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新訳ブラウン神父 「ブラウン神父のおとぎ話」

G.K. チェスタトンのFather Brownシリーズの各短編をわかりやすい日本語に翻訳した『新訳 ブラウン神父』、この記事は「The Wisdom Of Father Brown」に収録されている「The Fairy Tale of Father Brown」を訳したものです。




ブラウン神父のおとぎ話

 
 
美しい景観を誇るハイリッヒバルデンスタインはドイツ帝国を未だ構成する小さな国家であった。この小国がドイツ帝国の盟主であるプロシアの支配に下ったのは歴史的にはかなり後になってからのことである。フランボウとブラウン神父がその地の庭園で腰を下ろしてビールジョッキを傾けているその心地よい夏の日より50年と遡ることのない頃の話だ。すぐに明らかとなることだが、当時の戦や乱れた正義はこの地の人々にとっては未だ生きた記憶であった。ただしこの地の風景のみを眺めているとドイツの最もチャーミングな部分と言えるあるイメージがどうしても湧いてきてしまう。つまり芝居に登場するような料理番ぐらいに家庭的で父性溢れる王様のいる小さな国とのイメージである。無数の見張り小屋の脇で立つ番兵たちはおもちゃの兵隊かのようで、狭間の空いた城壁は金の陽光を受けてまるで金箔をまぶしたジンジャーブレットだ。それほどに空気も澄んでおりプロシアの王の離宮があるポスダムこそが欲しがりそうなプルシアンブルーの空が広がっていたが、その色彩はどこか子どもが絵具をふんだんに使って塗りたくったような勢いを感じさせるものであった。灰色の枝が広がる木々にさえ若さが感じられた。それらの枝々に付いた無数の新芽はまだピンクがかった色味でいて、絵具をべた塗りしたような青を背にそんな木々は子どもの描いたたくさんの模様のように映っていたからだ。
平凡な見てくれに実際的な職業に就いていたブラウン神父も、子どものように心の内に閉じ込めているだけでその身に空想の気を持ち合わせていないわけではない。うららかな天候と紋章のような形をした街の中の風景に触発され、彼はおとぎ話の世界に入り込んだような感覚を味わっていた。フランボウが愛用している剣の仕込まれてある恐ろしい杖に弟が兄の持ち物をめずらしげに眺めるかのような感心の目を送っていた。今その杖はミュンヘンの高いビールジョッキの脇に立てられている。気ままな空想ついでに神父は使い古した自身の傘の丸まった持ち手部分を眺めて、絵本に出てくる鬼の持つ棒を連想したりさえしていた。だがこの神父がフィクションとして何かを語るということはなかった。後に紹介するお話だけは例外である。
 
「こういったところでは、」
ブラウン神父が口にした。
「諍いが生じたとしても、本物の事件が生まれるのかなと思いますね。背景なんかはかなり格好いいですが、いざ戦うとなったときは厚紙の剣が出てきそうな気がします。」
 
「そりゃあ違うな、」
連れが言った。
「ここの人間だって剣でも、剣以外のものでも殺しをやってきている。それにもっとひどいのもな。」
 
「どういう意味です?」
神父が訊いた。
 
「いや、」
フランボウが返した。
「銃なしで人が撃ち殺されたなんてところは、ヨーロッパでもここだけだろうな。」
 
「弓矢でということですか?」
いくらか驚いた様子で神父が訊いた。
 
「銃弾で頭を撃ち抜かれてだ、」
フランボウが返した。
「この地を治めていた君主の話を聞いたことはないのか? 警察の捜査でも全く解明に至らなかった20年前の事件なんだが。知ってのとおりここの国家はビスマルクによる統一政策の初期段階で力により併合させられている。力によりとは言ってもそうやすやすとそれが成されたわけじゃない。帝国(もしくはそうなろうとしているところの国)は自分たちにとって都合のいいグロセンマルクのオットー公をこの地に送り込んで君主に据えようとした。さっき見た肖像画の男がそれだ。髪も眉も残っていてあんなハゲワシみたいにしわだらけになってなけりゃ、なかなかの男前だったろうなって顔だったけどな。だがこのオットー公は頭の痛い問題を抱えていた。というのも兵法に長けていて過去の戦績も悪くなかったその大公もこの地での戦いではけっこうな苦戦を強いられていたんだ。愛国心に燃える3人の不正規兵アルノルト兄弟の活躍によってオットー公側の兵はいくつかの戦いを落としていた。その名高い兄弟についてはスインバーンが詩に詠んだくらいだ。
 
