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カジュアル シャーロックホームズ 「点々の帯」


コナンドイルのシャーロックホームズシリーズ各短編を現代風のカジュアルな日本語に翻訳した『カジュアル シャーロックホームズ』、この記事は「The Adventures of Sherlock Holmes」内に収録の「The Adventure of the Speckled Band」を翻訳したものです。



点々の帯

 
 
友人シャーロック ホームズに付いてこの8年間、彼が行う捜査をつぶさに観察し記録してきた70余りの資料をざっと見返してみると、多くの悲しい事件や少しおかしみを感じるような件もいくらかあったが、その大部分はただただ奇妙な事件だった。いわゆる普通の件など1つもない。そもそもホームズという男が探偵業をやっていたのがそれで金持ちになりたいわけではなく、難解な謎を解明していくことに彼自身が悦びを感じていたからだ。だから彼は普通と違うところがあったり、もっと言えば現実離れした異様な趣を持ったケースにしか最初から関わっていかなかった。そんなバラエティ溢れる事件の記録の中でもサリーの有名な一族、ストークモランのロイロット家にまつわるあの一件以上に奇妙だったものというのはちょっと思い出せない。あれがあったのは僕がホームズと関わるようになって比較的初期、まだ僕が独身でベーカー通りの部屋で彼と同居していたときのことだった。この件についてはもしかしたらもう少し早く事件簿に含められていたかも知れない。が、当時は依頼人に秘密の保持を約束していた。今回、期せずして先月その当人が亡くなったことで秘密を守るべき相手もいなくなり、それについて執筆し、発表する運びとなった。ロイロット医師の死については本当のところ以上に気味の悪い噂が立っているのが耳に入ってきているから、ここで真実を明らかにしておく方がいいぐらいだろう。 
   
83年の4月上旬、朝に目を覚ますと、ベッドのそばにすでに着替えを済ませたシャーロック ホームズが立っていることに気づいた。ふだんの彼の朝はもっと遅い方であるのに、だ。マントルピースに載った時計に目を向けると、針は7時を15分過ぎたあたりを指していた。僕は驚いたのと、少々の苛立ちを込めて目をしばたかせながら彼のことを見た。自分の習慣はわりと決まっていた方だったのだ。 
   
「起こしちゃってごめん、」 
ホームズが言った。 
「でも今日はみんな同じ目に遭ってるから。ハドソンさんもたたき起こされたみたいで。ハドソンさんが僕にやり返して、で、僕がいま君にやり返してるってことだけど。」 
   
「.. 何なの? 火事?」 
   
「いや、依頼者。すんごいテンパってる若いご婦人が僕に会いたいって言ってきて、もうリビングに入ってもらってるんだって。若いご婦人が自ら都会に乗り出してきて寝ている人間を起こしていこうっていうんだから、かなりの事態になってるってことじゃないかな。で、君はほら、おもしろいケースだっていうなら、いちばん最初のところから見ておきたがるだろ? だからそのチャンスを与えないといけないと思って、こうやって起こしてるわけ。」 
   
「ありがと。それ絶対に見ておきたいよ。」 
   
僕にとってホームズの捜査を追っていくほど心躍る作業はなかった。その驚異的な速さの見立てにはいつも舌を巻いた。もはや勘で言ってるんじゃないかというほどのスピードで出てくるものが、持ち込まれた謎を最終的に彼が明らかにしていってくれるときにはいつもちゃんとそこに論理的な裏付けがあったことがわかるのだ。僕は急いで服を身に着け、ものの数分で彼について自分の寝室から出た。リビングには黒い服に身を包んでベールを顔に深く降ろした女性が窓を背にして座っていた。その女性は僕らの姿を見かけるとサッと立ち上がった。 
   
「おはようございます、お嬢さん、」 
ホームズがフレンドリーに声をかけた。 
「シャーロック ホームズと言います。こちらは僕の友人で仕事のパートナーでもあるワトソン医師です。この人には僕にしゃべるのと同じくらいに何でも話してもらって構いません。あぁ、ハドソンさんが暖炉を点けていってくれて良かったです。どうぞ、もっと火に近いところに座ってください。熱いコーヒーも用意してもらいますから。震えてられるじゃないですか。」 
   
「寒いわけじゃないんです、」 
ホームズに案内された暖炉近くのイスに腰を下ろし、その女性が小さく言った。 
   
「じゃあ何です?」 
   
「怖いんです、ホームズさん、怖いんです。」 
彼女はそう返して顔に掛かるベールをめくり上げた。確かにその顔には可哀想に思えるほどの動揺が見て取れた。青白くてこわばった表情で、捕われた動物のようにその目が怯えている。視線は一点に定まらずしきりに動いていた。見た目は30才ほどだが、髪にはもういくらか白いものが混じり、その顔つきも憔悴しきっていた。ホームズは彼独特の一瞬でいろんな情報を読み取る目線を彼女に送ってから、体を前にやって彼女の腕にそっと手を置き、穏やかに声をかけた。 
「怖がらなくていいですよ。あなたの問題もすぐに何とかなるでしょうから。間違いなくね。ここへは列車で来たんですね?」 
   
「.. もう私のことを知ってらしたんですか?」 
   
「いえ。その手袋をした左手に往復切符の半分が見えてますので。今朝はかなり早くに家を出たんですね。でも地元の駅までは道の悪い中をわりに長いあいだ2輪馬車に揺られないといけなかったようで。」 
   
相手の女性はびくっとなってホームズの顔をじっと見つめた。 
   
「あ、難しいことじゃないですよ、」 
ホームズは笑みを浮かべ、 
「上着の左腕のところに泥ハネが少なくとも7つは見えますから。どれも新しいものみたいですし。泥がそんな風に付くのは1頭立て2輪馬車で、運転手の左隣に座ったときだけですからね。」 
と言った。
   
「.. どう判断されたにしても、とにかくそのとおりです、」 
彼女が返した。 
「今朝は6時前に家を出ました。レザーヘッドに着いたのが6時20分で、始発でウォータールーまで来ました。もうこんな状態には耐えられなくて.. 気がおかしくなってしまいそうで。私には1人の男性以外は頼る人もいませんし、その男性というのもほとんど助けになれそうもありません。ホームズさん、あなたのことは聞いたことがありまして。ファリンタァシュ夫人がすごく困ってるときに助けられたと聞いて。その人にこの事務所のことを教えてもらっていました。私のことも助けられると思われませんか? 少なくともこのわけのわからない状況を少しでもわかるようにしていただければ..  私は今はまだ多くを払える余裕もないんですが、1ヶ月から1ヶ月半後に結婚することになっていまして。その時点では自分の収入も入ってくるようになりますから、そのときには恩知らずと言われないだけの額を払えるようにはなります。」 
   
ホームズは机の方に体を向け、そこの引き出しの鍵を開けて小さな手帳を取り出した。そしてそれのページをめくりながら、 
「ファリンタァシュ.. あぁ、はい、思い出しました、」
と言った。
「真珠のティアラが関係したケースでしたね。君と会う前だよ、ワトソン。お嬢さん、そのお知り合いの件に当たったのと同じくらいにあなたの件にも全力で取り組むことをお約束しますが、謝礼金については、私には捜査できることが報酬みたいなものですから。もちろん必要経費に関しては、それができる時にいつでも払っていただいて構いませんが。では、そちらの身に何が起こったのか、わかるように話していってもらえますか?」 
   
「あぁっ、」 
依頼人が声を洩らした。 
「このことがいちばん恐ろしいのは、自分が何を恐れているのかよくわかっていないことなんです。恐怖を感じている理由というのが他の人からすれば何でもないと思えるような小さなことかも知れなくて.. いちばん私の助けになってくれるはずのあの人も、これを話したときには神経過敏な女が気にしすぎているんだろうと受け取ったようで。もちろん彼ははっきりそんな風には言いませんが、話を聞いているときでも何度も目をそらしてみたり、適当に慰めるような言葉をかけてきて.. でも、ホームズさんという人は人間の奥にある邪心みたいなものまで見透かせるとお聞きました。だから、こんな恐ろしい中で私はどうすればいいのか、アドバイスいただこうと思いまして。」 
   
