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青ざめていたころ(小説)

  1

 まだ震災からそれほど時間の経っていないころ。派遣先での仕事がひと段落ついて、ようやく正社員になれそうな話が持ち上がったり、結局つぶれたりした。そんな上司とのやりとりはもう五回目で、私は呆れて、出向先での仕事をしばしば雑にこなすようになっていた。毎朝、スーツを見るのもいやになっていたくらいだ。IT関係の仕事というものは、上の持ってきた企画とそれを実行するための説明書の束、それから確実に実現不可能な納期と、何重にも下請けの網を通過した先にいる安給料の派遣社員からなる。私もその一人にすぎなかった。

 社員登用を盛んに行う、というのが派遣会社の募集時の釣り餌であったということにはすぐに気づいたが、大学を卒業したばかりで資格もなく社会人経験も積まずにまた職のない状態に戻ることはもう金銭的に許されず、満員電車を憎く思いながらもどうにか安月給の仕事を続けていた。

 仕事上のコミュニケーションはほとんどが電話口での応対であり、職場での仲間同士での関わり合いはほとんど存在しなかった。それが気軽で続けられたというのもあるが、これが最も恐れるべきものだった。そもそも、デスクの左右に毎日座る、どこか私とは違う会社から出向してきたというその男性たちの名前もあやふやなものだった。必要なのはそこでのリーダーと上司の名前のみで、あとはほとんどがネットワーク上の関係に終始していたのだ。

 そんな水をより薄めたような関わり合いにも嫌気がさしたし、いつまでも仮の職場で働き続けることに吐き気がしてきた。私は職場に来るなり、形だけのあいさつも放り投げて、無言で仕事をこなす不愛想な奴になろうとした。そう決めて一週間で体調を壊し、気持ちも塞ぎ込み、厄介な事件にも巻き込まれてしまった。なにもかもうんざりして、なにもかも考えられなくなった私は、もう仕事には行かない旨を会社に伝えて、都心に借りたアパートにひきこもることにした。四月のことだ。

 毎朝、十時に起きる。テレビも本棚もない、ベッドの脇に冷蔵庫と携帯電話の充電器が床に転がっているだけの部屋だ。換気するために窓を開けると、廃棄された生ごみの山のようなにおいが漂ってきた。空の青さもそのせいで濁って感じられた。一日中ベッドに伏しているわけにもいかないので、起きてキッチンで昼食の準備をする。昼食を作る間に私が考えているのは、夕食に何を作るかという無為なことだけだった。卵と食パンだけで食事を済ませたら、顔を洗う。歯を磨く。それからジャケットを着て外に出て、近所を一周して戻ってくると、新聞をポストから取って一面と国際面を読む。途中で買った缶コーヒーを飲み、なまぐさいにおいを運ぶ窓を閉じる。

 そうやって一日を始める。しかし、私はもう就職のことを考えていない。いや嘘だ。一日に一度、散歩から帰ってきて窓を閉じるそのときにだけ、私は社会との関わりについて考えてみる。通りを歩く人々や、ビルのがたがたした並びの陰影、飛び交うことばやなまぐさいにおいを嗅ぐたびに、私はいつあのころに戻れるのだろうと考えずにはいられない。

 窓を閉ざし、カーテンを引き、暗い何もない部屋に電灯を点す。そのとき、部屋にある数少ない家具らしい家具である姿見が私を映す。白い蛍光灯の明かりと、カーテンを透過した黄ばんだ明かりをうけた私の表情は、ひどく青ざめていた。まるで死に向かうように。

  2

 アパートの隣人の名前は伊吹さんといった。彼女は私が起き始める十時になるころにはもう出勤していて、帰ってきて部屋でごそごそやりはじめるのは夜の十時だ。十二時間も部屋を開けているが、疲れはないらしく、部屋に帰って来るなり鼻歌交じりに料理を始める。私が仕事をしていたころは知りえなかったことだが、彼女はけっこう歌が上手い。以前、大学生のころに歌手を目指していた友人にカラオケに散々つき合わされたが、そこで聴いた歌よりは少なくとも聴き甲斐があった。私の知らない歌ばかりかと思えば、時々最近のはやりの歌を恥ずかし気に口ずさむ。覚えたての歌詞がまだ唇に馴染まないのか、その声はちょっと控えめだった。

