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ニコラス・レイ検討 (2):日本における受容〈1〉

※まだの方はこちらからどうぞ:ニコラス・レイ検討 (1):序論

第1章 日本における受容

(1)”80年代”以前
 前章で記述した通り、ニコラス・レイの名が日本の映画雑誌において初めて登場したのは、はじめて日本で公開されたレイの作品『大砂塵』公開時の双葉十三郎による作品評[7]であったが、新作の”時評”としてでなく、ニコラス・レイを”題材”として取り上げた論考で一番古いものは雑誌『映画評論』における鮎川信夫の「中堅作家論」の言及[8]である。発表は1958年、日本国内では『大砂塵』公開後、『太平洋航空作戦』『追われる男』『理由なき反抗』『無法の王者』『にがい勝利』といった新作が比較的順調に封切られ、初期監督作『暗黒の転落』も日本公開を果たすなど、少なくとも、レイの名前自体は認知され始めていたと予想される頃だ。鮎川は以下のように述べる。「リチャード・ブルックスは、おそらくそうした二流監督のうちでは、いくらかましな一人であろう。ニコラス・レイもそんなところにちがいない。彼らの作品を数多く観たわけではないが、(中略)『理由なき反抗』『暗黒への転落』『にがい勝利』などから考えると、まだ確乎とした自己の世界を築くに至っていない未完成の作家のように見える」。またこうも書いている。「彼らの作品はアメリカにおける大衆の好みを強烈に反映させているところがある。そうでなければ、彼らの存在理由は、明日にも危うくなってしまうであろう」。
まず評の検証に入る前に、そもそも鮎川は(評の最後の肩書きに「(詩人)」とあるように)、そもそも映画を専門に扱う人物ではないこと、そして当時は現在と違い、劇場未公開の作品、あるいは封切時に一度見落としてしまった作品を容易に見ることができない時代であったということの2点を留意する必要があるだろう。「中堅”作家論”」と銘打たれていながら、本論で言及されるレイの作品は『暗黒への転落』『理由なき反抗』『にがい勝利』の3作のみであり、時折作品群を列挙した後に「等」という語が付されているものの、その他の作品に全く言及がない点から、鮎川はこの三本しかレイの作品を見ていないことが考えられる。そしてそのことが、この評における、論旨の根拠の希薄さ、印象論的な感覚の元凶と思われるのである。当時の日本では7本のレイの作品が公開されていた。鮎川は最初の段落ですでに、3本の作品を例に挙げつつ、レイの作品は「青少年の非行性の問題等、(中略)切実な現代的話題」を扱った作品であると述べ、「素材の力が、作家の力量を圧倒している」と結んでいるが、言及外の4本はむしろそうした題材を読み取るのが困難な作品であり、鑑賞作品の偏りが、作家性の誤った判断につながってしまっていることがわかる。誤った見立てを土台に積み上げられた作家論は、当然帰結も的外れにならざるをえない。本論は最終段落において、レイについて「単純な道徳家であって、ドラマの組立てはお粗末で通俗的」、「一風変わった病的なニュアンスを持っているが、彼の作品の欠点は焦点がぼやけて、強い一貫性に欠けていることである」と結論づける。しかし我々は知っている。レイの作家性は、過剰なほどの一貫性にこそあるのだと。『暗黒への転落』冒頭部で印象的に登場する”階段”の面影を、のちの『理由なき反抗』の劇中においても随所に見いだすことができるように。作品を見返せば、レイには複数のオブセッションの対象があり、むしろそれに囚われながらキャリアを積み上げていったことは明らか(詳しくは後述する)である。
 しかしながら、鮎川の論は極めて貴重な示唆を我々にもたらしてくれるものでもある。なぜなら、この論以前は、『大砂塵』後もレイが取り上げられるのはあくまで”時評”として作品単体の評価が下される時のみであり、監督としてどのような印象を持たれていたのかを読み取る術がなかったからだ。鮎川の論を読む限り、双葉による『大砂塵』の酷評以後、数作経てもレイの認知は、所詮「中級娯楽作品をさかんに作っている新進」のままのようである。また、現在は古典の一本に数えられている『理由なき反抗』も、当時はまだ”ジェームズ・ディーン作品”でしかなかったようだ。その証拠に、『理由なき反抗』の劇場プログラムにおいてもレイは監督としての表記こそされているが、5段組×4ページにわたる長大な作品解説の中では、最後の最後で申し訳程度に名前が言及されるにとどまっている。評の中でディーンの名前は32回も登場するが、レイはたったの一度きりである。
 ニコラス・レイ作品の中で最も認知されているであろう一作『理由なき反抗』のパンフレットにおいて、レイの扱いがあまりに小さかったことは前述の通りだが、次に当時『理由なき反抗』が映画雑誌でどのように受け入れられたのかを確認してみたい。『大砂塵』の後、『理由なき反抗』の前に、レイの作品は日本で3本公開されているが、批評対象に選ばれたのは『追われる男』、『暗黒への転落』の2作であり、ともに取り上げた雑誌も1誌のみであるため、ここでは一度割愛する。『理由なき反抗』は、初めてレイの作品が複数誌で時評された作品である。
