日記221029見たい現実だけ見るという人間の性について

人間は見たい現実を見る。それは、自分にとって都合の良い現実ということである。言い換えれば、その価値基準においては他人との間で存在価値を持つことができると言い切れる価値基準を根底に置いて世界を眺める。

それは露悪的な言い方をすると他人より優れている自分を発見できるという、他者との比較の中での価値基準なのかもしれない。だがそれだけではないだろう。他者に必要とされているという形での、それも搾取ではなくて尊重という形において必要とされているということでの、存在価値を求める基準ということもできるだろう。

それはしばしば、なんらかの形で自分の現実に対して鬱屈した思いを抱える人の中では、社会的によろしくない方向に現れることもあるのではないかと思う。その願望の向かう先が、新興宗教やマルチ商法の類もあるだろうし、ミソジニーや排外主義の形を取ることもあるだろう。

だがそこに対して、無邪気に、その罪や愚かさを弾劾することの怖さを僕はいつも感じる。

結局のところ、そうでない彼らを見てそうである僕らを「まとも」として位置づけるために絶えず行われる自己点検になんの価値があるのだろう。そうして「まとも」であることが果たしてなんのために必要とされているのか。それは自分自身の幸福の実現のために有用であるから? それとも社会規範の維持のために有用であるから? あるいは有用であるということではなく、「まとも」それ自体になんらかの意味があるのだろうか?

もし、それが自分自身の幸福の実現のために有用であるということが根拠であるのであれば、本当にそれは妥当なのか。つまり、「まとも」であることによって僕たちは幸福になれるのか? それは多数派と歩調を合わせているから? だが、多数派であれ、もしそれが他者との比較の中であれば必ず劣位のものは存在するし、また他者との関係の中で搾取されるものはいつだっているはずだ。善良な心を持って自分の好きなことにおいて努力をすれば報われるとする「まとも」な価値観がそれを信じる全員の幸福を保障するということは自明でないどころか嘘であるように思われないか。それによって幸福になれる人間は確かにいるだろう。だが皆がそうではないだろう。

もしそれが社会規範のために有用であるのであれば、我々が自分たちより重きを置いて生かすその社会とはなんなのだ? それは個人の自立に、人権というものに反するものではないのだろうか? 社会の維持発展が個人の生より重要であるという仮定を認めるのであれば、それは、とても恐ろしいことだとは思わないか。

それとも「まとも」それ自体に価値があるのであれば、それはただ真実に近いということによってであろうか。
真実、それはとても魅力的な言葉だ。真実に従うとは誠実であるということだ。それは、数ある倫理的美徳の中で検証可能な事柄である。客観的に見出される真実と彼/彼女の言動を比較すれば誠実さは検証できる。優しさや、思いやりを検証するのは難しい。優しさが何かは客観的に見出すことができないからだ。
しかし誠実であることが他の物事よりも重要視されるということはあるのだろうか。カントはどんな時でも嘘をついてはならないと言った。しかしそれは非常に疑問を感じる命題だと思う。それは検証可能であるということにおいて検証不可能なことよりも何か根拠を持って道徳性を主張しやすいからそういう風に言っているのに過ぎないと僕なんかは思ってしまう。

こういう風に考えて僕は、結論が出ず、考えるのを諦めて、「結局何がどうであれ、僕は今僕が見ているように世界を見ているということなのだ。」ということを考えようとして、この無意味な脳の過熱を抑えようとするしかない。

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