 
オコジョの毛を持つ狼たち
王冠を被ったカラスたち
そんな者らが害獣のごとく溢れようとも
三士はこれに抗い続ける
 
 
まぁこんな感じだったはずだ。実際その3人がそのままでいれば併合自体もどうなっていたかわからない。だが兄弟のうちのパウルというのが突然これに抗い続けるのをやめた。それも卑劣なやり方でだ。そいつは併合後のオットー公の側仕えの地位と引き換えに、後に抵抗軍の壊滅につながった味方の機密情報をすべて敵側へ流すという暴挙に出た。それで街を攻められたときにさっきの詩で詠まれた中じゃあ唯一本物の英雄と言えるルートビッヒが剣を手にしたまま戦死してしまい、街もそのまま陥落した。3兄弟の残り1人であるハインリッヒという男は裏切り者ではなかったものの激しさを持ち合わせた兄弟たちと比べると気が小さくおとなしい男だったようで、信仰の世界に引っ込んでいった。クエーカーに似たキリスト静寂主義に傾倒し、それ以降は持ってるものを貧民らに分け与えにやって来る以外は人との関わりを断つ暮らしを送ったという。ちょっと前まではその男の姿もたまにこの地で見られたりしていたそうだけどな。黒いクロークを羽織って真っ白な髪で、目はほとんど見えてなかったそうだがその顔つきは驚くほど柔和なものだったって話だ。」
 
「ええ、」
神父が言った。
「その人は1度見かけたことがあります。」
 
フランボウは驚いた顔で神父を見やり、
「あんたがここに来たことがあるとは知らなかったな、」
と口にした。
「じゃ、このことについても俺くらい知ってるのかもわからないが、とにかくこれがアルノルト兄弟たちの話だ。その中で最後まで生き残ったのが今のハインリッヒという男だ。話のどの登場人物よりもな。」
 
「その君主も昔に亡くなったということですか?」
 
「亡くなった、」
フランボウが口にした。
「それは間違いない。暴君でやってきた君主にはありがちなことだが、その大公は段々と精神的に不安定になってきて被害妄想の気もかなり出るようになってしまうんだ。それで街の家の数より見張り小屋の方が多いんじゃねぇかってくらいに城の警備を昼も夜も固めて、疑わしいと感じた人間は容赦なく銃殺刑送りにしていった。迷宮みたいに部屋がいくつも連なる城の中でもいちばん奥にある自分の居室で1日のほとんどを過ごし、その部屋の真ん中に金庫か戦艦かってくらい内側をびっしりと鉄で覆った箱部屋を作らせた。さらにその部屋の地面には人1人が入ってちょうどぐらいの秘密の隠れ穴があったとも言われる。墓に送られるのが怖すぎて、自ら進んで似たような所へ入っていく気だったわけだ。だがオットー公はそれで終わらなかった。併合が成された時点からここの国民は武器を所持してはいけないことになってはいたが、そのヤバくなった時期のオットーはさらに、実際にそこまでやった国はほとんどないという文字どおりの完全な形での武器の放棄を強く求めた。そしてこの武器狩りは厳しく徹底的に行われた。目が届かないところもそうそうないこんな小さな国で、高度に組織化された役人たちの手によってな。人が持ち得るかぎりの力と技に懸けて、オットー公はハイリッヒバルデンスタインにはおもちゃのピストルさえ持ち込めないのを確実なこととさせた。」
 
「人の技術でそういったことを確実にすることなどできませんよ、」
枝に付いたピンクの新芽に目をやりながらブラウン神父が口にした。
「言葉の定義とニュアンスの難しさだけで考えても無理です。武器とは何です? 人はこれまでまるで恐ろしくも見えない暮らしの道具で殺されてきましたよ。やかんはもちろん、ティーポットカバーでだってあったでしょう。逆に今の時代のリボルバー銃を古代ブリトン人に見せてみれば、彼らはその体に弾が撃ち込まれるまでそれを武器だとも認識しないでしょう。だから全く新奇の、銃器とは思えないものを持ち込んでいたのかも知れませんし。その弾は何か特徴はあったのですか?」
 