「しっかり聞かせてもらいますよ。」 
   
「私はヘレン ストナーと言います。今は義理の父と暮らしていますが、その人というのはイギリスでもいちばん古いくらいのサクソン系の一族の出なんです。ストークモランのロイロット家といいまして。サリーの西の境あたりにあります。」 
   
ホームズは頷いてみせ、 
「名前は聞いたことがあります。」 
と言った。 
   
「元々はイギリスでも有数の豪族で、所有する土地は北はバークシャーに一部入り込むほど、西はハンプシャーあたりまでに広がる大きなものだったんですが、前の世紀に浪費家で放蕩な当主が続いたことでだんだんと家が傾いていって、それが決定的となったのがジョージ4世の時代の博打好きの当主の代だったそうです。ロイロット家に残ったのは数エーカーの土地と築200年にもなる屋敷だけとなりました。その屋敷というのも重い抵当に入っています。一代前の当主はその場所でお金のない貴族という惨めな暮らしを続けたそうですが、その人の1人息子、これが私の義父に当たるんですが、新しい状況に対応しないといけないと思い、親戚にお金を借りてカルカッタに渡り、そこで医学の学位を取ったんです。義父は医者としての腕もありましたし行動力もありましたから、現地で大規模な診療所を開きました。でも、怒りを爆発させてしまって.. そのとき義父の住んでいた屋敷が何度か泥棒に入られることがあったそうなんですが、そのことに怒って義父は現地で雇っていた執事を殴り殺してしまったんです。何とか死刑は免れましたが、長いあいだ刑務所に入ることになって。それから出所して、挫折してイギリスに戻ったときには、すっかり気難しい人になっていました。 
義父がインドにいるときに私の母であるストナー婦人と結婚したんです。母はその前にベンガル砲兵隊のストナー将官と結婚していたんですが、若くして夫に先立たれてしまっていました。私にはジュリアという姉妹がいて、この子とは双子なんです。母が義父と再婚したのは私たち姉妹が2才のときです。母にはかなりの収入がありまして、年1000ポンド以上はあったそうです。母は義父と暮らすようになってからそのお金をすべて義父に預けていました。将来私たち姉妹が結婚したときに、一定の額を年々渡していけるようにする準備金の意味も込めてです。その母なんですが、私たち家族がイギリスに戻ってきてから間もなくして亡くなってしまったんです。8年前のことですが、クルーというところの近くで列車事故に遭ってしまって。そこからは義父のロイロット医師はロンドンで医院を開くというプランも捨てて、ストークモランのそのすごく古いお屋敷に私たちを連れていき、そこで住むことになりました。母が残してくれたお金もありましたので生活の心配はなかったですし、その土地でも幸せに暮らしていけるはずだったんです。 
ですが、そこに移ってから義父の様子がかなり変わってしまったんです。友人を作ることもなく、近隣の方たちと交流したりすることも一切ありません。最初のうちはストークモランにロイロット家が戻ってきたことを喜んで近くに住む方がやって来たりしていたんですが..  義父はずっと屋敷にこもっています。外に出ているなと思ったら誰かと言い争いをしているという具合で。度を越したほどに怒りを爆発させるというのは一族の男たちに代々あったようですが、義父の場合は長く熱帯にいた間にその傾向がより強まったんじゃないかと思います。恥ずかしいことにもう何度となくケンカをして、裁判沙汰になったことも2度あります。今では地元では義父は完全に危険人物扱いです。村の人は義父の姿を見かけるだけで身を隠します。力もすごいですし、怒ったら歯止めが効かなくなりますので。 
先週には村の鍛冶職人と言い合いになって、その人の体をつかんで橋の欄干の向こうに投げて、下の川に落としてしまったんです。私が家にあるお金をかき集めてその人に渡し、何とかそれが事件として表に出ないようにしたんです。義父に友人と言えるような人はいませんが、流浪の民とだけは交流があるんです。そんな人たちがうちの敷地内の茂みのところでテントを張って寝泊りするのを許していまして。その代わりに義父が彼らに付いてどこかに行ったときにそのテントに泊まったりしているようです。そんな人たちに付いて何週間も家に帰ってこないこともあります。それと義父はインドの動物にすごく愛着を持っていまして、現地の業者から取り寄せたりしています。今うちにはチーターとヒヒがいるんですが、それを敷地の中で放し飼いにしているんです。村の人たちは義父のことも、飼っているペットもすごく怖がっています。 
ここまで話せば、私たち姉妹の暮らしが楽しいものではなかったことはわかっていただけると思います。うちの家で使用人として働こうという人もいませんし、私たちはずっと家の中のことは自分たちでやってきました。ジュリアが死んだときはまだ30才だったんですが、もうそのときには、あの子の髪には今の私と同じくらい白いものが目立ってきていました。」 
   
「ジュリアさんは亡くなったんですね?」 
   
「ええ、2年前のことです。そのことをホームズさんに聞いていただきたくて。これまでの話で予想が付くとは思いますが、私たちは似たような階級の同世代の人たちと交流することもほとんどありませんでした。ですが、私たちには叔母がいまして。母の姉妹のオノリア ウエスフェィルという人なんですが、独身でハロウの近くに住んでいる人です。私たちはときどきその叔母の家を訪ねることだけは許されていました。それで2年前のクリスマスの時期に、ジュリアがその家に滞在していたときに、半給制度で海軍に所属している少佐の方と知り合って、その人と婚約したんです。ジュリアはうちに戻ってきてから義父にその婚約のことを伝えたんですが、義父がその結婚に反対するということはありませんでした。ですが.. 結婚式の日取りとして決まっていた日まで2週間もないというときに、私からたった1人の姉妹を奪う恐ろしい出来事が起きたんです。」 
   
イスの上で後ろのクッションに頭を沈めてじっと目を閉じて話を聞いていたホームズが、ここで半分ほどまぶたを開けて依頼者の方を見ながら、 
「できるかぎり細かく、お願いします。」 
と声をかけた。 
   
「ええ、そうできるかと思います。当時のことは頭にこびりついて離れないくらいですから。お話ししたとおり、うちの建物はすごく古いものなんです。寝泊りに使っているのは1つの棟だけなんですが、その棟の寝室はどれも1階にあります。居間などは中央の棟の中にあります。それで、そこの寝室なんですが、中央の棟にいちばん近い側の部屋が義父のロイロット医師の、2つ目がジュリアの、3つ目が私の部屋なんです。その3つは横一列に並んでいまして、部屋どうしが中でつながってるというわけじゃありません。.. ちゃんと説明できてますか?」 
   
「ええ、すごくわかりやすいです。」 
   
「その3つの部屋の窓は外の芝生に向いています。それで、運命の夜となったその日ですが、ロイロット医師は早くに寝室に入っていました。でもまだベッドで寝てはいないようでした。義父は夜によく葉巻きを吸うんですが、その夜、ジュリアはインド産タバコのきつい匂いがすると言って、自分の部屋を出て私のところに来ていたんです。そこで2人でしばらくおしゃべりをして、日が迫ってきていた結婚式の話なんかをしていたんです。それで11時になってジュリアが自分の部屋へ戻ることになりました。あの子は私の部屋を出ていくときにドアのところで立ち止まって、振り向いてこう言いました。 
“ねぇ、ヘレン。真夜中に誰かが口笛吹いてるのって聞いたことない?” 
“え、ないけど?” 
私はそう答えました。 
“寝ながら口笛吹くなんて、普通できないわよね?” 
“そんなの無理でしょう。どうしたの?” 
“うん。ここ何日かのことなんだけど、午前3時頃に、小さいけどはっきりした口笛の音が聞こえてくるの。私は眠りは浅い方だし、それで目が覚めてしまうの。どこから聞こえるかわかんないんだけど。隣の部屋か.. 窓の外か.. だからもしかしたらあなたにも聞こえてるんじゃないかと思って。” 
“いや、聞こえたことないけど。それって林のところの、あのいやらしい放浪者たちじゃないの?” 
“そうかもね。でも林のところからだったら、あなたにも聞こえると思うけど” 
“うん。でも私はあなたよりはぐっすり眠る方だから” 
“まぁ、すごくたいしたことってわけでもないんだけどね” 
ジュリアはそう言って微笑んでから、部屋を出ていきました。間もなくして、カチッと鍵の掛かる音が聞こえました。」 
   
