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東京大学大気海洋研究所国際沿岸海洋研究センター

 岩手に赴任したら必ずやりたいことがあった。地方紙を購読することだ。東京にも地方紙はあるが、発行部数は全国紙の方が多く、わたしも全国紙しか読んでこなかった。地方ではその土地の新聞が全国紙よりも広く読まれており、岩手でも圧倒的に地方紙の方が発行部数が多い。シェアナンバーワンは「岩手日報」だ。他にも「岩手日日」など数社あったが、大槌が発行エリアに含まれておらず、必然的に岩手日報を購読することになった。引っ越し初日に電気、ガス、水道と同じ要領で新聞屋に申し込んだ。さっそく翌日から配達されたとおもう。

 全国紙でも地域面の些細な記事を読むのが好きだった。地方紙はいわば紙面すべてが地域面である。全国的にはニュースにならなくても、岩手にかかわるというだけで大ニュースとして日々報道される。わたしが赴任した年は、奥州市の生まれで花巻東高校出身の大谷翔平がメジャーリーグデビューした年だった。大谷が試合に出た翌日の一面には「翔タイム!」というコラムが載った。成績が「4打数無安打、3三振」だったとしても一面を譲ることはなかった。

 当時はまだデジタル版がなく、毎朝アパートのドアポストに差し込まれる紙の新聞を読んでいた。朝一面を家で読み、二面以降は仕事の昼休みに職場でばらばらと紙面を繰った。地元の職員でもこんなに熱心に岩手日報を読む人は少ないだろうから、同僚からは変わり者とおもわれていたかもしれない。さらには、大槌町で暮らした記念にしようと大槌町に関連する記事を一年分すべてスクラップすることに決めた。夜な夜な少しでも大槌町に関わりのある記事を切り抜きファイルにしまうというのが日課になった。何日分もため込んでしまって挫折しかけたことが幾度とあったが、なんとか一年やり抜いた。NOViTA(ノビータ)という背幅が伸びるファイルにつづられた百を超える記事を今も大事に保管している。

 岩手日報の中にも地域面があった。「盛岡・県北」「県南」「沿岸」の三面にわかれていて、記事ごとに市町村名のクレジットが入っている。購読をはじめて間もない四月二十一日付けの「沿岸」面で、一枚の写真に目を奪われた。薄手のダウンジャケットを着た髪の長い女性が、床に置かれた丸いキャンバスに何か描いている。無邪気な笑みを浮かべながら。記者かカメラマンに何かおもしろいことをいわれて笑っているのかもしれないが、その表情は本当に絵を描くのが楽しくてしょうがないという風に見えた。人は何か作業をしながらこんなに無邪気に笑えるものか、と見入ってしまった。よく見るとキャンバスにはウミガメやウミヘビが描かれている。海の絵だ。女性の着ているダウンが水色のせいもあって、絵を描いているというより海の中で動物とたわむれているように見える。ゆるめのズボンに隠れている下半身が魚で、実はこの人、人魚だったりして。

 記事を読むと、女性は大小島真木という名で、東京で活動する現代アート作家とのこと。二週間ほど大槌町に滞在し、東京大学大気海洋研究所国際沿岸海洋研究センターで天井画の制作をしているという。写真の床に置かれた丸いキャンバスが今後天井に設置されるということだろうか。翌日には同センターで制作の様子を一般公開すると書かれている。見てみたいとおもった。大小島真木というアーティストが人魚かどうか、確かめてみたい。

 赤浜という地区にある東大の研究センターは新しい研究棟ができたばかりだった。赤浜は、ひょっこりひょうたん島のモデルになったとされる蓬莱島のある沿岸の町だ。海岸は山の陰に位置するにもかかわらず、町は津波によって甚大な被害を受けた。同センターの旧研究棟も三階部分まで津波にさらわれたのだが、躯体は残っていたため三階部分のみ改修し、なんとその後七年も研究棟として使われ続けたという。二〇一八年の春にいよいよ新研究棟が完成し、その日は施設内の見学もできた。震災後に造成された高台へとつづく傾斜地にある建物は、白と黒の幾何学的なデザインで、研究施設だといわれなければおしゃれなホテルか何かに見えた。