「そうは聞いてない、」
フランボウが返した。
「だがこっちの情報も当時わかったことのすべてを押さえているわけじゃないかも知れないからな。今しゃべっているのは全部グリムって連れから聞いたことだ。ドイツの優秀な刑事だった男で、俺のことをつかまえようとしたんだが逆に俺に心をつかまれちまったみたいでな。それでいろんな話をしたよ。当時オットー公についての調べを担当してたらしいが、弾については聞き忘れたな。とにかくそのグリムの話じゃ、起きたことはこうだ、」
と言って黒いラガービールをひと飲みで半分以上流し入れてからフランボウが続けた。
「事件当日の夜、オットーはその到着を待ちわびていた客人たちと会うために表側の大広間に来ることになっていたようだ。その客人らというのは、この国のどこかの岩山に眠っているとされる金脈の場所を突き止めるために彼自身が招いていた地質学の専門家たちだった。だいたいこの小さな都市国家が大国による侵略の脅威に晒されているときでも隣国と対等な付き合いができたのには、国土内にあるとされるその金脈の存在が長らく一定の信用を勝ち得る役目を果たしてきたからだとも言われてるんだ。だがそれまでは徹底的に調べさせたにも関わらずその場所はつかめなかった。おもちゃの──」
 
「おもちゃのピストルでさえ確実に見つけるような調査でも、ですね、」
ブラウン神父が笑みを浮かべて言った。
「でもその兄弟の裏切り者はどうだったんです? その男がオットー公に何か言ったりはしていないのですか?」
 
「そいつはずっと自分は知らないと言い張っていたらしい、」
フランボウが返した。
「兄弟たちはそれだけは教えてくれなかったと。不完全ながらその主張を裏付けるような言葉が残されてる。兄弟のうちでいちばんの英雄だったルートビッヒが死に際に発したとされる言葉だ。そのときルートビッヒはハインリッヒの方を見て、手はそのパウルの方を指しながら、“あいつには言わなかったんだな.. ”と口にした後に事切れてしまったらしい。それで、ベルリンやパリからの地質学や鉱物学の名高い専門家たちから成るその調査団だが、そんな一団にふさわしい堂々たるいで立ちでいた。まぁ英国学士院の夜会でも覗いてみればわかることだが、科学者くらい勲章を着けたがる人種もないくらいだからな。その歓迎の会は遅い時間ではあったものの華々しく執り行われることとなった。だが側仕えの男はだんだん心配になってきた。そいつの肖像画もさっき見ただろ? 黒い眉に鋭い目で、口元に意味なく笑みを浮かべてたが。あれが例の側仕えなんだが、その男が歓迎の席にオットー公の姿だけがないことに気がついた。それで表側にある他の広間も探しまわってみたが見つからない。そこで側仕えは主人がまた恐怖に駆られる発作に見舞われたのかと思い、いちばん奥側にある主人の居室へと向かった。だがそこにもオットーの姿はなかった。その真ん中に鎮座している鉄の箱部屋を開けるのに少し手間取りながら何とかそこも開けてみたが、またしても空だった。側仕えはそれから床下の穴も確かめてみた。穴はいつもより深く感じられて、より墓の中のようだったと後にその男は証言している。そしてまさにその穴を覗き込んでいるときに、大広間のある方や廊下のあたりから騒ぎ声のようなものが聞こえてきたという。
それは最初は思いもよらぬことが起きてどよめいている群衆の声といったものが遠くから、城の外からかと思うほど薄く聞こえているだけだったが、次第に驚くほど近くから聞こえるようになって、声が重なってさえいなければ何を言っているかもわかっただろうというほどのボリュームで耳に入ってくるようになったという。そして最後に言葉もはっきりとわかる声が近づいてきたかと思うと側仕えのいた君主の居室に男が駆け込んできて、そんな知らせを行うとき特有の単刀直入さでズバッとニュースを伝えたそうだ。
ハイリッヒバルデンスタインの統治者にしてグロセンマルクの統治者でもあるオットー公は城の外にある森で露にまみれた状態で見つかった。仰向けで両手を投げ出すような格好で横たわっていて、砕けたこめかみかあごのあたりから未だに血が滴り落ちていたが、それがその体のうちで何らかの動きを示す唯一のものだったという。客人たちに面会するための礼装だったんだろう上下黄色と白と軍服姿でいたが、飾り帯かスカーフと思われるものはしわくちゃの状態で脇に落ちてあった。その体を持ち上げる前からそれが死体であることはわかっていたが、死体だろうと何だろうとその存在自体が謎でしかなかった。常に城の奥の奥にある居室で身を潜めるようにしていた男が、なぜ武器も持たずにそんな露に濡れた森へと出ていたのか?」
 