「あぁ、なるほど、」 
ホームズが声を洩らした。 
「夜に部屋に鍵を掛けるというのは、いつもしていることだったんですか?」 
   
「ええ、いつもしていました。」 
   
「どうしてまた?」 
   
「さっきお話ししたとおり、うちの敷地にはチーターとかヒヒが放し飼いにされていますから。鍵をしてないと怖くって。」 
   
「そうですね。続けてください。」 
   
「その夜はずっと眠れなかったんです。なにか嫌な予感がしていたのかも知れません。ジュリアとは双子ですから、双子特有の細かいところまでつながった感じというのはあるんです。その夜は外は荒れてて、風が強く吹いて、雨も降っていました。雨が窓に叩きつける音も聞こえてきていました。それで、そんな雨や風の音のなか突然すごい叫び声が聞こえてきたんです。すぐにジュリアの声とわかりました。私はベッドからとび起きて、ショールだけ羽織ってすぐに廊下に出ました。そのときですが、その前にジュリアが話していたような小さい口笛の音が聞こえたと思うんです。そのすぐ後には何か金属がぶつかるようなガチャンという音もして。私はジュリアの部屋に向かいましたが、そこの部屋の鍵がカチッと開く音がして、ドアがゆっくりと開いてきたんです。私は何がとび出してくるのかとビクビクしながら見ていると、そろっそろっとジュリアが歩いて出てきたんです。廊下の明かりは点いていましたから、あの子の青白くて怯えた顔がはっきり見えました。あの子は何か助けを求めているのか、両手を前に差し出していました。それで、体全体は酔っぱらってるみたいにふらふらっと揺れていて.. 私はジュリアの体を支えないといけないと思って、両手を前に出して駆け寄っていったんですが、その前にあの子は力尽きて床にバタンっと倒れ込んでしまいました。そして激しい痛みを抱えたようにもだえだして、手も足もぶるぶる震わせていました。はじめは私のこともわかってないのかと思いましたが、私が前屈みになってあの子の顔を覗きこんだときに、すごい声で.. 今でも忘れられない声でこう叫んだんです。 
“あぁっ、ヘレンっ、帯っ..  点々の.. 帯っ.. ” 
ジュリアはそう発しながら人差し指を義父の部屋の方に向けていました。それからも何か言いたかったようですが、ここであの子の体がぶるぶるっとけいれんして、何も言えなくなったんです。私はすぐに奥の部屋に駆け寄りながら大声で義父に呼びかけました。義父は部屋着のガウンを羽織った姿で部屋からとび出てきました。でも義父がジュリアの元まで行ったときにはもうあの子の意識はありませんでした。それから義父があの子の口にブランデーを流し込んだり、村のお医者さんに来てもらったりしましたが、駄目でした。あの子はみるみる弱っていき、1度も意識を取り戻さないまま死んでしまいました。これが私の最愛の姉妹の恐ろしい最期なんです。」 
   
「ちょっといいですか?」 
ホームズが声をかけた。 
「その、口笛の音と、ガチャンという金属音が聞こえたというのは確かですか? 間違いなく聞こえたと言い切れます?」 
   
「検死官の方にも同じことを訊かれましたが、私にはそれが聞こえた、と思います。ただ風の音も大きかったですし、古い家なのでときどき建物の軋む音が聞こえることもありますから、もしかしたらそういう音だったのかも知れませんが。」 
   
「そのときジュリアさんはどんな恰好でした?」 
   
「寝間着姿でした。それで、右手に燃え尽きたマッチがあって、左手にマッチ箱が握られていました。」 
   
「.. つまり異変に気づいたときにマッチを擦って何が起こってるのか見てみようとされたということでしょうね。これはなかなか重要な点ですね。それで、州の検死ではどういう結果となったんです?」 
   
「ロイロット医師の悪評が地元中に轟いていたということもあって、警察もジュリアの死因についてはかなり念入りに調べたようです。ですが結局、あの子がどうして死んだのかはわかりませんでした。私が証言したことから、あの夜にジュリアの部屋のドアは内側から鍵が掛かっていたことになっていますし、どの寝室の窓にも太い鉄のバーのかんぬきが付いた古いタイプの鎧戸があるんですが、夜はいつもそれを閉めきっているんです。警察は各寝室の壁も叩いてまわっていましたが、空洞なんかも見つからず、床も同じようにして調べられたんですが、隠し通路などもありませんでした。寝室の暖炉の煙突は大きいものではあるんですが、先端には格子がはまっていますし、その格子も4箇所を大きなボルトで固定されています。ですので、あの夜にジュリアが寝室で1人だったことは間違いないようなんです。それに、亡くなったあの子の体から傷なんかも見つかっていません。」 
   
「毒を盛られたようなことは?」 
   
「それも調べられたんですが、そんな証拠は出てこなかったみたいです。」 
   
「あなたはどう考えているんですか? ジュリアさんは何が原因で亡くなったと?」 
   
「私は.. あの子はすごい恐怖を感じたショックで死んだんじゃないかと思っています。どうしてそんな恐怖を感じることになったのかはわかりませんが。」 
   
「その夜ですが、敷地内にその流浪の民たちはいましたか?」 
   
「ええ。ほぼいつも何人かはいますから。」 
   
「それで、ジュリアさんが最後に口にした帯に関する言葉がありましたね。“点々の帯”とかいう。それについてはどう思われました?」 
   
「あれは、あの子が意識が朦朧となってよくわからない言葉がとび出したのかなと思うこともありますし、もしかしたら人が並んだ姿を帯みたいに言ったのかなと考えることもあります。例えばその放浪者たちが何人かいた姿が、です。ああいう人たちはよく頭に斑点模様の布を巻いていますから、それであんな言葉が出てきたんじゃないかと.. 」 
   
ホームズは全く納得していないように顔を横に振っていた。 
   
「なかなか謎は深いようですね.. 」 
彼はそう口にした。 
「どうぞ、お話を続けてください。」 
   
「その出来事があってから2年が経って、私は以前にも増してさみしい暮らしを送っていました。でも1ヶ月ほど前に、ずっと前から知り合いだった男性が、私の手を取って結婚を申し込んでくれたんです。パーシー アーミテージという人です。レディングの近くのクレインウォーターという所にいるアーミテージさんのお宅の次男なんですが。義父は私のこの結婚について反対はしませんでした。それで私たちはこの春に結婚することになっているんです。つい2日前のことなんですが、私たち家族が寝泊りしている棟で補修工事が始まりまして。私の部屋の壁にも少し穴が開いたりして、それで私は以前にジュリアがいた部屋に移ることになったんです。まさにあの子が寝ていたベッドでです。昨日の晩に私が感じた恐怖を想像していただけたらと思いますが.. 昨日の夜、私は亡くなったジュリアのことを考えてしまってずっと眠れずにいました。そんなときに夜の静けさの中で聞こえてきたのが、小さな口笛の音だったんです。あのときジュリアの死の前触れとなった音です。私はベッドからとび起きて、すぐランプに火を灯しました。でも部屋の中には別に怪しいものも見当たりませんでした。でもまたベッドに戻るのは怖くて、それで服を着替えて朝になるのをじっと待ちました。そして夜が明けてきたらすぐに家を出て、門の向かい側にあるクラウン宿に向かって、そこで馬車をつかまえてレザーヘッドまで行きました。そこからとにかくあなたに相談したい一心で、列車にとび乗って街まで来たんです。」 
   
「うまく行動されたと思いますよ、」 
ホームズが言った。 
「ですが、すべてを話してくれていますか?」 
   
「ええ、すべて。」 
   
「ロイロットさん。そうはしてないみたいですが。義理のお父さんについてすべて話したわけじゃない.. 」 
   
「どういう意味です?」 
   
その質問に答える代わりに、ホームズは依頼者の膝に置かれてある手を包む黒い服の袖先のひらひらになった部分をつかみ、それを引っぱって袖をぐっとまくってみせた。彼女の白い手首に、どす黒い痕が5つあるのがわかった。皮膚にめり込むくらいまで誰かに握られた痕だった。 
   
