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小岩井農場

 住んでいた大槌町、隣接する釜石市、山田町といった生活圏を除いて、もっとも多く足を運んだ岩手県内のスポットは小岩井農場である。それがどこにあるか知らなくとも、小岩井農場の名を知らない人はいないだろう。東京で小岩井農場の乳製品が置かれていないスーパーをわたしは見たことがない、といったらいいすぎだが、その製品は全国に出荷され相当な知名度を得ている。

 盛岡から車で三十分程度。国道46号を西に進み、一度右折すればあとはまっすぐというわかりやすい場所に農場はあるのだが、46号を右にそれて少しだけショートカットできる道がある。46号をまっすぐ行ってしまうと気づかないのだが、この道一帯には数軒のラブホテルが集まって建っていて、近くにある「盛岡手づくり村」をもじり「子づくり村」と呼ばれている。ラブホ=セックス=子づくりという発想は短絡的でなんとも気持ちわるいが、「村」というのはおもしろい。田んぼの広がる中にホテルが点在していて、たしかに東京のラブホ「街」とは違う「村」なのだ。ラブホテルはディズニーランドに並ぶ娯楽施設だとおもっているわたしとしては、ぜひこの村に滞在してみたかったが、残念ながらその機会には恵まれなかった。

 農場のうち一般の観光客が入れるエリアを「まきば園」という。まきば園には一年で四回も行った。一回目は一人で、あとは東京から遊びに来てくれた友人や家族を連れて行った。春夏秋冬、各シーズンの農場を楽しんだことになる。馬に乗ったり、乳牛を観察したり、羊が犬に追いかけられるのを見たり、園内でしか飲めない牛乳を飲んだり、ジンギスカンを食べたり、バーベキューをやったり、重要文化財に指定されている施設を案内してもらったり、トラクターで森林へ連れて行かれたり、アーチェリーをしたり、ゴルフをやったり、冬はイルミネーションを楽しんだり、そりに乗ったり、雪原をスノーシューで歩いたり、広大な農場の面積のうちのほんの一部にすぎないエリアなのだが、とても一日では遊びきれない。ネズミやアヒルのかわりに牛や馬がいる夢の国だ。四回行っても足りず、様々なアトラクションの半分も体験できていないのではないか。

 それでも四回も行けば人より小岩井農場に詳しくなる。「小岩井」の名は小野義眞、岩崎彌之助、井上勝の三人の名字からとられた、などは序の口で、農場で飼われている動物で一番多いのは実は鶏である、などガイドが客に出す定番のクイズの答えも覚えてしまった。わたしにとっての小岩井農場うんちくベストは、現在の広大な農場がかつては荒野であり、人の手によって植林、土地の改良が行われたということだ。農場が開設された明治中期、その土地は木がほとんどない湿地帯で、まずは冷たい西風を防ぐための防風林が必要だった。石灰散布による土壌の酸度調整も必要で、数十年かけてこれらの環境整備がされていったという。

 現在の小岩井農場から荒野だったころの姿を想像するのは難しい。視界いっぱいの草原、うつくしい牧草、そこかしこに現れる杉林、遠くに見える森。東京で人工物に囲まれて育ったわたしにとって、それらは自然そのものだ。それが実は人の手によるもの、いわば人工物なのだ、といわれると何か釈然としない。自然/人間、自然/人工、自然/不自然の境界はどこにあるのだろう。人間の営みに影響を受けた自然として、「里山」、「二次的自然」などの考え方がある。人間も自然界の生物の一種にすぎないのだから、その営みによってつくられた自然もまた自然といえる。本来それらの境界は曖昧なもので、区別すること自体ナンセンスなのかもしれない。ではそれが畑や林ではなくて、スキー場だったら? ダムだったら? ラブホテルだったら? 原子力発電所だったら?

 宮沢賢治の作品に小岩井農場はたびたび出てくる。生前刊行された二冊だけでも、『春と修羅』に「小岩井農場」という詩が、『注文の多い料理店』に「狼森と笊森、盗森」という童話がある。「狼森と笊森、盗森」は、現在の小岩井農場にあたる土地を数人の農民が開拓するという話で、人間たちが動物や森(=自然)と行う交渉が描かれる。入植にあたって百姓たちは、まず森にその許可を得る。「こゝへ畑起してもいゝかあ」。「こゝに家建ててもいゝかあ」。「こゝで火たいてもいゝかあ」。「すこし木貰つてもいゝかあ」。村ができてからは、子供、農具、粟がつぎつぎ森にさらわれるという事件が起きるのだが、百姓たちはそれぞれを取りかえすかわりに粟餅を森へ与えることになる。そこでは人間と自然が対等な立場で交渉を行っているように見える。また、開拓によって自然を利用させてもらうこと(=贈与)に対する返礼というフェアな関係が成り立っている。(この物語は、狼森、笊森、盗森が名づけられたいきさつを「私」が「黒坂森のまんなかの巨きな巌」から教えてもらうという額縁構造になっていて、「私」は話のお礼に銅貨七銭を森に渡そうとするが受け取ってもらえない。また、物語の前提として動物や森は擬人化され、人間の言語で交渉が行われる。貨幣、言語といった人間の論理が介入している時点で本当はもっと複雑な関係なのだが)。

 自然とのフェアな交渉、返礼なしに行われる開拓、開発こそが人工だ、といったら曖昧だが、意味のない区別ではないかもしれない。わたしの身のまわりにある人工物は、自然とどのような交渉を行ってつくられただろうか。これから何かをつくるとき、わたしたちは自然の声を聞くことができるだろうか。実は東京に帰任してからも一度小岩井農場へ行っている。これから何度でも行きたいとおもう。東京では聞くことのできない自然の声を聞きに。

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