「死体を発見したのは誰なんです?」
ブラウン神父が訊いた。
 
「城内で働いていたヘートビッヒ フォン 何とかっていう若い女だ、」
フランボウが答えた。
「花を摘みに森に入っていたんだと。」
 
「花は実際に摘んでたんですかね?」
頭上の枝々にぼんやり目をやりながら神父が訊いた。
 
「ああ、」
フランボウが返した。
「それは覚えてる。その側仕えの言葉だったかグリムだったか、また別の奴の言葉だったか忘れたが、かなりゾっとする絵面だったと後に語った人間がいるからな。大声で呼びかけるその娘の声を聞いてその場に向かってみると、花を手にしたようなそんな若い娘が地面に横たわる体を、血まみれのその体を覗き込むようにしていたという。だが要点としては、もう助けも何も呼ぶ前にオットーは絶命していたということだ。そしてこのニュースはすぐに城にいる者たちの耳に入れられた。それを聞いた者たちの狼狽ぶりはただ王宮で君主の死を知ったという以上のものがあったという。その異国からの訪問者たち、特に採掘の専門家やプロシアの役人たちは気持ちの混乱や神経の高ぶりなんかを露わにしていた。要するにそのお宝採掘のプロジェクトというのは外野が考えていたよりずっと影響の大きいものだったということで、そういったことがすぐに明らかになっていった。その専門家や役人たちには巨額の成功報酬や国家間の便宜などが約束されてたんだ。そんな連中の中にはあの大公が奥の居室に身を潜めたり兵を増強したりしていたのは、民衆の反乱を恐れていたからというよりそれの調査を個人的に進めていたからだと言い出す者も──」
 
「その花の茎は長かったのですかね?」
ふいに神父が訊いた。
 
フランボウは連れの神父のことをまじまじと見ながら、
「.. やっぱりあんた変わってるなぁ、」
と発した。
「グリムの爺さんも同じことを言ってたよ。そこがいちばん、血や弾丸なんかよりも見苦しく感じられたんだと。花のすぐ下でちぎられていたその短い束が何とも不格好だったと。」
 
「当然のことながら、」
神父が口にした。
「もう大きい年齢となっている娘さんが本当に花を摘むのであれば、茎を長くしてやるはずです。子どものやるように花のあたりだけを取ったということは、どうも.. 」
とそこで言葉を止めてしまった。
 
「どうも.. ?」
連れが促した。
 
「どうも心に焦りを抱えた状態で摘んだように思えますね。 .. 後、.. 森に来た後で、口実作りのために。」
 
「どこへ持っていこうとしてるかわかるよ、」
フランボウがむっつりとして言った。
「けどその疑いにしても他の疑いにしても、すべてこの一点で崩れることになる。武器の欠如だ。あんたの言うとおりいろんな物が凶器となり得ただろう。軍服の飾り帯だってな。だがこのケースで解き明かさないといけないのは、どう殺されたかじゃなくてどう撃ち殺されたかなんだ。そしてそれは解明不可能な謎だ。その娘はかなり念入りに調べられはしたんだ。そのヘートビッヒというのは例の裏切り者の側仕えパウル アルノルトの姪で被後見人という立場ではあったが、実際問題として容疑者の1人と考えられていたわけだからな。それにその娘にはどこか地に足がついてない空想的なところがあったというし、一族の革命への情熱をその身に受け継いでいるんじゃないかと疑われた部分もあったしな。だがどんなに空想的だろうが銃も使わずに誰かの頭なりあごなりに弾を撃ち込むことができるんじゃないかと思う奴はいない。そしてそこに銃はなかったんだ。2発発射されたにも関わらずな。あんたにこれを預けとくよ。」
 
「どうして発射されたのが2発だとわかったのです?」
神父が訊いた。
 
「頭に撃ち込まれていたのは1発だけだったが、」
連れが答えた。
「死体のそばに落ちていた飾り帯にもう1発分の穴が空いてたんだ。」
 
普段の穏やかな目元の眉のあたりにふいにしわを寄せながら神父が、
「別の弾が見つかったということですか?」
と訊いた。
 
フランボウは少しぴくっとなってから、
「いや、それは覚えてないな。」
と返した。
 
「待ってください、待ってくださいっ、」
その眉をますます寄せながら神父が発した。好奇心が高まって神経を集中させたいときのめずらしい姿だった。
「礼儀知らずと取らないでほしいんですが、少し考えさせてください。」
 
「わかった。」
フランボウはそう返して笑ってから、ビールの残りをぐいっと飲み干していた。柔らかい風が新芽を付けた枝を軽く揺らしてから空へと舞い上がっていった。白やピンクの色味を帯びた小さな雲たちがその空をさらに青く見せ、全体の風景をよりユニークな色彩のものにしていた。この空を小さな天使たちが飛んでいって天の子ども部屋の開き窓へと帰っていっているのかも知れない。城で最も古いドラゴン塔がビールジョッキのように奇妙にそびえ立っていたが、ビールジョッキと同じく素朴でやぼったく映ってもいた。その塔の向こうで煌めきを見せている森の中で、その君主は死んでいたのだ。
 