「ひどい扱いを.. 」 
 ホームズがつぶやいた。 
   
彼女は顔を赤らめ、袖先を戻してその痛々しい痕を隠していた。 
 
「厳しい人ですので、」 
彼女が言った。 
「自分の力がどれほど強いかもわかっていないようで。」 
   
ここでしばらく沈黙が流れた。ホームズは座ったまま手先を重ねた上にあごを載せ、パチパチと音を立てている暖炉の火をじっと眺めていた。 
   
「なかなか奥が深そうですね、」 
ホームズがようやく口にした。 
「どう動くか決める前にいろいろと情報を集めておきたいというのはあるんですが、時間をかけている余裕がなさそうなのも事実のようです。もしこれから僕たちがストーク モランに行ったとしてですが、その義理のお父さんに知られないで屋敷内を調べていくことというのはできますかね?」 
   
「今日たまたまなんですが、義父は大事な用事で街に出ると言っていました。だからたぶん夜まで帰ってこないんじゃないかと思います。今は家政婦さんが1人だけうちにいるんですが、かなりの年ですし、しっかりした人でもありませんから、この人は何とでもなると思います。」 
   
「すばらしい。ワトソン、これに付き合わないなんて言わないだろ?」 
   
「もちろん。」 
   
「では、僕たち2人で伺いますので。あなたはどうされます?」 
   
「私は少し街でしておきたい用事がありまして。正午の列車に乗るつもりですので、ホームズさんたちが来られるときには家に戻れていると思います。」 
   
「僕たちは午後の早いめの時間には伺えると思います。こちらも少し済ましておきたい用事がありますので。朝食はここで取っていかれます?」 
   
「いえ、私はこれで失礼します。ホームズさんに問題を打ち明けられて心が軽くなりました。午後にまた会えるのを楽しみにしています。」 
そう言って彼女は顔のベールを下ろし、スッスッと歩いて部屋から出ていった。 
   
「えぇ.. ワトソン、どう思った?」 
イスの背にもたれた体勢でホームズが訊いてきた。 
   
「かなり気味悪くてよくわからないケースだな。」 
   
「確かにな。」 
   
「でもさ、その寝室の壁とか床とか、あとドアとか窓、煙突なんかもしっかり調べられたって今の話がそのままなんだったら、原因不明の死を迎えたっていうその女性がそのとき部屋に1人でいたのは間違いないということになるけどな。」 
   
「じゃ、真夜中に聞こえたって口笛とか、その人が死ぬ間際に残したおかしな言葉はどう考えるんだ?」 
   
「わからないよ。」 
僕が答えた。 
   
「真夜中の口笛、年配の元医者と交流があったっていう流浪の民、その元医者には義理の娘に結婚されると困る事情があったかも知れないということ、死ぬ直前に女性が残した帯に関する言葉、あと今の依頼者が聞いたという金属音、これは誰かが鎧戸の鉄のバーをはめなおしたときの音かも知れないんだけど、そういうの全部考えたら.. そのあたりのことを詰めていけば今回の謎は解けてくるんじゃないかと思うんだ。」 
   
「じゃあ、何? その放浪者たちの仕業ってこと?」 
   
「わからない。」 
   
「そっちの方向で見ていくんなら、おかしいと思う点もいっぱいあるけどな。」 
   
「僕もだよ。だから現地に行くんじゃないか。そっちの方向だと成り立たないくらい反対の証拠が出てくるのか、それかそっちの説で通っちゃうのか。で、それはいいけど、何なんだっ!?」 
   
ホームズが声を上げたのは、突然すごい勢いで部屋のドアが開かれたからだった。びくっとしてそちらに目をやると、ドア口のところにすごく大柄な男が立っていた。その男の出でたちは専門職にいるのか農業従事者なのかどちらとも取れるようなもので、黒のハット帽にダブルのジャケット、膝上までのゲートルに、手には短めのムチが握られてあるというものだった。その男の背の高さはハンパではなく、頭に被る帽子のてっぺんが実際にドアの上の枠をかすめているほどだった。さらに男は横幅もそこそこあって、その体のバックにあるドアの開口部もかなり狭く映って見えた。日に焼けた大きな顔には無数のしわがあり、くぼんだ目の白目部分は黄色がかっていた。その目がいま悪意のある表情で僕ら2人の顔を見まわしている。そんなしぐさとその男の細い鼻が相まって、何かいま自分たちが獰猛な猛禽に睨みつけられているかのような印象を受けた。 
   
「どっちがホームズだ?」 
突如現れたその男が声をかけてきた。 
   
「それは僕の名前ですけど。そちらのことは存じ上げませんが。」 
ホームズが冷静に答えた。 
   
「俺はグライムズビー ロイロット医師だ。ストークモランのな。」 
   
「そうですか、では、お掛けになって。」 
ホームズが事もなげにそう返した。 
   
「そんなことはせん。俺の義理の娘がここに来たな? あいつを追ってきたからな。あいつはあんたに何を言ったんだ?」 
   
「この時期としてはちょっと寒いですよね。」 
   
「あいつはお前に何を言ったんだっ?」 
男が声を荒げた。 
   
「でもまぁ、クロッカスはきれいに育ってるとかで。」 
   
「ハッ、それでかわしてるつもりか、」 
男はそう言って足を1歩前に踏み出し、手に持ったムチをぷらんぷらんと揺らしていた。 
「お前のことは知ってるんだよ、バカ野郎が。ホームズだろ? 首つっこみたがり屋の?」 
   
ホームズの顔がニヤッとなった。 
   
「詮索屋のホームズだ。」 
   
ホームズの笑みがさらに広がった。 
   
「威張りくさった警視庁の下っ端のっ、勘違い野郎がっ。」 
   
ホームズはククッと声を立てて笑ってから、 
「なかなかおもしろい話でしたよ。出ていくときはドアは閉めていってくださいね。隙間風がすごいんで。」 
   
「俺が出ていくのは言うことが済んでからだ。俺のやってることに首を突っこむな。ストナー嬢がここに来たってことはわかってるんだ。あいつをつけて来たんだからな。俺と下手に関わるとえらいことになるぞ。アブない人間だからな。見ておけ。」 
男はそう言って暖炉に近づいていき、火掻き棒を拾い上げた。そしてそれを持った日に焼けた両手にぐっと力を込め、手を交差させていった。棒もいっしょになって曲がっていき、とうとう交差してしまった。 
   
「この手につかまれないようにしておくんだな。」 
男は怒りのこもった声でそう言い、ぐにゃりと曲がったその火掻き棒を暖炉に投げ込んでから部屋を出ていった。 
   
「すごく感じのいい人だったよね、」 
ホームズがそう言って笑い、 
「ま、あんなけ腕も太くないけど、でももうちょっといてくれたら、僕のグリップもそんなには弱くないって見せれたかも知れないんだけど。」 
そう言って彼は暖炉のところの火掻き棒を拾い上げ、一気に力を込めてその鉄の棒をまっすぐに戻してしまった。 
   
「こっちは警察の人間じゃないっつーの。これで断然やる気出てきたよね。ストナーさんがあの凶暴なのにつけられたって軽率さの報いを受けないようにしてやらないと。じゃ、ワトソン。朝ごはん用意してもらおうか。それを食べたら、僕は民法会館に行ってくるよ。この件で役立ちそうなものが出てくるといいんだけど。」 
   
ホームズがそこから帰ってきたのは1時近くだった。彼の手には青い紙が握られていて、そこに数字やら文字やらがメモされてあるのが見えた。 
   
「あの男の亡くなった妻が残したという遺書を見せてもらって来たんだ、」 
彼が言った。 
「残された家族に対してその遺書が持ってるインパクトを正確につかもうと思えば、その女性が投資していたものの現在の価値を知っておかないといけなかったしね。その妻が亡くなった時点では収入は年1100ポンドに届くかというほどあったみたいだけど、農作物の価格が下がったあおりで今では年750ポンドないくらいらしい。あそこの娘たちには結婚した時点でそのうちの250ポンドが入ってくることになっていたみたいだから、もし娘2人ともに結婚されてたら、けっこうな額があった収入がかなりのところまで落ち込むことになってたんだ。娘1人の結婚だってあの男にとってはかなりダメージとなる額が削られてしまう。このことがはっきりしてよかったよ。ロイロット医師にはそんな事になるのを是が非でも阻止したい理由があったということだからね。で、ワトソン、今度のはゆっくり取りかかれるケースでもないんだ。特に僕らがむこうの問題に首を突っ込んでるのがあの男にバレた今となってはね。君が準備できたら、すぐ馬車でウォータールーに行くよ。ポケットにリボルバーを忍ばせといてくれたら助かる。鉄の火掻き棒の先っぽに輪っかを作ろうかって奴が相手なら、イリーのNo.2くらい用意しておくのが妥当だろうしね。あとは歯ブラシぐらい持っていけばいいだろう。」 
   
