長く勤め続けられたのは

ただひとり、母親がいたからなのだ。


そしてその1年後に再就職したものの

7年後に再び会社を辞めた。

そして離婚もした。

そして、心理カウンセラーとして独立した。


その時の僕は

「離婚」という人生最大の「恐れ」を乗り越えたこともあり

もうこれで自由になれたと思っていた。


が、これも今振り返ればわかる話だが

まだ「最大の恐れ」を越えていなかった。


まだ

「許せていない自分」がいたのだ。


それが

「短気な(怒りを出す)自分」

だった。


そして宇宙はちゃんと

そこと向き合う場所をセッティングしてくれた。


そう

あの父親と一つ屋根の下に暮らす

という展開だ。


ただ厄介なのは

その感覚は小さい頃から染み付いているものだから

自分でもわからないところからやってくる感情だったことだ。


つまり

「顔を見るだけでなぜか怒りが湧き上がる」

というものだ。


そこに理由などないように感じられるのだ。


さらに厄介なのは、それと同じくらい自分では気づけないところで

「その怒りを出してはいけない」

という感覚にも襲われる。


まさに、見えないところからパンチとキックが同時に飛んでくる敵と

戦わないければいけないような感じだった。


そういう意味で

父と過ごす時間は、拷問たった。


だからこそ

できるだけ顔を合わせないようにした。


でも、ことごとく彼は

僕がムカつくようなことを仕掛けてくる。


もちろん、それも今となれば「宇宙のサポート」なのだが

その場にいる自分には、到底そんな風には思えない。


そして、しばらくして僕は

もう抑えきれなくなり

ある時、父親に「怒り」をぶちまけた。


ただ、そこである程度スッキリした感覚はあったものの

「ネガティブな感情」は結局その後にも残ってしまったから


やっぱりできるだけ怒りたくない

だから父親とは関わりたくない

そう思う自分がいた。


ただ、結果的には

それが良い「リハーサル」になっていた。



今朝。



普段は精神的にゆとりがあるタイプの奥さんが

珍しくイライラしていた。


それは、僕らが朝早く起きて

奥多摩に遊びにいくことになっていたけれど

出かけるまでの時間が余りなかったからだ。


僕は基本的にマイペース。

自分のペースを乱されることを極端に嫌う。


だから、今朝彼女が僕に

イライラしたエネルギーのまま

あれやこれや否定的に指示をしてきた時に

僕の内側に「怒り」のエネルギーが現れた。


で、これまでの自分は

特に相手が自分にとって大事な女性だと

「怒りを出す」=「自分にとって大事な人(母親)を傷つける」=「愛されない」という「最大の恐怖」とほぼ無意識レベルで紐づいているから

ほぼ間髪入れずにそれを抑え込んできた。


しかし、親父とのやり取りのおかげもあって

そこで今までなら自動的に自分を押さえ込んできた「フタ」が緩んでくれていた。


つまり初めて

今まで「無意識」に処理されてきた局面において

「自分」という存在を

「自分」がちゃんと認識してあげることができたのだ。


そして僕は

自分がマイペースであることを棚に上げた上で

イライラした態度で僕に指図したことへの報復として

「怒り」を出した。


当然、「怒り」を出している最中の感情は

いい感情ではない。


だって、そもそも「怒り」は、「自分を否定された」という感覚から生まれるものだから。

相手にはそんな「意図」がなかったとしても。


けれど、今回は少し違った。

なんというか

「ホントウの自分を、初めて自分が大切にしてあげている」

という感覚を伴った「怒り」の表現だった。


そしてそれは

相手にとっても、そうした方が最終的にはいいことなんだ

という感覚も伴っていたものだった。


だからこそ

中途半端に自分の中に何も残らないように

遠慮なくちゃんと、「怒り」を出すことができた。


当然、その瞬間は

相手は相手で、それを心地よくは受け取らなかった。

なぜなら、相手には僕という「存在」を否定するような「意図」があってそうしたのではなく

彼女自身も遅れることへの「恐れ」があっただけだからだ。


だけれど

僕自身の感覚としては

今まで体験したことがない

まさに「感情の向こう側」に行けた感覚だった。


そしてハッキリとそこで体感できた。


「恐れ」「苦しみ」というものは

「ホントウの自分」を出すことが

大事な人を傷つける、悲しませるという思い込みから

「ホントウの自分」を出さずに

代わりに自分を傷つけることから生まれる「感情」であり


そしてその原因は、実はとてもシンプルで

人生のどこかで仕入れて鵜呑みにしてしまった

「ホントウの自分を出すのはイケないこと=愛されないことだ」

という「定義」を自分の中で設定して以来

ずっと自分の中で蓄積し肥大化し

自分の中であたかも「揺るがない真実」かのように見える

実は大した根拠のない信念

に端を発しているのだということに。


自分にとっては、とても「リアル」に感じられるものだけれど

それはリアルに「見せられている」だけなのだ。


「怒る」こと自体は、決してネガティブなことじゃない。

それはネガティブだとする「定義(意味)」を

「他の人」からそのまま受け取ってしまって

それをずっと握りしめてきたからこそ

その「状態」に対して、ネガティブな「感情」を味わうことになっただけなんだ。


今回、改めて「ビリーフ」というものの怖さを思い知った同時に

いわゆる「イヤだと感じさせること(人)」

そして「怖いと感じさせること(人)」は


あくまで自分が「本当の自分になることへの抵抗」を教えてくれているものだから

それがどんなに怖くても

向き合った方がいいのだと

改めて思いました。



とにかく、徹底的に

「ホントウの自分」を否定せずに愛すること。

それに尽きます。


なぜなら、「苦しみ」とは

ホントウの自分になることへの抵抗から

生まれるものなのだから。


そこさえ越えたら

人生ほど、ラクで、楽しくて、豊かで、幸せなものは

ないのだから。



最後にこちらも是非見てみてください。











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