2022年に考えたこと
最近の僕の生活は機械的に実施される部分が随分多くなってきていまして、思考まっさらに何かを考える時間というのが一週間のうちに一度あればいいかなといった状況です。毎朝同じ時間に起きて、子供の世話や保育園への送迎、仕事、家事、勉強をいつも同じ手順で同じように行なっています。きちんとルーティン化して厳守しておかないと、小さなやり残しが干渉し合ってやがてそこそこの大きさの問題になってしまうので、そのようなものからダメージを受けないためにも適宜自分をマシン化しています。
そんな毎日を送っていると夜寝る前なんかに怖くなるんです。本来の自分を見失ってしまうのではないかと。以前の自分には不安定さ、執着心、成し遂げたいという熱がありました。過去の自分を写真で見ると、なんだか自分じゃないような気がしてしまいます。あの頃の自分は何をどんな風に考えていたんだろう。もしタイムマシンがあったら過去の自分と会って話したいと本気で思っています。
実家がなくなった
今年の春先のことなんですが、僕が高校まで過ごしていた久留米の家を手放すことになったんです。もう随分古い建物だったし、家族はみんな久留米を離れてしまっていたのもあって。荷物を片付けにいきました。地元の風景を目に焼き付けながら、地元の空気を精一杯味わいながら。
忘れたくないことがたくさんありました。もう今は連絡がとれない人たちとの思い出とか、再開発でなくなってしまった街並みとか。
あの時代、あの場所でしか体験できなかったことをあの頃の自分は体験していて、その記憶の断片がうっすら今の自分に残っているだけ。その事実がとても儚くどうしようもない無力感を与えてきます。
久留米の実家は昔を思い出すときの拠点でした。それが無くなってしまったことによって、今までそれを手がかりに手繰り寄せることができていた一定の質量のある記憶も失われてしまったような気がしてしまいます。
日常生活はルーティン化されていますが目新しい情報で溢れていて、過去の記憶はどんどん圧縮されて雑多な倉庫の片隅に追いやられていきます。僕にできることはあの頃熱心に聴いていた音楽をかけながらゆっくりと一つ一つ丁寧に思い出していくことだけです。なんとかしなければ、全て消え去ってしまう前に。
何を知らなければならないのか
今年の夏頃だったと思います。ゲルハルト・リヒターという芸術家の展示にいきました。そこでメインになっていた作品は抽象画だったんですが、モチーフになっているのは第二次世界大戦のナチスによる強制収容所でした。美術館の壁一面に大きな絵が展示してあったのですが、その時自分が感じ取れたものは非常に解像度が低いものでした。なんだか恐い、不気味だ、そんなものでした。
作者や他の鑑賞者が見えているものが自分には見えていないのだと思いました。この作品を理解するためには第二次世界大戦を知らなければならないんだろうと認識しました。
創作物の発想の源泉になるのは、大きな感情の動きだと思います。様々な感情のドラマが絵に限らず、小説、映画、音楽、何にでも含まれています。そのとき僕の中で、現代の作品の多くはそのルーツをたどっていくと第二次世界大戦に行き着くのではないかという仮説がうまれました。
とにかく戦争映画やドキュメンタリー映像をたくさん見ました。第二次世界大戦をドイツ側の視点から描いた作品、被害者側の視点から描いた作品、連合軍の視点から描いた作品など。
複数の視点から一つ一つ確認していくと、自分の頭の中に貯水池のような知識と感情のたまったものができました。映像を見たり用語を調べたりすることで、その池が少しずつ大きくなっていくことを感じます。その作業がなんだか今の自分にはとても心地よいです。
近況報告が何より
先月から今月にかけて、コロナ禍以降あまり連絡をとれていなかった人たちと連絡がとれて、食事をしながら色々と話ができました。毎年年末になると何となく連絡しはじめるんですが、今回は少し勇気をだして10年以上会っていない方々にも連絡をしてみて、会って食事をすることができました。
過去のどこかの地点で一緒にいた人たちと話していると、自分がもしこっちの道に進んでいたらどうなっていたんだろうという妄想の材料が手に入るような、人生の別ルートに思いを馳せることができます。数時間何気ない話をしているだけなんですが、そこで確認しあったお互いの近況話が帰路でじわじわと身に染みて暖まります。
思い出話をすることによって過去の自分に回帰できる瞬間があるかもしれないと少し期待があったのですが、実際は懐かしいと感じている今の自分がいるだけでした。方言を完全に忘れてしまったような、そんな感覚です。あの頃の自分とはそう簡単に会えないようでした。
クッキング
未来は勝手にやってきて温かいまま美味しく食べられます。しかし過去は自分の手で掘り出してうまく調理する必要があるようです。手間がかかる分、とても味わい深いものです。