「そのヘートビッヒという娘は、その後どうなったのです?」
ブラウン神父がようやくそう尋ねた。
 
「シュバルツ将軍に嫁いだよ、」
フランボウが返した。
「その男の経歴は聞いたこともあるだろうが、かなりドラマチックだ。サドバやグラバロットの戦いで手柄を上げる前から出世街道を歩んでいたらしい。階級を駆け上っていった男で、これはいかにドイツの小国と言えどかなり異例の──」
 
そこで神父はパッと顔を起こしていた。
 
「階級を駆け上っていったっ.. 」
そう声を上げて神父は口笛を吹こうとするかのような口元を作っていた。
「いやいやいや.. なんと変わった話かっ。人を殺すなんと変わったやり方かっ。でも可能性としてはこれしかないようですね。それにしても憎しみがそう長く続くものなのか──」
 
「どういう意味だ?」
フランボウが迫った。
「その男をどう殺したというんだ?」
 
「飾り帯で殺したのですよ、」
神父がゆっくりと返答した。そして連れの反論を受けて、
「ええ、ええ、銃弾のことはわかっています。飾り帯によって死んだと言った方がよかったですかね。こう言っても、病気によって死んだというのと同じようには響かないでしょうが。」
と言った。
 
「察するに、」
フランボウが言った。
「もうあんたの頭には何かの考えが浮かんでいるみたいだが、それでもその死体から弾を抜くのは簡単な作業じゃないぞ。その男の死因がもし首を絞められたことによるもんだったとしても、頭に弾を撃ち込まれてることに変わりはないんだ。誰によって? 何を使ってだ?」
 
「彼は自身の命令により撃たれたのです。」
神父が返した。
 
「自殺、ということか?」
 
「自身の望みでとは言っていませんよ、」
神父が言った。
「自身が命じたことによってです。」
 
「あぁ.. とにかくどんな説なんだ?」
 
神父は笑って、
「今はただ休暇中ですから、」
と返した。
「説などというものでもありませんが、でもここの景色はお話の世界を思わせることですし、そんなお話を1つしゃべってみるのは構いませんがね。」
 