 建物に入ると、エントランスに足場が組まれていた。その上で女性が天井に筆をふるっている。新聞に載っていた写真と同じ格好。大小島真木だ。足場から投げ出している脚が見える。さらには、新聞だか雑誌だかの記者と日本語らしき言語でコミュニケーションをとっている。どうやら彼女は人魚ではなく、わたしと同じホモサピエンスのようだ。それでも天井の海の絵にふれる様は海中から水面に手を伸ばしているようで、やはり水生動物のように見えた。新聞の写真にあった丸いキャンバスがすでに天井にとりつけられていたのだが、そのキャンバスをはみ出して白い天井にまで絵が広がろうとしていた。キャンバスを越境する海は津波を連想させもする。絵は全体的にカラフルで、描かれている海の生物をよく見ると滑稽な表情をしている。豊饒な海、という言葉をつかいたくなるが、あの津波以降、自然の豊かさは人間に対する暴力にもなりうる、という観念がわたしを離れない。

 その天井画に魅せられ、東京に戻ってからも機会があれば大小島作品を見に行った。大小島作品に通底するのは「共生」の思想だ。共生といっても、多様な人間が、多種の生物がともに生きるという次元ではない。生/死、生産者/消費者/分解者を超えた次元で絡みあう世界だ。圧巻は二〇二〇年の練馬区立美術館「Re construction 再構築」展で並置された「ゴレム」と「胎樹」という作品。人間の死骸であろう「ゴレム」の目や口からは草木が芽生え、切断された腕からは鳥の羽が生えている。左脚から伸びる枝の先にある「胎樹」に描かれた大きな目は、見るもの(鑑賞者)と見られるもの(作品)の関係を転換させる迫力があった。作品にわたしの心がバレる、という感覚に陥る美術作品に今までふれたことがあっただろうか。作品(身体)を表象とした魂の交換が、人間/自然、作品/鑑賞者などいくつもの次元で同時に起こっている。それでいて大小島作品はどこかユーモラスでもあるのだ。頻繁に作品に現れる動物たちの表情は真剣でありながらどこかとぼけてもいる。たとえば大きな絵本の一ページとして、にやにやしながらただ眺めるだけというのも大小島作品の一つの鑑賞の仕方かもしれない。

 東日本大震災の沿岸被災地では、震災後、多くの地域で震災前より高い防潮堤建設が進められた。一方、研究センターのある赤浜は、防潮堤の高さを従来と変えずに高台に住宅地を造成するという復興が行われた特異な地域だ。蓬莱島の見える景観を守りたい、防潮堤で海の様子が見えないのはむしろ危険だ、といった声から住民主導で進められた復興計画として全国から注目されたという。この計画の根底にあるのは、「人は自然の力にかなわない」(赤浜地区の復興を考える会 会長 川口博美※)という考えだ。防潮堤はしょせん人間のつくったもので、コンクリートにも耐用年数がある。それであれば、海に臨む景観を守りつつ、津波が来たら高いところへ逃げるという教訓を引き継いでいく方が重要だということだろう。

 東日本大震災の教訓の一つは、自然は人間が想定しえない災害を引き起こすということだ。巨大な防潮堤を建設しても、今後それを越える津波が来ないという保証はない。赤浜にもいつかまた津波が来る。想定を超えた津波であれば、高台にある研究センターも再びのまれるかもしれない。天井画が、避難して誰もいなくなった建物もろとも流されていく。描かれた魚、ウミガメ、ウミヘビ、クジラたちが海へかえっていく。ほかの動植物や微生物たちとどこまでもたゆたう。この絵にとってはそれが本望なのかもしれない。

※出典:岩手県大槌町 東日本大震災記録誌「生きる証」(2019年7月大槌町発行)

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