ウォータールー駅ではちょうどレザーヘッド行きの列車をつかまえることができた。そして到着した駅で2輪馬車を拾い、サレーのかわいらしい細い田舎道を6、7kmほど進んだ。その日は天気が良く、空にはまぶしい太陽とふわふわの薄い雲が浮かんでいた。林道の両脇に見える木立や生け垣の緑は新しい葉っぱをつけはじめたばかりで、そんな道からは湿った土の心地よい匂いが放たれていた。少なくとも僕はこのとき、こんな爽やかな春の息吹きと自分たちがいま向かっている不気味な用事とにはかなりのコントラストがあるなと感じていた。前の席にいる僕の連れがどう思っていたかはわからない。彼は腕を組んでハットを深くかぶり、顔を下に向けてずっと思案に暮れている様子だった。その彼の体がふいにぴくっと動き、振り返って僕の肩をトントンとしてきた。そして向こうにある草むらのあたりを指しながら、 
「ほら、あそこっ。」 
と言った。 
   
緩やかな坂を上がったあたりに木のたくさん生えた大きな庭園があるのが見えた。丘のいちばん上のあたりは木が密集して森のようになっていた。そんな木々の上から灰色の三角形の屋根がいくつか突き出していて、すごく古そうな建物のてっぺんの棟木も確認できた。 
   
「ストークモラン?」 
ホームズが訊いた。 
   
「ええ、グライムズビー ロイロット医師の屋敷ですよ。」 
運転手が答えた。 
   
「今あそこで工事が行われていてね。そこに行くんですよ。」 
ホームズが言った。 
   
「あちら側が村ですが、」 
運転手が左手に見える屋根がいくつか集まったところを指しながら言った。 
「でもあのお屋敷に行かれるんでしたら、ここの踏み板を渡ってから草原の小道を抜けていく方が早いですよ。あっちに向かって。あ、ほら、あそこでお嬢さんが歩いてるあたりです。」 
   
ホームズが手のひらで目の上に庇を作って、 
「そのお嬢さんっていうのがたぶんストナーさんだろうね。よし、おたくのいう通り、ここから歩いていった方がよさそうですね。」 
   
僕らはそこで馬車を降り、料金を支払った。馬車はまたレザーヘッドへと戻っていった。 
   
「あの運転手にはさ、」 
簡易通路の板に足をかけながらホームズが言った。 
「補修工事でとか、とにかくまともな用事で僕らが来たって思わせた方がいいかなと思って。ちょっとでもゴシップは避けておかないとね。どうもぉ、ストナーさん。ちゃんと来させてもらいましたよ。」 
   
今朝に会っていた依頼人が嬉しそうな顔で駆け寄ってきた。 
   
「来てくださるのを待っていましたっ。」 
彼女は興奮気味にそう言って、 
「うまくいっています。義父は街へ出ていっていますし、夜までは帰ってこないと思います。」 
   
「実はロイロット医師とはもうお近づきになれましてね。」 
ホームズはそう返し、彼女が事務所を去ってからあったことをざっと伝えた。ストナーさんはそれを聞くうちに唇まで血の気が引いていった。 
   
「なんてことっ、」 
彼女が洩らした。 
「私をつけてたんだ.. 」 
   
「そのようですね。」 
   
「義父は抜け目ありませんし、もうあの人からは逃れようもありません。帰ってきてから何を言われるか.. 」 
   
「お義父さんは気をつけないといけないと思いますよ。自分より抜け目ない人間に迫ってこられてることがわかるかも知れませんしね。あなたは今日は自分の部屋から出ないようにしていてください。ロイロット医師が暴力的になるようだったら、僕らといっしょにそのハロウの叔母さんの家に向かいましょう。では、時間がありませんので、すぐに寝室の調べを行いたいんですが。」 
   
ストークモラン屋敷は苔むした石で造られた灰色の建物で、中央に高い棟があり、その両端からそれぞれの棟がカニのハサミのように斜めに伸びていっていた。左側にある棟は窓が壊れているところが多々あり、そこに木の板が打ちつけてあったり屋根に空洞ができていたりと廃墟であることが丸わかりだったが、中央の高い棟の方はそれよりはいくらかマシな状態に保たれていた。そして右側の棟は他と比べていちばん現代的に見えた。窓にカーテンも掛けられてあるし、煙突からは青白い煙も立ち昇っていて、そこが居住スペースとして使われていることはすぐにわかった。その棟の先端部分の外壁に工事の足場のようなものが架けられていて、そのあたりの石壁が一部壊されている箇所もあったが、僕らが行ったときにはそこで何か作業が行われているということはなかった。ホームズはあまり手入れの行き届いていない庭の芝生の上をゆっくり行ったり来たりしながら、その棟の側面の窓をじっと眺めていた。 
   
「ここが、前にあなたが寝ていた部屋ですかね。それで、この真ん中がジュリアさんの部屋だったところ、中央の建物に近いあそこの部屋がロイロット医師の寝室ですね?」 
   
「そのとおりです。今は私が真ん中の部屋で寝ています。」 
  
「補修工事のためですね。ただ、あの端っこの壁はそんなに補修が必要な状態とは思えませんでしたが。」 
   
「そうなんです。工事というのは、私をこちらの部屋に移動させる言い訳じゃないかと思うんです。」 
   
「あぁ、それはなかなか.. で、この棟の裏っ側には廊下があるだけということですね。その廊下にも窓は付いているんですよね?」 
   
「ええ、ですが、ごく小さいものです。人がくぐり抜けたりはできません。」 
   
「夜に寝室のドアに鍵を掛けた状態だと、廊下側から入ってくることはできない、と。では、申し訳ありませんが、あなたの部屋に行って、鎧戸を閉めてもらって構いませんか?」 
   
ストナーさんが言われたとおりにすると、ホームズは外から真ん中の部屋の窓の鎧戸を開けてみようといろいろ試していた。が、それが開くことはなかった。ナイフを噛ませてバーを上げられるような隙間も見当たらなかった。次に彼はルーペを取り出して、鎧戸を外の石壁に固定しているヒンジの部分をじっと観察していた。ヒンジは頑丈そうな鉄製のもので、石の壁にがっちりと取り付けられてあった。 
「うぅん.. 」 
少し困惑気味に指であごを触りながらホームズが口にした。 
「やはり流浪の民たちが何かやったというのは無理があるようですね。この鎧戸のかんぬきが下りた状態でこの窓から侵入するというのは不可能でしょう。寝室内で何か見つからないか見てみましょう。」 
   
その棟の側面に小さな扉があり、そこを抜けると建物内の廊下へ入っていくことができた。白く塗られたその廊下の壁にドアが3つ並んであった。ホームズはいちばん外側のドアには目もくれず、すぐに真ん中の部屋へと入った。今回の依頼者の双子の姉妹が最期を迎え、現在は依頼者自身の寝室となっているところである。そこはそれほど広いわけではない天井も低めの簡素な印象の部屋だった。地方の屋敷によくあるように大きめの暖炉が備え付けられてあって、1つの隅に茶色いタンス、もう1方の隅には白いカバーの付いた細いめのベッドが置かれてあった。この部屋にあるそれ以外の家具といえば、窓の左側に置かれた化粧台、あとは小さな籐製のイスが2つあるだけだった。床の真ん中には四角形のパイル織りじゅうたんが敷かれてあり、そのじゅうたんのまわりに見えているフローリングにも壁面にも茶色いオーク材が使われていたが、木の質感から見てかなり年季が入ってるようで、いくつか虫食いの跡があったり全体的に変色もあったりと、この屋敷が建った当時から替わってないという可能性もあった。ホームズは1つのイスを手でつかんで部屋の隅に置き、そこで座って黙ったまま視線を前後左右に動かし、室内を見まわしていた。 
   
「そこの、呼び出しベルはどこにつながってるんです?」 
ベッドに降りてきている太いロープを指さして彼が訊いた。そのロープの先の握りの部分は枕の端に触れるくらいにまで下がってきていた。 
   
