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蓬莱島

 釣りというものをずっと敬遠していた。ずいぶんな偏見だと今はおもうけれど、「釣りをする人はみんな短気だ」と小さいころ父親がいっていた記憶があって、釣りをすると性格が悪くなるんだとおもいこんでいたからだ。

 大槌で住んでいたのは派遣職員用に町が借り上げたアパートだった。シャーメゾンの物件だったから、職員はみんなそのアパートのことを「シャー」と呼んだ(どこかの部屋に集まって飲み会をすることを「シャー飲み」といい、毎週末どこかしらの部屋でシャー飲みが開かれていた)。わたしの派遣元の市は毎年一人ずつ大槌町に職員を派遣していて、わたしが五人目。前の四人が住んだシャーの部屋がそのままわたしにあてがわれた。四人それぞれに、よくいえば置き土産、悪くいえば残置物がちょこちょこあったのだが、基本的にミニマリストのわたしは容赦なく捨てた。唯一処分しなかったのが前前前住者の置いていった釣り竿だった。釣りをする気はさらさらなかったのだけれど、安物ではなさそうで捨てるのに気が引けたのと、下駄箱にうまく収まっていたのとで後回しになっていた。

 その存在を忘れかけていたある日、同僚に釣りに誘われた。その同僚は内陸の盛岡市から派遣されていて、せっかく海の近くに赴任したのだから一度釣りがしたいという。たしかに、これだけ海に近いところで生活していて釣りをしなかったら、もう一生しないかもしれない。釣り竿、うちにあるな。ちょうどいい機会だ。使ってみるか。

 もう一人職場の同僚を誘って三人で釣りに出かけたのは十一月の日曜日だった。暗いうちのほうが釣れるらしいとのことで、集合は朝の五時。東京の真冬の寒さだ。生まれて初めて釣り餌の売っているファミリーマートに入って、生まれて初めてイソメを買った。コンビニって生き物を売っていいんだ。建設中の巨大な防潮堤に沿って新しい道を進む。この道を車で走るときはいつもドラえもんのスモールライトに照らされた気分だ。身長が二メートルもない人間がよく十四メートル以上もある分厚い壁をつくれるものだとおもう。

 防潮堤が途切れたところで、海に浮かぶ蓬莱島が現れる。NHKの人形劇「ひょっこりひょうたん島」のモデルになったといわれる小さな島だ。現代に生まれ変わった織田信長役の木村拓哉、豊臣秀吉役のビートたけし、千利休役の笑福亭鶴瓶が出演したトヨタのテレビCMでその島を記憶している人もいるだろう。そのCMでも使われていたが、大槌町では朝昼晩の時報にひょっこりひょうたん島のテーマソングが複数のアレンジで流れる。波をちゃぷちゃぷちゃぷちゃぷかきわけて。東日本大震災の大津波は蓬莱島も襲い、シンボルであった赤い灯台は倒壊。現在建っているのは震災後に再建されたものだ。

 島とつながる低い防波堤のたもとに車を停め、釣り場とすることにした。(ちゃぷちゃぷちゃぷ)二時間ほど竿を振り続けたが、一向に釣れる気配がない。場所が悪いのか。暗いうちのほうが釣れるっていったの誰だよ、とおもったが口にはしなかった。三人とも話をするには遠すぎる距離を保ってほとんどしゃべらず、寒さと虚しさに耐えた。イソメの手触りと臭いにも慣れて餌をつけるのがうまくなってきたころ、空が白んできた。雲をすいすいすいすい追い抜いて。しばらくするとほとんど同時に三人の竿が引っ張られる。(すいすいすい)リールを回しながらひとおもいに竿を上げると、二十センチほどの細長い魚が釣れた。同僚によるとトラハゼというらしい。それからは三人ともひょいひょいとトラハゼが釣れた。暗いうちのほうが釣れるっていったの誰だよ、とおもったが口にはしなかった。同僚の一人はトラハゼ以外にもなんだかわからない魚をどんどん釣っていく。わたしの竿に引っかかるのはトラハゼばかり。ひょうたん島はどこへ行く。食べられる魚らしいが、捌き方も料理の仕方もわからないから、すべてリリースすることにした。海に帰すと再び元気に泳ぎ出すのだが、一匹針を外すのに手こずって動かなくなってしまった。海に投げ入れても動かず、そのまま沈んでいって見えなくなった。ボクらを乗せてどこへ行く。食べるわけでもないのに魚を殺めてしまった。(ううううーううううー)

 魚の口を傷つけて海から引っ張り出し、またすぐ海へ戻す。釣りとはどういう行為なのだろう。例えばわたしが海沿いのレストランでカツカレーを注文する。カツを一切れ口に入れたらそれに釣り針がついていた。上顎に突き刺さって取れない。口の中は血だらけである。針についた糸でそのまま店の外へ、さらには海の中へと引きずり込まれる。丸い地球の水平線に何かがきっと待っている。しばらくして何者かがわたしを抱きかかえ、釣り針を外してくれる。苦しいこともあるだろさ。その何者かはそのまま手を引いてわたしを陸へと帰してくれた。悲しいこともあるだろさ。突然こんなことが起きたらわたしはどうおもうだろうか。怒るとおもう。だけどボクらはくじけない。なんか人間って傲慢だな。釣りが嫌になってきた。泣くのはいやだ。トラハゼしか釣れないし。笑っちゃおう。もう帰りたい。一日中釣りをする愛好家に比べたら、わたしのほうがずっと気が短いじゃないか。進め!

 などと考えていると、突然「ここ青魚釣れるんですか」と背後から声をかけられた。ひょっこりひょうたん島。びっくりして振り返ると、上下青のジャージを着た金髪の青年が立っていた。大槌では見ない顔だと(大槌の人間でもないのに一丁前に)おもった。ひょっこりひょうたん島。餌をつけるのに必死だったし、青魚がどんな魚を指すのかわからなかったから、おざなりな返事をしてしまった。その後大槌でその金髪の青年を見かけることはなかったから、彼自身が青魚だったのかもしれない。ひょっこりひょうたん島。

※本稿は「ねむらない樹」vol.7(書肆侃侃房、2021年)掲載の短文「岸壁」に加筆したものです。

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