 鼻歌とは言ったが、伊吹さんはカラオケと同程度の音量で歌う。彼女の出す音が静かであったことはない。料理の際、フライパンをコンロにがしゃがしゃと叩きつけるし、風呂場に入れば歌声は最高潮に達する。電話口での話し声はすべて筒抜けである。おしなべて音量の調整を知らないのだ。だからたびたび大家に注意を受けるのだが、その謝罪の声も大きくて、思わず笑ってしまった。

 ただし、笑いごとで済まないこともある。仕事を辞めて一カ月が経ったころ、私がベッドに伏して天井を見つめていると、不意に体を跳ね上げてしまった。長く鋭い悲鳴が上がったのだ。隣家からで、帰宅したばかりの伊吹さんのものだった。それも「助けて」とか「死ぬ」とか繰り返し叫ぶものだから、廊下に飛び出して彼女の部屋のチャイムを押すしかなかった。慌てた彼女はスーツと乱れた髪で廊下へと駆け出てきた。

「どうしたんですか」「Kさん、助けてください」「あまりの大声に心臓が止まるかと思いました」「済みません。生きているんです、あんなのが動いて、足が、足が多すぎます」「なにが?」「蜘蛛です」

 硬直してしまった彼女に代わって部屋を覗くと、とてもじゃないが蜘蛛と呼べない代物がキッチンの廊下に這いつくばっていた。体は私の拳よりも大きく、肥えた胴体と六本の脚はまだら模様で覆われ、産毛のようなものがびっしりと生えている。タランチュラと呼ばれるようなものではないか。と、そこでその生き物に見覚えがあることに気づいた。

「ああ、あれ……」と私が廊下まで戻ってくると、相変わらず大声で咎めるみたいに身を寄せてきた。「なんですか、Kさんご存じなんですか。もしかしてあなたのペットですか」「いえ、違うんです。けれど飼い主は知ってます」「毒持ってるでしょう、あれ。信じられない」「ちょっと、静かにしてください」

 その蜘蛛は正しくはアイちゃんという。私たちの住む真下、二階の住人の真澄さんの飼い蜘蛛だ。タランチュラの一種だが毒はない。部屋のなかで離し飼いにしているのだが、よく洗濯物を干すときに逃げ出すらしく、以前私の部屋にも一度お邪魔されたことがある。そのときは真夏だった。あまりの暑さに悪臭を我慢しながら窓を開け放っていた。アイちゃんが窓から私の枕元まで飛び込んできたときには、ついになまぐさい都会の悪臭が形を得たのかと思い、寝ながらに死を覚悟した。

「二階の真澄さんって方のペットですよ」私は声の調子を落として言った。「毒はないですけど、こうしているのが見られたりしたらまずらしいんですよね。ニュースにでもなれば蜘蛛飼育の界隈に迷惑がかかっちゃうとかで」「知りませんよそんなの。私、その方のところに行ってきます。引き取ってもらわないと」「私が行きますよ」

 と言ったところで、外廊下の階段を靴音が上がってくるのに気が付いた。私と伊吹さんが顔を向けると、ちょうどよく真澄さんが頭をぐるぐる回しながらこちらに近づいてきた。片方の手にはケージがあり、愛蜘蛛を探しているらしい。伊吹さんが長い髪をしている一方で、真澄さんは女児のような短髪だった。声をかけると、頭を回転させるのをやめて、会釈をされた。真澄さんを紹介すると、伊吹さんは憤りを隠さずに、「お宅のペット、来てますよ」と声を震わせた。

「ごめんなさい、うちのペットが侵入してしまいご迷惑を」「こういった集合住宅で蜘蛛を飼うなんて、非常識なんじゃないですか」「済みません。以前こちらの方にもご迷惑をおかけしましたので、管理には気を付けていたのですけど」「第一、籠に入れるなりすれば済む話じゃあないですか」「ええ、しかし、閉じ込めておくのもかわいそうなので」「失礼ですが、このことは大家さんは御存じなのですよね?」「いえ、ここペット禁止ですので……」「ですよね、ですよね」