「家政婦さんの部屋です。」 
   
「この部屋の他のものに比べると、そのロープは新しく見えますね?」 
   
「えぇ、2年くらい前に付けられたんです。」 
   
「ジュリアさんが付けるように言ったということですか?」 
   
「いえ。あの子がこれを使っているのを聞いたことがないくらいです。私たちは自分たちのことは自分たちでしますから。」 
   
「ですね。そんな立派なロープは必要ないように思えますが。では、床を少しくわしく見させてもらいますね。」 
   
彼はそう言ってパッと床に屈み込み、這うようにしながらルーペ片手に床の上を行ったり来たりして、木板どうしの間にできた溝の部分をチェックしていた。それから壁にはまる木板についても同じように溝のところをすべてチェックしていった。それが終わるとベッドまで行ってそれをじっと眺めたり、壁に目をやってその視線を上下に走らせたりしていた。それから呼び出しベルのロープを実際に手で持ってそれを勢いよく引っぱった。 
   
「あ.. これ、ダミーですね。」 
彼が言った。 
   
「鳴らないんですか?」 
   
「ええ。針金につながれてもいませんよ。おもしろいですね。見てください。ロープの先はあそこの小さい換気口の上のフックに結んであるだけです。」 
   
「どうなってるんでしょうっ。今まで気づきませんでした。」 
   
「かなり妙ですね、」 
ロープを引っぱりながらホームズが言った。 
「この部屋にはおかしな点がいくらかあるようですね。例えば、そこの換気口が通じてる先が隣の部屋というのはどういう設計なんでしょうかね。隣に同じ空気を送り込んでもほとんど意味がありませんよ。換気したいなら外につながってないといけないのに。」 
   
「それも昔からあるものじゃないんです。」 
ストナーさんが言った。 
   
「その呼び出しのロープが付いたときにできたんですか?」 
ホームズが訊いた。 
   
「ええ。そのときにいくつかリフォームしまして。」 
   
「かなり変わったリフォームだったようですね。ダミーの呼び出しロープに、換気にならない換気口.. ストナーさん、そちらの奥の部屋も調べさせていただきたいんですが、よろしいですか。」 
   
ロイロット医師の寝室は義理の娘たちの部屋よりは広いものだった。だが飾り気がない点は同じだった。折りたたみのベッド、その脇のアームチェアー、何かの専門書と思われるものがいっぱい詰められた木製の棚、壁際に置かれたシンプルな造りの木のイス、丸テーブル、そして大きな鉄製の金庫。こんなものがこの部屋で目に付くだいたいの物だった。ホームズはそんなものを順番にじっくりとチェックしていっていた。 
   
「ここには何が?」 
金庫を指でトントンと叩きながら彼が訊いた。 
   
「義父の仕事関係の書類です。」 
   
「あぁ、中を見られたことがあるんですね?」 
   
「ええ、数年前に1度だけ。書類がいっぱい詰まってあったと思います。」 
   
「ネコなんかが入ってたりしません?」 
   
「いいえ、そんなおかしな話.. 」 
   
「これを見てください。」 
ホームズが金庫の上に置かれてあるミルクの入った小皿を指して言った。 
   
「でも.. うちはネコは飼っていません。チーターとヒヒならいますが。」 
   
「そうですね。まぁチーターも大きなネコということですから。ただこの皿のミルクぐらいでは満足させられないでしょうけどね。ちょっと確かめたいんですが.. 」 
そう口にしながらホームズは木のイスの前まで行ってしゃがみこみ、イスの座面の部分をじっと見ていた。 
「.. ありがとうございます。だいたいわかりました、」 
そう言って立ち上がり、ポケットにルーペを戻していた彼がまた、 
「ワォ、これはまたおもしろいですね、」 
と声を上げた。彼の目に留まったのはベッドの端に引っかけられてあった短いムチだった。そのムチは先の部分がくるりと曲げられていて、小さな輪っかになるように結ばれていた。 
「これ、どう思う? ワトソン。」 
   
「見た感じは普通のムチみたいだけど。何で先が結ばれてあるかは全然わからないな。」 
   
「そこは全然普通じゃないよね。あ.. ほんと、怖い世の中だね。頭の切れる人間がそれを犯罪に向けだすとタチが悪いからね。これでだいたいは見せてもらったと思います、ストナーさん。よければもう1度、外の芝生を見ておきたいんですが。」 
   
2つの寝室を見終わったときのホームズの顔つきは僕がこれまで見たことのないほどに厳しく、表情も曇ったものだった。また棟の外に出てから彼に付いて芝生の上を歩いてはいたが、僕もストナーさんもずっと難しい顔で作業を続ける彼に話しかけてその思考の邪魔をしようなんていう気はなかった。庭での調べを済ませ、ようやく彼が思案モードを解いて、 
「すごく大事なことなんですが、ストナーさん、」 
と声をかけた。 
「今から僕が指示する、そのとおりに動いてもらいたいんです。」 
   
「ええ、そうします。」 
   
「疑問に感じることがあっても躊躇なさらず。ちゃんと行動されるかどうかにあなたの命が懸かっています。」 
   
「すべてホームズさんの言うとおりにします。」 
   
「まず、僕とこの友人ですが、今日はあなたの部屋で泊まらせていただきます。」 
   
僕とストナーさんは思わずホームズの顔を見た。 
   
「そうなんです、必ずそうしないといけないんです。聞いてください。あそこにあるのは村の宿ですね?」 
   
「ええ、あれがクラウン宿です。」 
   
「いいですね。あそこからは、こちらの寝室の窓が見えるでしょうか?」 
   
「はい。」 
   
「ロイロット医師が帰ってきてからですが、あなたは部屋に鍵を掛けてこもるようにしてください。頭痛か何かのふりをして。それで、ロイロット医師が自分の部屋に入って、眠る態勢になったなとあなたが思ったら、あなたの部屋の鎧戸のバーを上げて窓を開けてほしいんです。そして窓の近くにランプを置いてください。それが僕たちへの合図となります。それだけしたら、手まわり品を持って、できるだけ音を立てないようにあなたが前にいた部屋に移動してください。工事が行われてるとはいっても、ひと晩くらいはあそこで泊まれる状態ですね?」 
   
「ええ、大丈夫です。」 
   
「その部屋に移るまでしたら、後は僕たちに任せてください。」 
   
「何をされるつもりです?」 
   
「その寝室で朝まで過ごして、あなたが聞いたという音の原因を探ってみようと思います。」 
   
「.. 思うんですが、ホームズさん。あなたにはもうその音の原因が何なのか、見当が付いているんじゃありませんか?」 
ストナーさんはホームズの手首のあたりにそっと手を置き、そう尋ねていた。 
   
「そうかも知れません。」 
   
「ではお願いです。ジュリアが死んだ原因になったかも知れない、あの音とはいったい何だったんです?」 
   
「それに答えるのは、もう少しはっきりわかってからにしたいんですが。」 
   
「では私の考えが合ってるかどうかだけ教えてください。あの子は突然の恐怖に襲われて、そのショックで死んだのだと。」 
   
「いえ、そうは思いません。ジュリアさんが亡くなったのにはもっとはっきりした原因があったと思っています。ですが、ストナーさん、僕らはすぐにでも宿に向かわないといけません。ロイロット医師が帰ってきて僕らがここに来ていることを知られてしまうと、この計画も意味のないものになりますから。それでは、お気を強く持って。さっき僕が言ったことをしてもらえたら、きっとあなたを脅かしている危険を取り除いてみせますよ。」 
   
そのクラウン宿の部屋を取るのは問題なかった。寝室とリビングのあるその部屋は上の階にあり、前の通りにあるストークモラン屋敷の正門も、あの家族の寝室がある棟もその窓から見渡すことができた。その部屋でじっと座って眺めていると、夕暮れどきにグライムズビー ロイロット医師の乗った馬車が通りにやって来た。ロイロット医師の大きな体と比べ、馬車の運転手の青年はすごく小さく見えた。運転手は馬車から降り、そこの重い鉄の門を開けるのに少し手間取っていた。そのとき彼に向かってロイロット医師が自分の胸の前に拳を突き出すようにして怒鳴り声を上げているのが聞こえた。やがて馬車は門を抜けて奥へと遠ざかっていき、その数分後に木々の隙間に見えている1つの部屋で明かりが灯されたのがわかった。ロイロット医師がどこかの居間に入ったということだろう。 
   