ピンク色の甘菓子みたいな小さな雲が金箔の貼られたジンジャーブレッドのような城の小塔のあたりに漂ってきていて、ピンクの新芽を付けた枝々がその雲をつかもうとしているかのようだった。青い空にそろそろ夕刻の明るい紫が混じるようになってきた中、ブラウン神父がまたふいに口を開いた。
「グロセンマルクのオットー公が自身の城を抜け出して脇にある門から足早にその森へと向かったのは、まだ雨の残りが木から滴り露もすでに落ちてきていた陰鬱な夜のことでした。多くいる警備兵の1人がその姿に気づいて敬礼してみせましたが、オットー公はそれには気づきませんでした。そして彼自身、誰にも気づかれたくはありませんでした。雨で濡れた灰色の大きな木々の中へと入っていったときにその身がすっぽりと湿地に包まれたように感じて、彼は少しホッとした気分となっていました。彼がここの森を選んだのは城を抜け出るときにいちばん人と顔を合わせる確率が低い側とわかっていたからです。それでも彼が望んだ以上に人の姿はありましたが。ただお節介からなり儀礼的にそうしないといけないと感じる心からなりで誰かに付いてこられる心配というのはこの場合は特にありませんでした。この外出は急に決めたことで誰にも伝えていなかったのです。ほったらかしにした異国からの客人たちは問題ではありません。そんな者たちは必要ないことを彼はふいに悟ったのですから。
オットー公の心を捕えて放さなかったもの、それはより高尚と言える死への恐怖ではなく黄金に対する異常なまでの欲でした。その黄金が眠っているという伝説のためにグロセンマルクを離れてハイリッヒバルデンスタインを征服したのです。そのためにこそ卑怯な裏切り者を受け入れて英雄を叩き潰し、嘘をしゃべっていないと納得するまでその邪な側仕えを問い質し続けました。そのためにこそ渋々ながら人に金を払って褒美も約束し、その先のより大きなお宝を手にしようとしたのです。そしてそのためにこそ、コソ泥みたいに人目を憚りながら自身の王宮である城を抜け出したのです。自分の最大の望みを叶える別の手だて、それももっとお金のかからない手だてを思いついていたからです。
彼が登ってきた曲がりくねった山道のいちばん高くなったところの先、街を見下ろすようにそびえる尾根に沿って立つ柱状の大岩の間にその隠遁所はありました。入り口がいくらかイバラに覆われたそんなただの洞穴こそが、あの名高い兄弟の3人目の男が俗世から離れた暮らしを送っているところです。オットーはこんな風に考えていました。今のあの男に金脈の在り処をしゃべることを拒む理由はないはずだ。あの男はずっと前からその場所のことを知っているにも関わらずそこを掘って金を掘り当てようともしていない。禁欲的な教義に傾倒して財産所有や快楽の一切を断ち切る前からそうはしていないのだ。敵どうしであったことに違いはないが、今やあの男は敵を持たない信条を明言している。そんな信条の諸々を許容する態度をこちらが見せてやって、その理念に訴えかけるように言葉を弄してやれば、金銭的なことに関する秘密などじきにしゃべってしまうだろう.. 城の警備をあれだけ厳重に固めていたオットーも決して臆病者ではありませんでした。怖さを感じる心よりも欲の方が上まわっていましたし、第一、怖さを感じる理由もそうなかったんです。自国の国民が武器を一切手にできないようにさせてあるとの自負がありましたし、ましてやこんな山の上にあるクエーカーの小さな隠れ処にそんなものがないことには確信がありました。草を食べて暮らすその男の住み処には年配の従者が2人いるだけで、それ以外の者の声などもう何年も聞かれたことがないところです。オットーは明かりの灯る四角い迷路のような街を見下ろし、顔をニヤリとさせました。見渡すかぎりの景色の中に小銃を抱えた警備兵隊がくまなく配備され、敵の火薬などどこにもない。そんな兵はこの山道の近くにも配備されてある。ここから叫び声を上げればその兵らがすぐに山道を駆け上ってくるだろう。それに森やこの尾根のあたりも一定の間隔で巡回に来るようになっている。ここからはかなり小さく見える川向こうの暗い森にも警備兵隊は備えてあるのだ。つまりどんなルートを使っても敵がこの街に潜り込むことは不可能。城にしても西門、東門、北門、南門それぞれの前に、それ以外にも城自体をぐるっと囲むようにして兵を配備させてある。安全は保証されているのだ..
そんな思いで頂上まで登っていき、かつての敵だった男の住み処というのがあまりにも何もないところであるのを目にしたときにオットーの心はますます安心感を得ることができました。三方の急斜面の上にふいに平らな岩の部分が現れ、その奥に緑のイバラにいくらか覆われた状態で暗い洞穴が口を開けていました。入り口はかなり低く、人が入っていけるものとも思えないくらいです。その前方は崖となっていて、雲のかかる深い谷の景色が広がっていました。この小さな岩棚の上には古い青銅製の聖書朗読台か読書台かが置かれてあって、それが先端に載せられたドイツ語の大きな聖書を苦しげに支えていました。その台の青銅か銅かは高地の空気にやられて緑に変色していて、それを見たときにオットーはこう思いました。もし銃器を持っていたにしても今頃は錆びきっているに違いない.. 雨はすでに上がっており峰々や岩山の後ろから月が昇りはじめていて、日の出とは色違いの生命感のない光景を形づくっていました。
