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鯨山

「浪板海岸から山頂まで2kmほど。約2時間少々で登れる」なんてガイドブックに書いてあるものだから、地元の人が気軽に登る山なのだろうと思って、ふらっと登ってみた。大槌町と山田町の境にあって、その突き出た形が印象的な鯨山。かつてこの近くの浜に打ち上げられた巨鯨の肉を食べたことで流行病が治まったという伝説による。

 浪板海岸から歩き始めて、最初は順調だった。車も通れるなだらかな登山道。ほどよく茂った木々の間から漏れる日差しがくすぐったい。ところどころで聞こえてくるせせらぎが心地いい。この道をほどなく行けば山頂が見えてくるのだろう、と期待で歩はずんずん進む。

 少し様子がおかしいと思い始めたのは、登り出して三十分ぐらいした頃だろうか。登山道がいつの間にか人一人しか通れない道幅で、勾配がきつくなっている。少し登っただけで驚くほど心拍数が上がり、全身から汗が噴き出る。木漏れ日よ、もう射してくれるな。これが登山道だろうかと不安になる坂を登り続けること一時間。ようやく七合目である。思えば、登り始めてから一人の人間にも遭遇していない。いるのは頭上をぶんぶん飛び回る虫たちと、せわしなくおしゃべりする鳥たちばかり。大型連休中のよく晴れた日だというのに、ここは地元の人が気軽に登る山ではなかったのか。

 今年大槌に引っ越すまでずっと東京に暮らしてきて、山にはほとんど親しみがなかった。津波の被災地である大槌は海の町と思っていたが、住んでみて印象的なのは、海よりも山である。巨大な防潮堤が町を囲っていて、高いところに上がるか海岸まで下りるかしないと海は見えない。一方、山はどこに行っても視界に入るし、車を少し走らせればすぐに山の中だ。

 山頂に近づくにつれ、倒れた大木が目につくようになった。道を塞いでいるものもあり、跨ぎ越したりくぐったりしなくては先に進めない。大きく口を開けた恐竜の形をした倒木もあって、肝を冷やした。本来は天に向かって垂直に伸びているはずの大木が横たわっている異形は、本能的な恐怖を呼び起こすようである。ふと「自然の豊かさとは暴力でもある」という観念が頭に浮かんだ。恵みの海が大津波を引き起こしたように、われわれの思いとは無関係に、自然は突如人間に牙を剥くのだ。

 九合目の標識が見えてからはがむしゃらだった。早くこの苦しみと恐怖から解放されたい。やっとの思いで山頂にたどり着く。感涙するほどの絶景! とまではいえないけれど、苦労して登った甲斐はあった。西にはどこまでも続く山並みが、東にはリアス式特有の海岸線が見える。津波で流された地域も、まばらに家が建ち始めているのがわかる。偶然だが、鯨の形をした雲が海に浮いていた。

 岩に腰掛け、山頂からの景色を眺めながら、なんてつらかったのだろうと思い返す。標高六一〇メートルの山を登るのが、こんなに大変だとは思わなかった。と同時に、このつらさを私はすぐに忘れてしまうだろうとも思った。これまでの人生を振り返ってみる。将来の生活が不安で思い悩む日々があった。一生許さないと思うほど人を憎んだことがあった。生きる意味を失うような人との別れがあった。もちろんそのような悩みや怒りや悲しみがあったことは忘れもしないが、そのときどういう感情であったかを如実に思い起こすことは、今となってはもうできない。それに比べたら今日の苦しみは、せいぜい一時間半の出来事である。苦労して登ったことは覚えていても、それがどんな風に苦しかったのかは、きっとうまく思い出せなくなる。

 生物としての人間は、つらい記憶を忘れるようできているのだろう。苦しみをいつまでも鮮明に覚えていたら、それに引きずられて生きていけない。忘れる自由があるということはすばらしい。一方で、眼下に広がるこの町は、七年前、大震災という決して忘れられない、そして忘れることを許されない苦しみを負った。「震災を風化させてはならない」と声高に叫ばれる。でもそれは、何を忘れてはならないのだろうか。それは、いつまで忘れてはならないのだろうか。

 そろそろ下山しようと腰を上げると、木に立てかけられた杖を見つけた。杖といってもただの木の枝だが、適当な長さで強度は抜群である。山登りのベテランが杖に最適な枝を選定し、ナイフで切り落としたに違いない代物だ。下りに杖は不要として置いて行ったのか、もしくは単に忘れてしまっただけかもしれない。ベテラン登山家は、自由になった両手を振って颯爽と下りて行っただろうか。あるいは杖を忘れて苦労しただろうか。私はそれをありがたく拝借して下山した。

※本稿は2018年5月に執筆しました。

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