だんだんと暗さの増していくなか、僕らはじっと窓の外に目をやっていた。そのときホームズがふと口を開いた。 
「.. 言うとさ、ワトソン。君を連れていくのは悪いかなって気もしてきてるんだ。この先はけっこうな危険が伴ってるからね。」 
   
「僕がいて役に立てるか?」 
   
「君の助けがすごく重要になってくるかも知れない。」 
  
「じゃ行くに決まってるよ。」 
   
「ありがと。」 
   
「危険が伴ってるって言うからには、君はあの部屋で僕には見えなかった何かを見たってことだね?」 
   
「まぁ、見たものからより考えを進めていったっていうかね。見たものはいっしょだと思うよ。」 
   
「僕にはあの呼び出しのロープ以外は特におかしく思えるところもなかったけどな。あのロープが何であんな状態だったのかも全くわからないし。」 
   
「でも換気口も見ただろ?」 
   
「うん。でも、部屋と部屋の間にああいう小さい穴が開いてるっていうのはそこまでめずらしいことでもないんじゃないかな。あれってすごくちっちゃかったからドブネズミでも通り抜けられないくらいだと思うけど。」 
   
「あんな穴があるのは来る前からわかってた。」 
   
「いやいや、ホームズ.. 」 
   
「あ、ほんとに。ストナーさんの話、覚えてるだろ? 亡くなったジュリアさんは自分の部屋でいるときに、ロイロット医師が自室で吸ってる葉巻きの匂いがしてきたって言ってたんだ。てことは2つの部屋はどこかでつながってるってことだ。壁に穴があったとしても、ごく小さいものだと思ってた。地元の警察が重要視しないくらいのね。だから、換気口なんだろうなと思った。」 
   
「でもそんな穴があったからどうだっていうんだ?」 
   
「まぁとにかく、タイミングは重なってはいるよね。換気口ができて、ロープが吊るされて、その下のベッドで寝てた女性が死ぬっていう。何か思うことないか?」 
   
「や.. そんなののつながりって.. 見えないけどな。」 
   
「あの部屋はベッドもちょっと変わってたんだけど、気づいた?」 
   
「いや。」 
   
「あのベッドの脚だけど、どれも金具で床に固定されてあったよ。そんな風にされたベッドなんて見たことあるか?」 
   
「ないな。」 
   
「その部屋の女性にはベッドの位置は変えられなかったということだよ。つまりベッドと換気口とロープ、あれは呼び出しベルにも何にもつながっていないんだから単なるロープということだけど、この3つの位置関係は変えられなかったってことだ。」 
   
「.. ホームズっ、」 
僕が声を上げた。 
「何か、君の言っていることがちょっとわかってきた気がする。いま僕らはぎりぎり止められるところにいるってことか? その、すごく巧妙でゾっとするような犯罪を?」 
   
「うん、確かに巧妙でゾっする。医者が犯罪者側にまわるとヤバいからね。知識もハンパないし、実行するときも躊躇ないから。パゥマーとプリチャードだって医者としても一流だったしね。今回の相手はそれよりやる奴なんだと思うけど、ワトソン、僕らはそれ以上にやる奴だから。どうせ夜が明けるまでには嫌でもゾッとさせられるんだから、とりあえず今はタバコでも吸って、こっからの何時間かはもうちょっと楽しいことでも考えとこうよ。」 
   
9時頃、木々の間に見えていた部屋の明かりが消えた。もうストークモラン屋敷には1つの明かりも見えなくなった。それから2時間が経ち、11時になるという時にふいに明るい光が1つ灯ったのがわかった。 
   
「来たよ.. 」 
ホームズがイスから立ち、 
「真ん中の部屋から光ってる。」 
   
クラウン宿から出ていくとき、そこの主人に軽く声をかけていった。夜遅くだけどこれから知人を訪ねに行く、今夜はそこで泊まることになるかも知れない、と。それから暗い通りまで出ると冷たい風に顔を吹きつけられた。かなり向こうの方に見えている1点の黄色い点に導かれながら、僕らはその陰気な用事へと繰り出していった。 
ストーク モラン屋敷の敷地に入っていくのはわけなかった。塀のところに大きな穴が開いてそのままにされている箇所があり、そこをくぐってから木々の間を抜けて芝生のところまでたどり着いた。そこから光の見えている部屋の窓に近づいていこうと芝生を横切っているときに、月桂樹の茂みから何か気味の悪い体の曲がった子どものようなものがバーッと跳び出してきて、いったん芝生の上で興奮気味に手足をばたばたさせてから、また向こうの暗がりへと消えていった。 
   
「ワァオ.. 」 
僕が小さく声を洩らした。 
「今の見た?」 
   
これにはホームズもかなりどきっとさせられたようで、彼は思わず僕の手首をつかんでいた。そしてフッと小さく笑ってから僕の耳元に顔を近づけ、 
「楽しい家だね。今のがそのヒヒだよ。」 
と言った。 
   
ここの主人が好んで飼ってるというペットのことを忘れていた。ヒヒだけでなくチーターもいるということだった。ということは、その獣にいつ肩に乗っかってこられるかわからないということだ。ホームズに倣って靴を脱ぎ、窓からその寝室に入ったときには僕は少しホッとなっていた。ホームズが音を立てないようにゆっくりと鎧戸を閉めていき、窓際にあったランプをテーブルの上に移した。それから室内をざっと見まわしていた。室内は午後に入ったときのまま変わっていないようだった。ホームズはそっと僕に近づき、手のひらを丸めて口元に添え、その手を僕の耳元に当てながらぎりぎり言葉が判別できるくらいのかすかな声で、 
「ちょっとでも音を立てちゃうと終わりだから。」 
   
僕は頷きを返した。 
   
「ランプも消しておかないといけないんだ。こっちの部屋が明るいのが向こうの換気口からわかるだろうから。」 
   
僕は再度頷いた。 
   
「眠っちゃダメだよ。命の危険がある。銃はいつでも手に取れる状態にしておいて。僕はベッドの端っこに座るから、君はあそこのイスの上に。」 
   
僕はリボルバーを取り出し、テーブルの上にそっと置いた。ホームズは長細い杖を持ってきていて、それをベッドの自分の体の横に置いていた。その横にマッチ箱とろうそくもセットし、テーブルまで行ってランプの火を消した。部屋は真っ暗になった。 
あんなに気味の悪かった張り込みは今でも忘れられないくらいだ。何の音も、息を吐くのにも気を使いながらただじっと座っていた。よくは見えないが少し先でホームズが目を開けたまま僕と同じように気を張った状態でいるのはわかっていた。窓の鎧戸も閉めきっているから部屋には一切の明かりが入ってきていなかった。 
ときどき外で鳥の鳴き声がしていた。そして1度は窓のすぐ外でネコが喉を鳴らしているみたいな長い音が響き、本当にチーターが放し飼いにされてるんだとわかった。遠くの方で教会の鐘の低い音が15分ごとに聞こえてきていた。僕はこのとき15分というのはこんなに長かったのかと感じていた。12時の鐘、1時、2時、そして3時の鐘が鳴ったときも、僕らはじっと座ったまま何が起こるか待ち構えていた。 
ふいに、換気口のところから少しの間だけ光が洩れてきたのがわかった。ただそれはすぐに消えてしまい、また暗くなった。その後で強い灯油の匂いと鉄の燃えるような匂いも漂ってきて、横の部屋で遮光器付きのランタンが灯されたのだと理解した。少し物音が聞こえてからまた何の音もしなくなっていたが、灯油の匂いはずっと漂ってきていた。それから30分間ほどだろうか、座ったまま僕はただただ耳を澄ませていた。そして突然、今までとは違う音が聞こえてきた。小さいが心地いいような音で、口の細いヤカンから蒸気が絶え間なく出てきてるような.. それが聞こえ出して少ししてから、ホームズがベッドから立ち、マッチを擦ってろうそくに火を灯した。そして手にした杖で呼び出しのロープのあたりを思いっきり叩きつけだしたのだ。 
   