聖書台の前に、谷側に向いて立つ1人の老人の姿がありました。着用している黒のクロークは後ろに見える切り立った崖ぐらいにまっすぐ下りてきていましたが、その男の髪は真っ白でいて弱々しいその声は風の揺れる音を思わせました。その男はどうやら日々の行として聖書の教えを朗読しているところのようでした。“彼らは馬を信ずる..”
ハイリッヒバルデンスタインの君主は普段と全く異なる丁寧さでこう声をかけました。
“失礼ですが、少しだけあなたとお話しさせてもらいたいんですが”
“.. 戦闘馬車を信ずる、”
その老人は弱々しい声で朗読を続けています。
“だが我らは万軍の主の名にかけて.. を信ずる.. ”
最後の方の言葉は聞き取れませんでしたが、その老人はそれから恭しく本を閉じ、ほとんど目が見えていないようで手で探るようにしながら聖書台をつかんでいました。そのタイミングで2人の従者が洞穴からするりと抜け出てきて、老人の体を支えていました。従者たちはその老人と同じく褪せた黒色のクロークを羽織っていましたが、どちらの髪の毛も白くなってはおらず表情にしても品よく固まったものではありませんでした。彼らはクロアチア人かハンガリー人の貧しい農民で繊細さを感じさせない大きな顔を抱えていました。それを見たときに初めてオットーの心に不安めいたものがよぎりました。でもその度胸と駆け引きの才を萎ませることなく彼は、
“そちらとはあれ以来会っていないかと、”
と声をかけました。
“気の毒にもあなたの兄弟が命を落としたあのすさまじき砲撃戦以来”
“兄弟はみな死にました、”
その老人が谷の方を向いたままそう口にし、首だけをくるっと動かしてその優美な顔をオットーの方に向けました。白い髪の毛が氷柱のようにその伏し目がちの目元にかかっていました。そこから老人は、
“ご覧のとおり、私も死んでいる”
と付け加えました。
“わかっていただきたいんだが、”
相手の心をほぐすように言い様を調節しながらオットーが声をかけました。
“こちらはあの大きな争いの亡霊としてそちらを苦しめに来たのではありません。あの争いにおいてどちらが正しかった、間違っていたという話はしない。ただ我々が常に間違わず認識していたことが1つあります。そこについてはそちらもずっとブレることはなかった。あなた方一族がどんな考えで行動していたにせよ、黄金に突き動かされていたわけではないことは誰も、一瞬たりとも疑っていない。あなた方の行動がそれを証明して──”
黒いクロークを着たその老人はそれまで潤んだ瞳を大公の方へ向けてわずかに見識を抱えたような顔つきでいましたが、“黄金”という言葉が出るとふいに何かの発作が出たかのようにパッと両手を前に広げるようにしてから顔を谷の方へと向け戻してしまいました。
“彼は黄金のことを口にした、”
その老人が言いました。
“背徳のものを口にした。しゃべるのをやめてもらおう”
オットー公にはプロシア人の伝統と典型に則った悪弊が具わっていました。成功を1つの事象とは取らずに変わらぬ性質かのように捉えてしまうのです。彼は自分や自分と同系統の他を征服する側の人間は、他から征服される側の人間を常に征服し続けることになるのだとの認識を抱いていました。そのため彼は不意を突かれたときの感覚というものをほとんど味わってこないできましたし、そんな場面で対処をした経験も不足していました。だから“それ”が行われたときには、ただ驚いて身を固めてしまったのです。その隠遁者に言葉を返そうとオットーは口を開いているところでした。そのときになぜか口が動かせなくなり、滑らかな肌触りであるもののかなり頑丈な何かもので止血処置をするときのように口元をきつく締められ、声も出せなくなりました。そこから彼が自身の身に何が起こったか認識するまで実に40秒の時間が過ぎていました。こんなことをやってきたのはあのハンガリー人たちで、いま自分の口を締めつけているのは他でもない自らが身に巻いていた飾り帯なのだと。
そのときクローク姿の老人の方は弱々しく青銅の台のところへ寄っていき、そこに載ってある大きな聖書のページをめくりだしました。気味が悪いほどの気長さでぺらりぺらりとめくっていってヤコブ書のところを開け、その文を読みはじめました。
“舌は身体の小さな一部分なれど──”
その声の響きにはオットーの体を即座に後ろに向かせ、来た山道を駆け戻らせる何かがありました。彼はただただ無心で駆け下り続け、城の敷地の庭まであと半分というところまで来て初めて、口元から首のあたりを締めつけている帯を剥がしにかかりました。でも何度やってもそれを取ることはできませんでした。あのハンガリー人たちはわかっていたのです。その結び目は前に持ってきた両手でなら解くことはできても、頭の後ろに持ってきた両手で解くことは無理なのだと。足はシカ並みに跳びはねることができ、手にしてもどんなジェスチャーや合図をすることもできるほど自由が利くのに、声を発することだけができません。魔物に言葉を奪われてしまったのです。