 昂ってきたのか、伊吹さんの声量はまた高まった。天井知らずだった。

「とにかく、このままでは部屋に入れませんから、すぐに連れて帰ってください」「ええ、かしこまりました」真澄さんは長いコートの裾を揺らしながら戸口を潜り抜け、キッチンの床で触覚を遊ばせるアイちゃんをケージに誘導した。その後ろ姿を眺めつつ、ようやく気持ちが収まってきたのか、伊吹さんは深く長い息を吐きだした。そこでようやく、私のことに気づいたと言わんばかりに、「ご迷惑おかけしました」と頭を下げた。たぶん、彼女も私と同じ二十台半ばの年齢だろうと思った。真澄さんは二十台後半だったと思う。

「済みません、夜に大声をあげてしまいました」「いえ、いいんです。私も初めてあの子を見たときは死が頭をよぎりました」「お休みされていたでしょうに……あっ」

 あっ、と大声を上げられて、突然のことに心臓が止まるかと思った。伊吹さんは幽霊でもみたように私を驚愕の目でみた。「顔が真っ青ですよ、どうされたんですか」「えっ」「まさかアイちゃんの毒に……」「この子は毒なんてないよ」と真澄さんが蜘蛛を入れたケージを片手に、憮然とした表情で廊下に戻ってきた。「でもたしかに、顔色がすぐれないですね」「どうしたんです、体調が悪かったんですか? それなのに本当に、起こしてしまい済みません」「いえ……」

 私は顔を隠した。しかし、今度は顔を覆った手の震えが顕著に出てしまい、余計に二人に心配をかけることになってしまった。そのときはもう、さっさと部屋に戻りたいとしか思わなかった。「本当に、大丈夫ですか」と伊吹さんが綺麗な声で顔を近づけてきた。私にはない、人懐っこそうなやわらかい顔立ちだ。伊吹さんと真澄さんに挨拶をして、私は部屋に戻った。朝になるまで、どれだけ暖房をつけても、毛布を重ねても、体の震えと涙が止まらなかった。

  3

 伝説のバンドというものが、きっとどんな人のなかにもあるだろう。私はMP3プレイヤーを持たないから、音楽を持ち歩くということをしない。けれど、朝に街を歩いているとき、ふと足音のリズムに音楽が乗ってくることがある。それは聴き馴染みのあるものでもあれば、どこかでワンフレーズだけ聴いたことのある曲だったりする。そういうときに、よく無意識のなかに浮かび上がってくるバンドがあった。

 ≪THE BLUE HEARTS≫その名前を知らない人はいないだろう。誰もが認める最高の日本のロックバンドだ。その日、雨が上がってやや日差しの強くなった日曜日、伊吹さんはずっとブルーハーツの曲を口ずさんでいた。

 私は相変わらず、ベッドに伏せ続けている日々であった。天井を見上げ、冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターをときどき摂取し、床に散らばった本をとりあげて頁をめくる。そんな無為な生活をカレンダーで計算し、残りの貯金額からこうして伏せっていられる期間を、小銭を数えるみたいにぼんやり見据えて、そうしてうっすらと眠りのなかに沈んでいく。

 そんななか、伊吹さんの喉が奏でるブルーハーツはやけに憂鬱に私の頭に凍み込んできた。ビロードを束ねたみたいな滑らかな声は、直方体の部屋をひたひたに憂鬱で浸したのだった。

