「おじ道」 おじの気持ち悪さについて
1.コメント欄におじは湧く。夏の日陰の水たまりのそばにある、湿度の高いぬかるみの近くにある石を裏返すように、若い女性のアカウント主へのリプライやコメントを見てみると、そこには確かにおじがいる。
2.おじは、もちろん益虫ではない。しかし多くの場合、はっきりとした害虫でもない。おじはそこで自分語りをする。主を褒めたりする。決定的なセクハラではない。決定的な誹謗中傷などでもない。それでも確かにそこにある一つ一つのコメントに対する違和感は、内容それ自体というよりも、むしろ量の過剰さである。
3.おじの生息圏には縄張りがある。以前登録者500人くらいの顔出し女性YouTuberの動画を観ていたとき(その時はなんとなく底辺YouTuber(というのは失礼だが、登録者が少ないのにYouTubeを更新している人)の動画をディグっていた)、そこのコメント欄に住んでいたおじに、怒られたことがある。私もまた一人のおじとして、何の気のなしにコメントをしたのだが、そのおじは自分の場所を荒らされるのが嫌だったのだろう。
4.おじはなぜキモいのか。「下心を隠そうとしている」ことがなんとなく見え透いてしまうのである。もしかしたらおじに下心はないのかもしれない。たまたまいいなと思ったコンテンツがたまたま若い女性のものでたまたまいつものようにコメントしただけなのかもしれない。おじの下心はまるでシュレディンガーの猫だ。「あり」つつも「ない」存在、その可能性は決して否定できない。でも、「下心を隠そうとしている」ように見えるのは、それが「返信を要求していないようで、返信をさせようとするメッセージ」だからだ。結局のところ、おじは、距離感が少しおかしい。
5.他人のふり見て我が振り直せ。私も無論、一人のおじだ。率直に、たくさんの人をキモがらせてきたと思う。具体的な自覚のある事件もあれば漠然とした感覚もある。ここまでおじの心理状態を分析できるのは私の中におじがいるからである。
6.それにしても、他人事になると本当に気持ち悪い。
おぢ。
えろ写メちょうだい?
7.時折、女友達から彼女のおじを見せてもらうことがあった。おずおずとしながら図々しい、あの、おじ特有の存在感を見て、私は腹立たしい気持ちになる。こういうおじのせいで私たち全体の評価まで下がるのだ。勘弁してくれ。世の中の連帯責任の仕組みに腹が立つ。あまりにも自分のおじ性に無沈着だと憤る。「なんてキモいんだ、俺ならこんなことしないな」。しかしそのコメント自体に、私の中のおじがいる。
8.恋愛のこじれやらコンパの破滅やらで女が憎くなるときに、おじが愛おしく思えることもある。もちろんある。私も、確かに、おじなのだ。その時にはおじの臆病さと、「いきたさ」と、プライドが、ほとんど我事のように思えていじらしい。涙ぐましい。銀杏boyzの曲のようだ。感動して、おじのコメントに同胞としてコメントしたこともある。だがそのおじは、女のコメントには返事を3つもするくせに俺のコメントにはいいねの1つで済ませやがった。そういうところがダメなのである。マジで。マジで。
9.私だけでない。あなたもおじだ。私たちは潜在的にみなおじである。おじを覗いているとき、おじもまた私を覗いている。
10.高校生の時にTwitterで間違えた距離感。合コンの後のラインで先走ったコメントに返されたスタンプ一つの苦味。数々の古い記憶が私をおじだと教えてくれる。
11.私の中でのおじポリシーは、他人に厳しく、自分に甘くである。あんまり考えすぎると何もできなくなってしまう。「まあ俺ならそんなキモいことしないけどね(笑)」
12.おじとして意識すべきは、相手が反応しやすい(拒絶も含めて)形で好意を表明することだと思う。「断りたいけど断りづらい」「ブロックしたいけどブロックが怖い」と思わせるのはおじとして目指すべき姿ではない。おじであれば自分のキモさにたじろいではならない。自分のキモさにこそ責任を持つのがおじ道ではないか。
えろ写メほしいなー
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