「見えるか? ワトソン、」 
彼が声を上げた。 
「見えたか?」 
   
が、僕には何も見えなかった。ホームズがろうそくに火を灯したときに、低いシーッシーッという音が聞こえたのは確かだが、暗いところに慣れていた目が急な光に対応できずに、僕の友人が親の仇みたいに叩きつけているその先のものが何なのかはわからなかった。ただそのときの彼の顔が青ざめてゾッしたようなものになっていて、嫌悪感もむき出しだったことだけは覚えている。叩く動作をやめてからは彼は換気口のあたりを見上げていた。そしてその少し後に、夜の静寂の中でこれまで耳にしたことのないような気味の悪い叫び声が聞こえてきた。それからその声がだんだん大きくなっていった。恐怖と苦痛、そして怒りの混ざったようなしわがれ声だった。後から聞いた話ではこのときの声は屋敷の敷地外にある村の教区牧師館にまで届いていて、そこで寝ていた何人かが目を覚ましたという。その声が響くあいだ僕とホームズは背筋に冷たいものを感じながら顔を見合わせていた。そして、ようやくその声が止み、夜がまた元の静寂を取り戻した。 
   
「どういう.. ことだろう.. 」 
僕が唾をぐっと呑み込みながら口にした。 
   
「全部終わったってことだよ、」 
ホームズはそう返し、 
「で、これがいちばんよかったのかもね。ロイロット医師の部屋に行ってみよう。」 
   
ホームズは神妙な顔つきでランプに火を灯し、廊下へと出た。そしてロイロット医師の部屋の前に行ってドアを2回ノックした。が、中からは何の音も返ってこなかった。ホームズがドアノブをひねり、部屋へ足を踏み入れた。僕も撃鉄を下ろした銃を片手に、彼にぴったりと付いて中へ入っていった。 
   
室内には奇妙な光景が広がっていた。テーブルの上に光が半分遮断された状態のランプが置かれてあり、その光は金庫の方に向いていた。金庫の扉は開いたままになっている。ロイロット医師はテーブルそばの木のイスに腰かけた格好だった。灰色のガウンに身を包み、足元に靴下などは着けておらず、かかと部分のないスリッパにつま先が突っ込まれてあった。太ももの上には午後に僕らがここで見たムチが載ってあった。あごは上を向いていて、恐怖に固まったその目が天井の一角に向けられていた。そして、彼のおでこの辺りに黄色い奇妙なものが巻かれてあるのが見えた。そのものの表面には茶色っぽい斑点が無数にあるのが見て取れ、それはロイロット医師の顔にぴったりと巻き付いているようだった。僕らが部屋に入ったときも、ロイロット医師はイスに座ったまま全く何の反応も見せなかった。 
   
「帯、点々の帯っ.. 」 
ホームズが声を上げた。 
   
僕は1歩近づいてみた。すると頭にまとわりついたその奇妙な被りものが動きをはじめ、ロイロット医師の髪の毛を掻き分けて後ろに進んでいき、そうして現れてきたのが、ずんぐりしたひし形の頭に膨らんだ首が続いた、気味の悪いヘビの頭部だった。 
   
「沼マムシっ、」 
ホームズが口にした。 
「インドでもいちばん毒の強いやつだよ。この人は噛まれてから死に至るまで10秒ないくらいだったと思うよ。蛮行はそれを振るう者に跳ね返ってくる.. 人をはめようと穴を掘る者はその穴にはまることになる.. 言われてるとおりだな。この気持ち悪い生き物をねぐらに戻さないとね。あと、ストナーさんはどっか安全な場所に避難してもらって、地元の警察にも知らせないと。」 
   
ホームズは死体の太ももに載っていたムチを手に取り、その先の輪っかをヘビの首あたりに向けて投げつけていた。それで何とかその恐ろしい留まり木からヘビを引き剥がすことができ、彼がまっすぐ前に手を伸ばしてその生き物との距離を保った状態で金庫の中にそれを投げ込み、扉を閉めきった。 
   
これが、ストークモランのグライムズビー ロイロット医師の最期に関しての本当のところである。もうこれまでじゅうぶんくわしく書いてきたから、この後のことを長々と記していくこともないだろう。それからは僕らは恐怖におののきながら話を聞くストナーさんにその悲劇を伝え、朝一番の列車でいっしょに行って彼女をハロウにある叔母さんの家に預けた。ストークモラン屋敷には警察がやって来て死因を決めるのにけっこうな時間を割いていたものの、結局はロイロット医師が不用意にそのペットと戯れたことでその牙の犠牲となったのだと結論づけていた。そこの段階で僕の中でまだはっきりしてなかった部分については翌日の帰りの列車の中でホームズが明らかにしてくれた。 
   
「僕があれだけ違う方向の見立てをしたってことはさ、ワトソン、やっぱりデータも揃ってないうちから推理を立てるのがどれだけ危ないかということだよ。あの屋敷の敷地内にいたという流浪の民の存在、死んだ女性が残した“帯”という言葉、あれはその女性が死ぬ間際に何とかマッチを擦って目の前に見えたものを口にしたってことだけど。そういう手がかりにつられて僕の見立ては全然違う方に向いてしまってた。今回僕が唯一よかったのは、あの部屋の女性を危険に晒したものがドアや窓から入ったのではないとわかった時点ですぐに推理を立てなおしたことだった。君にも言ってたけど僕はあの換気口と、ベッドまで垂れ下がった呼び出しのロープにはすごく注目してた。あのロープがダミーということもわかったし、ベッドの脚が床に固定されてたのもわかって、そんなところから、換気口を抜けてくる何かをベッドまで伝えることがあのロープがある理由なんじゃないかと思いついたんだ。その何かがヘビだというのもすぐに予想が付いたよ。ロイロット医師はあの屋敷で何匹かインドからの生き物を飼ってるってことだったし。だからこの線で合っているはずだという気がどんどんしてきてた。化学検査をしても出てこないような毒を持つヘビを選ぶなんてことも、東洋で学問を身に付けた、頭が切れて容赦のない男だったらやれることだと思ったしね。その毒に即効性があったことも仕掛ける側にとっては大いにメリットのあることだった。それにヘビの牙のちょっとした噛み痕なんて検死官でもよっぽど観察眼のある方じゃないと見つけられないしね。で、口笛のことがあった。隣の部屋に送り込むってヘビだけど、朝に犠牲者が発見されたときにその横で見つかるなんてことがあっちゃもちろんダメなんだ。だからロイロット医師はそのヘビを手なづけた。あの部屋にあったミルクを褒美に使いながらね。口笛を吹いたら自分のところに戻ってくるよう訓練したんだ。そうしておいて、夜中に頃合いを見計らってはそいつを換気口から隣の部屋に送り込んでた。ヘビがロープを伝ってベッドまで降りていくとわかった上でね。そいつが確実にベッドで眠る女性に噛みつくかどうかまではわからなかっただろうけど、運よく7日連続で牙から逃れたとしても、いずれはそれの犠牲となるだろうからね。 
もうこのあたりまではロイロット医師の寝室に入る前から見えてたんだ。そっからあの部屋に入ってあの木のイスを調べてみて、座る面に何度も足を置いたような跡があるのを確かめられた。もちろんヘビを換気口から突っ込むときにイスに乗っからないといけないからね。あと金庫とかミルクの入った皿、先が輪っかになったムチなんかもその室内で見つかって、僕の中ではもう完全に迷いは消えてた。ストナーさんが聞いたガチャンって音は、義理の父親がその恐ろしいペットを金庫に入れてから急いで扉を閉めるときの音だったんだ。そこまでわかったんなら僕があとどうやって証拠をつかみにいくか知ってるだろ? 君にも聞こえたと思うけど、あのとき近くでシーッシーッという音を聞いて、すぐにろうそくに火を点けてムチでそいつを叩きつけてやった。」 
   
「それでそいつが換気口を通って退散することになったのか.. 」 
   
「うん、で、それがそいつを隣の部屋にいた自分の主人に向かっていかせることにもなった。僕が叩いた中でかなり効いたのが何発かあっただろうから、それでヘビ本来の気性がむき出しになって、最初に見た人間に噛みついていった..  だからロイロット医師が死んだのには僕の行動もけっこう関係しているんだけど、それでこの先すごく心が痛むことになるかと言えば、ならないと思うけどね。」 
   
 
   
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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