 午後になってチャイムが鳴った。髪を切られすぎた女児のような頭の真澄さんがドアの向こうに立っていた。「以前のお詫びに……」と途切れた言葉の先の代わりに、洋菓子の箱を差し出してきた。箱はふたつあり、もうひとつは伊吹さんのためのものなのだろう。私はさっさと社交辞令の会話を終わらせて部屋に引っ込もうとした。「あの、迷惑でなければ、でいいんだけど。前から気になっていたことがあって」おそらく答えづらいことを聞かれるのだろうとは思ったが、拒めなかった。「仕事は、なにをされているの?」「今はなにもしていません」「やっぱり」「やっぱり?」「一日中なにを」本当ならこんなことは答えることはなかったのだけれど、真澄さんの三白眼の目や、とんがった鼻筋をみていると、どうしてか口が先に動いてしまうのだ。「あのベッドに寝ています」「ベッドに?」「ええ。朝と夕は、さすがになにか食べるために動きますし、買い物や必要な振り込みはしますけれど」「はあ」

 ドアの隙間から見える殺風景な1Kを眺めながら、彼女は右目の縁を掻きながら頷いた。「天井をみつめて、なにか考え事を?」「朝に読んだ新聞のこととか、散歩で見かけた物事とか、植物のこととか」「思想家でいらっしゃる? それとも詩人?」「ただの低回家です」気持ちの良い風が廊下にこもった空気を吹き流していく。伊吹さんの鼻歌は≪HIGH-LOWS≫時代に入った。日曜日の午後は、なんとも不思議にすぎていくものだと、無関係なことを思った。「Kさん。私、昔にこんな本を読んだことがある。浴室に引きこもってしまった男の話。御存じ?」「いや、知らないですね」「貸しますよ」

 その後、彼女は本当にその本を持ってきてくれた。ケーキはおいしかった。彼女の貸してくれた本を読みながら、たぶん買い物に出かけてしまった伊吹さんのかわりに、私はブルーハーツの曲を口ずさんだ。≪浴室≫というタイトルのその本は、短く内容も読みやすく、すぐに読み終えてしまった。その作品の主人公は終わりにむけて絶え間なく運行していく。浴室に本を抱えてひきこもったが、あるときひきこもりをやめて、妻を残して長い旅に出る。そのなかでも彼は、雨粒に、列車の進行に、死のにおいを嗅ぐ。私は煙草に火をつけて、窓を開けて吸った。つまり、こういうことだった。すべてのものは移ろいのなかに存在しているのであるから、その動きを止めることはどうやら誰にもできないらしい、止めてみたときそのことがわかる。それは本当にそうだった。私は煙草の灰をペットボトルに棄てて、煙を吐き切った。煙はしばらく部屋の片隅に巣をつくるみたいに固まっていたけれど、なまぐさい風が吹き込んできて吹き流されていった。私は引き続き、≪BLUE HEARTS≫から≪HIGH-LOWS≫≪ザ・クロマニヨンズ≫へと変遷する彼らのひとつずつの曲を噛みしめるみたいに歌っていった。

 4 

 夏に入るころには、風の運んでくるなまぐささは例年を超えて強烈さを増し、私は部屋の窓を開けることがなくなった。都心を歩き回るときには、ほとんど口呼吸ばかりで、私は魚みたいにぱくぱくと顎を上下し、清潔な空気を求めていた。

 以前勤めていた会社で起きた事件は、どうにか収まったらしい。そう連絡があった日、空は厚い雲で覆われていた。低く垂れこめた灰色の空の下、いつふりだすかわからない雨を恐れて、窓の外の人々は足早である。昼過ぎ、その電話はあった。元上司の男性のことばは、私の落ち着きつつあった気持ちを予想以上にかき乱していった。

 事件については、私はほとんどかかわりのないことだ。ちょうど、携帯電話の電波補強の工事の案件(いつもそればっかりだった)が始まったころで、私はもうそのころには仕事に対する意欲を例の理由で喪失していた。私を含め、そのグループのデスクの使用者は四人だった。全員が別々の出向元の派遣社員であり、誰もが自分をその場所に送り込んだ元請けが誰なのか、一切理解できていなかった。そのうちのひとりが、とつぜん真後ろにばったりと倒れた。