城を囲む森の近くまで来たときに彼は声を出せないということの意味と、その状態にさせた者たちの意図を悟りました。オットーは山道を登るときにしたのと同じように明かりの灯る四角い迷路のような街を眺めました。その顔にニヤけたような表情は一切浮かんでいませんでした。少し前にそれを眺めながら思ったことが今、強烈な皮肉となって返ってきていました。見渡すかぎりの景色の中に小銃を抱えた自身の兵隊たちがくまなく配置されています。誰何に返答をしなければ、そんな兵から銃撃を受けて殺されてしまうでしょう。この森から近いところにも警備兵はいて、森や山の尾根あたりにも巡回に来ることになっています。だから朝までこの森の中で身を潜めているわけにもいきません。敵が街に潜り込むことができないよう警備兵隊はかなり遠くにも配されていますから、彼が街へ忍び入るためにどんな回り道をしても無駄ということです。自分が一声叫べば警備兵が駆けつけてくるということでしたが、今その声が出せないのです。
月はすっかり昇ってその銀色の輝きを増していました。松の木々の黒い影の間から夜の青さを擁した空が覗いていて、黒と青の縞模様を形づくっていました。月明かりによって色を失う代わりに光を与えられた大きく柔らかそうな花々(そういったものを見てこなかったオットーに何の花かわかるはずもありません)が木の根を囲むように群がっている様は何とも幻想的でした。奇妙な形で囚われの身の状態を味あわされているうちに、その理性がふいに頭からずり落ちたのかも知れません。その森の中でオットーはおそろしくドイツ的なものを感じていました。おとぎ話です。鬼の城に近づいていっているような感覚がありました。自分がその鬼であることは忘れていました。子どもの頃、うちの庭に熊は住んでいるの?と母親に尋ねたことを思い出していました。彼は花を摘むために地面に屈み込みました。その花が魔法にかけられた自分を護ってくれるお守りであるかのように。彼の思った以上に固かった茎をパチンと手折り、花を飾り帯にかけようとその手を胸のあたりに持っていって何度か引っかける動作をしました。そのときに、“そこにいるのは誰か?”という声が聞こえました。そこで初めてオットーは飾り帯がいつもの位置にないことを思い出しました。
彼は叫ぼうとしましたが声は出てきませんでした。2度目の誰何の声が聞こえ、そこから空気を切り裂く甲高い音が鳴り響いたかと思うと、弾が何かに当たって、その音は一瞬のうちに途絶えてしまいました。グロセンマルクのオットー公はおとぎの森の中で静かに横たわっていました。もう金でも鉄でも何もすることはできません。ただ月明かりの銀の光の束が、横たわるその体を包む軍服に付いた飾りの複雑な模様やその顔の眉間に刻まれたしわなどを照らし出していました。亡き者の魂に神のご慈悲を。
警備兵の任務として君主から厳しく命じられていたことに従い、その場で発砲した兵士は当然としてその標的がどうなったかを見るために駆け寄ってきます。その男というのは後に軍人としてのキャリアを駆け上ることになるシュバルツという名の兵卒でした。彼が見つけたのは地面に横たわる禿げ頭を抱えた軍服姿の男でした。ただ顔の下側にはその男自身の飾り帯が巻かれてあって、その顔のなかではっきりと見えたものは月の光に反射する石のように固まった瞳ぐらいでした。弾丸は巻かれた飾り帯ごと男のあごを撃ち砕いていました。飾り帯に穴が空いていたのはこのためで、発射されたのは1発のみだったのです。次に取る行動として当然かつ正しいとも言えることとして、シュバルツ青年は死体の顔からその謎めいた絹の覆いを取り去り、それをポイッと草の上へ投げました。そこで彼は自分が撃ち殺した相手の正体を知るのです。
その後に起きたことは本当に憶測となりますが、でもそんな恐ろしい場面でもやはりおとぎ話的な展開があったのではないかと思います。その窮地を救って後に結婚することとなる兵士をヘートビッヒという娘が元々知っていたのか、その夜に初めて出会って2人の関係が始まったのかはわかりませんが、確実に言えることはそのヘートビッヒはかなりの女傑であって後にいくらか英雄と見なされる男と結ばれるにふさわしい女性だったということです。その場で彼女が取った行動は大胆かつ機知に富むものでした。まずその兵士を説得してそのまま自身の部署へと戻らせました。これでその惨事と彼を結びつけるものはありません。同じ部署に所属する他の50人からの忠実で従順な兵士たちと何ら変わらなくなったわけです。その場で残っていた彼女はそこから大声で叫び、その死体を発見させました。彼女とその惨事を結びつけるものもありません。彼女は銃器を持っていなかった、持ちようがなかったわけですからね。
さて.. と、」
そう口にしてブラウン神父はすくっと立ち上がった。
「2人が幸せならいいですがね。」
 
「どこに行くんだ?」
フランボウが訊いた。
 
「もう1度その側仕えの、アルノルト兄弟の裏切り者の顔を拝んでおこうと思いましてね、」
神父が返した。
「彼はその件にどんな関わりがあった.. のか。.. .. 裏切って付いたところをまた裏切れば、裏切り者としてマシということになるのでしょうかねぇ。」
 
その肖像をしばらく眺めながらブラウン神父は何かに思いを馳せているような様子でいた。白い髪に黒い眉を抱えたその肖像画の男は血色のよさそうなその顔に取って付けたような笑みを浮かべていたが、それとは裏腹にその瞳からは黒い警告の光が放たれていた。
 




 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


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