コンプレックスのいどころ
賢いことと、見た目がいいこと。この2つは現代社会でとても大事なことだと思われていて、それゆえにコンプレックスの温床でもある。
賢いことも見た目がいいことには共通点がある。まず、それが会えばすぐになんとなく分かること。それから、それなのに尺度が曖昧で、自己認識が歪みやすいということだ。
例えば年収の高い低いとか、身長の高い低いは客観的に測定できるものだ。なので事実に反して「自分は背が高いのだ」と思うことは難しい。一方で、周りから見ると大して見た目がよくないのに「私は容姿がいい」と思うことは簡単だ。そしてもちろん、反対に「私は容姿が悪い」と過度に思い悩むことも加納である。
もちろん頭の良さは学歴という指標もある。しかし「東大だからといって賢いわけではない。なぜなら受験勉強ができることは賢いことと違うからだ。」という主張はいくらでも成り立つ。そのために賢さもまた、自己認識が難しい。
コンプレックスは自己認識の問題なので客観的な優劣とは別に存在するだろう。リンクを貼った上記noteでは、「美人」の方がそれゆえに苦しんだ経験を書いていた。バチェラーデートで5段階中1.5の容姿評価の客観的不細工男性の私としては、及び難い心境だ。が、容姿は劣っていても私の方がよほど容姿にコンプレックスはなさそうだと思った。私はあまり自分の容姿について考えない。不細工な男性の私は自分の顔について言及される機会もほとんどなければ、自分の顔を起点として事件が起こることもない。無論低スペックなので自分の容姿に不満はあるが、それは「モテない」という機能面に対する不満であり、アイデンティティ・実存に関わる不安ではなく、恋人がいるときは彼女に対して「女友達に自慢できなくてすまんね」と思うくらいである。むしろ、外見で判断する連中を自動でフィルタリングできるのはそんなに悪いことではないなとも思っている。
一方で私は賢さに対するコンプレックスはそれなりに根深いものがあると思う。それは自分が進学校で青春を送ったことによるのかもしれないし、自分のアイデンティティの重要なところに偏差値というものが食い込んでいるのかもしれない。「東大だからといって賢いわけではない」という声は私自身が耐えず強迫観念的に意識していることなのだと思う。
なので私は人の悪口を言うときに明らかに「あいつブスだよな」ということよりも「あいつ頭悪いよな」ということの方が多い。その方が自然と熱がこもる。反対に他人の顔面が不細工か美人かということについてはあまり興味がない。
この前も、友達が家に来てある著名人と知り合ったという話をしていたのだが、その著名人のことが私はきらいだったので、猛然と私はその方の悪口を申し立ててしまった。これがなぜかというと私が嫌いな人は「自分のことを賢いと褒めてほしそうにしている人」なのである。その著名人は衒学的で詩的な文章を書く人で私はその文章が嫌いなのだった。これは完全に同族嫌悪なのだが、私は自分のことを賢いと演出したがる人のそこの部分は必要以上に鼻についてしまう。これはコンプレックスだろう。
反対に以前キャバクラに行った際(会社の付き合いで連れて行かれた、というようなものではなく自分自身の意思で行ったのだが)、私なんかは話すことがないのでアニメの話をしてしまっていたのだけれど、キャストの方が「そのアニメが好きだったけど声優のライブ見たら顔が良くなかったので萎えた」という趣旨の発言をしていて驚いた。私の中で声優の顔という概念がアニメ鑑賞に影響を与える感覚はゼロだったためである。私にとって容姿は興味の範囲外と実感した出来事だった。もちろんもしそのアニメの声優がアイビーリーグを卒業していたら私のそのアニメに対する評価は一段と上がっていたことだろう。
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