 若い女性だった。おそらく大学を卒業したばかりだと思う。彼女の細く白い両脚が、とつぜんデスクの上に花開いた。足先で、一組の真っ赤なミュールがつん、とそのつま先で天井を指示していた。けっこうな音がしたので、フロアの人間がみんな彼女をみた。そして、誰もが駆け寄っていこうとしたが、誰も彼女の名前を呼ばなかった。席を外していたリーダー以外、誰も彼女の名前を知らなかった。

 私はパソコンを挟んで真正面に座っていたから、咄嗟に乗り出して、そのひとの姿を目でとらえた。ただバランスを崩してひっくり返ったのではないことが容易にわかった。彼女はデスクに足をひっかけて、両手をマット地の床にだらしなく投げ出して、意識を失っていた。眼球がひっくりかえって白目を剥き、口をOの字に丸々と開いて、痙攣する体の下で椅子がぎしぎしと音を立てた。その顔は血の気が失せ、白くなっていた。

「どうしたんですか、Mさん、大丈夫ですか。Hさん、救急車呼んでください、ねえ、あなたたち、どいてくださいよ、ちょっと」

 リーダーが戻ってきて、そのMさんという女性の倒れた姿を囲む輪を崩したとき、私たちははっとした。その人の名前がわからなかったにせよ、何かしら手を打てたはずであるのに、私たちはまるで、自分の将来がそこに落ちているみたいに、彼女の痙攣を囲んで見下ろしていたのだった。満員電車で同じことが起きたとしても、誰かしら助けの手を出すだろうに、私たちは誰もが疲弊していた。すり減っていく時間と、摩滅しかかる自身の生活を直視できなかった。深夜までかかる作業と仕事の重圧に胃液が黒くなる思いだった。

 女性はストレス性疾患だった。そうなってしまえば、もちろん今まで通りの状況で仕事が進むはずがない。監査を恐れて、まず同じデスクにいた私とほかのふたりは、職場にいても待機の状態に置かれた。デスクに着いてそのことを告げられた。帰ってもいいと言われて、私はすぐに席を立った。二度と来ないつもりで、ロッカー内の私物を鞄に詰め、社内の備品は初期化してデスクにまとめて置いた。残りのふたりはそんな私を呆然と見つめていた。翌日からは自宅待機を会社から告げられた。その先どうなるかなんて、分かり切っている。派遣社員というものは、反りが合わなくなればすぐに出向先から外される。そうして、またあちこちの都心をめぐり、どこかの会社に受け入れてもらえるまで、喫茶店やファミリーレストランで集団面接を行うのだ。その間にはもちろん給料は発生しない。私は嫌気がさして、会社へ出向いて辞める旨を伝えた。

 電話の最後に、担当の上司は声を潜めて言った。どうしてそうなったのかわからないけれど、Mさんは私が虐めていたということになったらしい。

 5

 真澄さんに本を返しに行くついでに、私のおすすめの本も渡しておいた。

「ああ、ありがとうございます」

 と無表情で頷いて、彼女はそのまま出て行くつもりだったらしく、靴を履いた。片耳に大きい輪のイヤリングをして、カッターシャツの胸元に赤いガラス製のブローチを付けていた。普段身を飾る人ではないから、それだけでも華やいでみえた。

「どこに行くんです」もしかすると、前から聞いていた恋人とデートだろうかと思ったが「仕事」と短く言った。「その恰好で?」「なに、悪い。そういう仕事なんだもの」というので、興味が湧いて職場のある駅前までついていった。久しぶりに遠出をした。駅前の道は夕方に向かって混雑の度合いを増し始めていた。人混みをくぐり抜けて長いコンコースを進み、駅の反対側へと向かった。「お仕事ってなんなんですか」「うーん、お楽しみに」「なんですかそれ」「Kさんの仕事とそんなに変わらないかも」「なにそれ」「生産性はゼロだね」

 それで仕事として成り立つのかと疑っていると、改札を見渡せる駅前の広場へと彼女は歩いていく。汚れたタイルの地面はところどころに一方行へと延びる吐瀉物の痕跡がみられた。歩道橋の真下へと向かう。その錆びた柱の根本に、「占」の一字が入った行燈を載せた小机があった。椅子には卜者らしい恰好の年配の男性がおり、書店の紙カバーのかかった文庫本を熱心に読み込んでいた。

