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だいじなものがわかるとき

昨日、灯台屋応援企画(!)オンラインコネプラCafeをみかどさんが開いてくれた。緊張が解けてきたころ、発言の途中であまり脈絡なく自分の口からでたことがあった。

私の住む地域ではこの土日、「不要不急の外出自粛要請」があった。私はいくつかSNSの地域(他市他県含め)グループに加わっているが、複数のグループで飲食店での飲食の投稿がなされていた。ちょっとはらはらしちゃうようなやつも見た。そこではその投稿をたしなめる反応が多数だった。

気づいたのは、出かける人もたしなめる人も、大事にしているニーズが重なっているということだ。

出かける人は、親しんだスペースや生活習慣から得られる「安心」や「安全」。お店の人や飲み仲間との「つながり」。お店への「信頼」。自分と世界への「信頼」もあるかもしれない。たしなめる人も、家から出ないことで「安心」や「安全」を得ている。行きつけのお店に行かないという選択はお店や地域を守ると考えている。そういう「つながり」や「信頼」。そしてその考えややり方を共有している地域や自治体との広い「つながり」。

違っているのは何だろう。「自由」。「自主性」かもしれない。自分は自分の判断で行動する、というメタメッセージを感じる。しかし、外に出ないことを決め、自分の言葉で投稿をたしなめるのもまた自らの決意である。

大事にしているものは重なっている。やり方が違うだけ、と考えた。

これが胸に刺さった棘のようにずっとうずいていた。引き裂かれる感じだった。考えてみると、これは私の中の分断でもあった。自分の場所には来てほしい。収入が途絶えてしまう。けれども来る人の命は守りたい。ぐるぐる。地域のお店に対しても同じだ。みんな行きたいけど我慢しているんだ、では、その場所がつぶれてしまうかもしれないのだ!

そこでまたはっとした。私の目の前にある11人の顔(自分もいるけど)。この人たちが集まってきてくれているのはまさに。。。

「自分の大事なニーズは手放してはだめ」とみかどさんは言った。

「長くなりそうだから、そのあいだはふだんできないことに熱中しよう」と考えていた私は少し虫がよかった。私が提供しているものは目には見えない「つながり」や「信頼」や「確かさ」だった。だからこそ、ものがなくなってもなくならない。ただ、意思がないと、簡単に見失ってしまう。自分が見失ったらみんなの目からも見えなくなるのだ。そのことがよくわかっていなかったのは実に危うかった。

目の前の事象を憂うことでも大事なものはわかる。それは自分を映し出す鏡だから。でも本当に大事なものは嵐であろうが晴れていようが変わらない。もともと自分が持っていて今も自分のまんなかにある、手放してはいけない。と気づけて幸せだった。




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