 まず『理由なき反抗』を取り上げた3誌のうち、最も大きく誌面を占めているのは『映画評論』1956年5月号における額田弥栄子の評[9]である。写真が2点付されているとはいえ、3段組でまるまる3頁もの分量を割いている。しかしながらこの額田の評では純粋に作品自体に言及した箇所は少なく、彼女自身が感じた〝個人的印象〟に多くの行が充てられている。「十七才と云うと、私があの悲惨な戦争のさ中に放り出されていた年頃です。戦争と社会に対する不安と、親はいつまでも子供にとって絶対の存在であって欲しいと云う望みもからんで、私は盛んに父親の態度に反撥したものでした。親も又、一人の人間なのだという諦めに到達する迄の葛藤を、私は戦慄に似た気持で思い起すのです」という具合に。唯一具体的な記述は、論の中盤と終盤で一度ずつ、既存の同系統作品『暴力教室』(1955)、『洪水の前』(1954)の二作と比較がなされる部分であるが、ここでは額田の言い分が「「理由なき反抗」は、そう云った面(引用者註:不良少年の描写。『暴力教室』と比較して)からみれば、真面目な作品」であり、その一方で「あまりにもディーンの甘さを売り物にして観客へサービスしようと云う心がけが大きすぎ、作品の質を落としてしまったように思われます。「洪水の前」ではこのような甘さは一つも計算に入っていませんでした」というものであることのみ書き置いておきたい。
 次に大きなスペースで取り上げているのは、『映画芸術』1956年6月号の藤井重夫の批評[10]である。4段組の1ページ分をまるまる割いているこの評で、藤井は書き出しからこのように本作を位置付ける。「観ているときは、ただ面白かった。話の運びが巧くて、つじつまも合っており、引っかかるところなしに面白く観られた。あとで筋を逆回転させたり、人物と人物のカラミ合わせを辿ってみると、どうにも巧く話がいきすぎている」。ではいわゆる”酷評”なのかといえば、そうではないらしく「つじつまのあわぬ面白くない映画が多すぎる中で、結構なことだ褒めていいだろう」と最初の段落を締めくくった後は、まるまる全てストーリーを記述しながら、長所をリストアップして褒めていく。特に冒頭の警察署の場面の記述で「寒がっているプレイトウにジムが自分の上着を着せてやろうとする(ラストでプレイトウの骸に上着を着せる伏線)」、「子犬の射殺事件を扱って、母親の机の抽斗にはプレイトウが必要とするときいつでも持ち出せる拳銃が入っていることを観客に承知させる」などという具体的な脚本の分析もなされており、この当時の批評の中では最も論拠が明確なものといって良いだろう。しかし問題なのは、冒頭部で呈された苦言の論理的な回収が成されない点で、どこが「巧く話がいきすぎている」と判断されたのかがわからない。
 最後の一誌は『キネマ旬報』1956年4月下旬号の戸田隆雄の批評[11]だ。こちらは5段組のうちの4段を占めていて、前述の『映画芸術』とスペースはさほど違いはない。戸田は本作の家庭不和的な側面に好意的に触れつつも、「しかし、この映画に、これほど家庭環境の矛盾を認めることができながら、なお、不徹底の憾みを述べざるをえないのは、やはり、事件に関する興味に重点が置いているからである」と述べ、本作に登場する最も重要とすら言える”上衣”に関しても「ジムがプラトオ少年に三度も上衣を着せようとする行為の象徴性が何となく浮いて見えるのである。「あの子はいつも寒がっていた」という言葉を聞くと、この上衣は暖かい愛情を暗喩するものに違いないが、さて、ジムが父親の上衣にくるまるラストを見ると「愛情だけで解決できる問題だろうか」という疑問が湧く。なぜなら、こういう集団的不行跡は、ただに一家庭の問題ではなく、横に広く、社会や政治や時世に根ざすもののような気がするからである」と論を締めくくる。ここで注目しておきたいのは、”上衣”への指摘である。戸田はジェームズ・ディーンが着用する赤いジャケットを「暖かい愛情を暗喩するもの」と断定しているが、果たしてそうなのだろうか。本作において、この上衣——または他の赤い上衣——を着用している人物が、どのような状況にあるか思い起こしてほしい。まず冒頭、赤い上衣を着るナタリー・ウッドは、警察署で尋問中であり、劇中ただ一度涙を流す場面。そして全編、赤いジャケットに身を包むディーンは、絶えず家庭不和に苦しみ、同時に学校でも不良たちの標的になっている。そしてラストでは、サル・ミネオが赤い上衣を借り受けた直後に射殺されてしまう。赤い上衣は愛情を象徴するものなどではなく、むしろ”不幸”や”孤独”のシンボルであり、辛い展開を呼び込むものであることは、自明なものに思えてならない。戸田は本作の主題である”不良問題”と”家庭問題”の扱いの乖離に焦点を当てることを意識するあまり、ラストの展開、および赤い上衣の持つ意味を、自らの論を補強するものとして無意識に誘導解釈してしまったのではないだろうか。

〈次回(3)へ続く…〉


[7]『キネマ旬報』1954年11月下旬号、四九頁
[8]『映画評論』1858年5月号、46頁
[9]『映画評論』1956年5月号、64-66頁
[10]『映画芸術』1956年6月号、65-66頁
[11]『キネマ旬報』1956年4月下旬号、89頁

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