「佐山さん、代わりますよ」少しくだけた調子でそう言う真澄さんに、男性は顔を上げずに「おう」と頷き、すぐに身支度を始めた。小机の上に占術に使うらしい冊子や道具を置いたままに、その人はさっさと駅へと続く人混みに紛れていった。

「よいしょっと。あ、ぬくい」真澄さんはさっきまで男性の腰かけていた椅子にお尻をつけ、黒い布のかかった小机の下から黒い衣装らしきものを取り出してそれを肩からかけた。そうしているとイヤリングやブローチも相まって、神秘的にみえなくもない。「印象が大事だからね。いかにもふつうの服着た女がここに座って、ぺらぺらと手相の本を予習してたら、誰も寄ってこないでしょ」「まあ」「座って。占ってあげる」

 当たるか当たらないかは別にして、彼女の手相を見る目付きや仕草は堂に入っていた。なるほど、こういう仕事で大切なのは、あくまでもなりきることなのか、と感心していると、「来年死ぬ」「適当すぎるでしょう、もっとまじめにやってくださいよ」「ごめん、人寄せにちょうどよかったんだ。もし本格的に占ってほしいなら、また時間のあるときに来て。本当はもっとじっくりと時間をかけてやるものなんだ」

 そう言われては立ち去らないわけにはいかない。夜気が足元から這い上がり始めてきた。人混みは密度を増し、ひとつの流れとなって私たちのすぐそばを通り過ぎていく。時折、なにか気になるようで、真澄さんをじっと見つめて目を離せないらしい人が人混みのなかにいる。私は椅子から立って、それから早口でひとつだけ質問をした。

「どうしてこの仕事を?」「偶然」短く言い切った。「さっきの人が道楽でやってるのを、夜だけ代わってくれって。知り合いを通じて、かな」蜘蛛って餌代かかるんだよね、と口の端をゆがめて、彼女は手を振ってくれた。オレンジ色の水銀灯に浮かび上がった彼女の顔は、いつもより血色がよくみえた。

 6

 伏せっている日々が夏を終えても続けられないと知った。奨学金の返還の約束を反故にしていたのが、いよいよもって難しくなってきた。返還猶予の申請は後ろめたさからできておらず、利子付であったから、そのぶん、働かなくてはいけなかったはずなのに、私はしばらくはまだこの部屋にいられると高をくくっていたのだ。その日から夜は眠れなくなった。私は携帯電話を無意味に握りしめて、冷蔵庫のモーター音を聴きながら、闇にむけて目を見開いていた。そうしていると、頭のなかにことばが流れ込んでくるのだった。過去に言われたことばが、順番に入ってきては、出口もなくぐるぐると回遊を始める。お前は駄目な奴だ、とあれは誰に言われたのだったか。思い出せない。あなたに虐められたと言っています、けれどそれはもうこちらで処理しますから。これは思い出せる。つい先日の、元担当上司のNのことば。

 朝になるとようやく深い眠気が襲ってくる。私はことばから解放され、意識が途絶えるように眠る。私の食事は夜に一度だけになった。昼間に外出することもなくなったために、窓から流れ込んでくるなかば腐った生き物のにごったにおいだけが外界のすべてになった。

 一度だけ、真澄さんが部屋を訪れてくれたが、私はただただ眠かった。おそらくそれは逃避だった。処理しきれない現実に体が膝を屈したのだ。彼女は本を返しに来てくれたらしい。私は自分がなにを貸したかすらも思い出せなかった。たった三四日前のことなのに、それだけでも記憶が過去に遡上することが苦痛で仕方なかった。働かなくてはいけないのに、どうやって職を探すのかについて思い出すことや考えることをしようとすると、それだけで手が震えた。

「顔、真っ青だよ。青ざめてる」真澄さんはそう言って、すぐに去ったかと思うと、片手に重いものを持って戻ってきた。それを私に持たせると、ドアを勝手に閉めて、その隙間から憐れむみたいな目で「少しだけ貸す」と言った。「おやすみ。ちゃんと寝るんだよ」寝れるはずがなかった。私は電気も点けない、なにもない部屋を歩いていき、それをベッドのすぐ脇に置いた。なにをするにも面倒くさくて、人の期待に応えることなんてなによりも胸を苦しくさせた。だから、私はそれをそのままにして、携帯電話を胸に抱いてベッドに横たわった。

 目が闇のなかで動いているのを感じる。頭の芯がじんじんと痛む。体も意識も疲れ果てているつもりなのに、眠りは一向に訪れない。一度か二度、気絶するみたいに眠れはするが、それだって長くは続かない。中途で覚醒してしまえば、余計に眠れなくなる。真澄さんに薬を買ってきてもらえばよかったと後悔した。そこで、もしかすると彼女は医薬品を持ってきてくれたのではないかと思い、さっきの床に置いたものを携帯電話の明かりで照らしてみた。それは銀色に輝いた。細かい金属の線で編まれた籠だった。そのなかで、無数の闇がうごめいた。籠のなかで、それはじっと息を潜めてなにかを待つみたいに伏せていた。アイちゃんだった。

 私は驚いて籠を蹴ってしまった。慌てて明かりをそちらに向けると、アイちゃんは開いた籠から出て、床の上に着地するところだった。蹴ったせいで、籠の入り口の留め金が外れたらしかった。私とアイちゃんはしばしそうして見つめ合った。五分は経っただろうか。私は緊張の末、アイちゃんが動こうとしないことを見て取ると、籠をそっと取り上げ、籠の入り口を床に向けてその大きな体を収まるように下ろしていった。アイちゃんは良い子だった。勝手に籠の隅まで這って行き、そこでじっとした。私は留め金をしっかりと留めて、改めてアイちゃんをベッドの脇に置いた。

 闇をじっと見つめるよりは、アイちゃんを見つめているほうが気持ちがよかった。アイちゃんはじっと、そこでただ伏せっているだけだった。なにを待っているのか、きっと自分でもわからないのだろう。ときどき触覚を揺らしているのが、わずかな光のなかで見えた。

「ああ、疲れた、もう辞める。あの仕事もう辞める。あほくさい」

 伊吹さんが帰ってきた。大声で愚痴っているのは久しぶりだった。ここ最近は、疲れ切って帰って来るようで、物音がすぐに途絶えるのだった。いつもの歌声もなしで、朝方も早くに出て行ってしまう。

 声に反応したのか、アイちゃんは脚をわずかに動かして、その場で旋回を始めた。そのかすかな物音は愛らしいものだった。

「明日休みでよかったあ、死ぬわよほんと。いいかげんにさあ、仕事なんてしたくないよもう、誰か養ってくれよもう。私そこそこかわいいよ、もう」

 あまりに素直なことばに私は噴き出してしまった。アイちゃんと目が合う。私はもう眠ろうとすることを手放して、しばらくはこうしてアイちゃんにみつめられながら、伊吹さんの声を聴いていようと思った。彼女はフライパンでコンロを叩き、掃除機をかけ、高い声で鼻歌を歌った。シャワーを浴びに行ったのか、歌声はより大きく響き渡る。≪THE BLUE HEARTS≫だった。

 私は突然、また身の震えを覚えた。それは一度高まり、私に究極的な寒気を与えると、急速に去っていき、次第に頭の芯からもなにか硬いものが抜けていった。深い眠気が与えられ、私は薄らいでいく意識のなかで、伊吹さんの素敵な歌声によって紡がれる歌詞をひとつひとつ、噛みしめた。ブルーハーツ。青ざめた心臓。憂鬱に沈んでしまった心にも、もう一度熱い血は流れるのだろうか。こんな私でも?

 私はいつのまにか眠っていた。本当に久しぶりに、夢をみることができた。アイちゃんは眠っており、かすかにも動く気配がなかった。改めて朝の光のなかでみると、産毛が朝露を帯びた葉のように輝いている。それは死に向かう眠りではなく、生への静かな待機だった。

                                  了

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