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南部鉄器

 日本各地に伝統工芸品というものがあるが、岩手県のそれは何を措いても「南部鉄器」である。その名とともに、表面がいぼいぼで丸みのある、特徴的な形の鉄瓶を目にしたことのある人は多いだろう。平安時代にはじまる奥州と、江戸時代にはじまる盛岡で発祥が異なり、職人の集まりである協同組合が現在も県内に二つ存在するそうだ。数千円で買える機械製のものもあれば、すべて手づくりのものだと何十万円もする鉄瓶が東京の高級デパートに売られていたりする。

 盛岡にある繋(つなぎ)という温泉地に、陶芸、竹細工、冷麺づくりなど様々な製作体験ができる「盛岡手づくり村」という複合施設がある。南部鉄器の工房もあって、職人さんが鉄器の特徴の説明とともに実際鉄瓶で沸かしたお湯を飲ませてくれる。どうです、まろやかに感じるでしょう、といわれれば確かに口あたりがやわらかく感じるが、本当は普通のお湯との違いなんてわからない、ただのプラシーボ効果かもしれない。しかし、水のミネラル分が鉄に吸着されてまろやかになるという科学的な根拠もきちんとあるようで、さらには鉄から溶けだす鉄分をお湯と一緒に摂取できる効果もあるとか。何より驚いたのは、鉄瓶の内側にできる錆はそのままにしておいていいということだった。錆は体に毒だとおもい込んで生きてきたが、お湯が濁るほどでなければ問題ないらしい。ただ、わたしが気をひかれたのは、そういった効能よりも鉄器そのものの存在感である。大きいものは大砲の弾のようにふてぶてしく、小さいものはちょこんと上品にたたずむその容姿に魅せられた。毎日鉄瓶でお湯を沸かす生活ができれば素敵だろうとおもった。

 現代は電気ケトルを使って一、二分で安全にお湯を沸かせる時代である。あえて時間のかかる、火にかけると熱くなって危険な鉄の塊でお湯を沸かすこともない。東京に戻ってからは南部鉄器のことをおもい出すこともなかったが、ある日、ずっと使っていた電気ケトルが寿命で使えなくなった。二、三日かわりに鍋でお湯を沸かしていて、ふと南部鉄器のことをおもい出した。そうだ、これを機に電気ケトルをやめて南部鉄器を買おう。

 まず向かったのは銀座にある銀河プラザ。歌舞伎座の目の前にある、知る人ぞ知る岩手県のアンテナショップだ。店の一番奥に工芸品のコーナーがあって、南部鉄器の鉄瓶、フライパンや鍋などが並んでいる。比較的安価な機械製のものを除けばどれも職人が一つ一つ手づくりした一点もので、デザインや大きさ、鉄の色合いなどたくさんの種類がある。南部鉄器の象徴となっているいぼいぼのあるデザインが実は苦手で、表面はすっきり、形は丸っこいものを探した。一度に大量のお湯を沸かすこともないから、なるたけ小ぶりなものがいい。いくつかいいなとおもったデザインのものがあったが、数万円の買い物である。その場では決めきれず、銀座、日本橋あたりのデパートをいくつか回った。デパートにあるものは種類が少なかったり、予算より一桁多い値段のものだったりして選ぶことができなかった。

 やはり本場である岩手まで行くべきか。コロナ禍でそれはすぐに叶わない。調べてみると、南部鉄器の専門店が東京に一軒あるらしい。小田急線の祖師ヶ谷大蔵という駅に生まれてはじめて降り、足を運んでみる。十畳ほどの店内に数千円のものから十数万円のものまで、三十種類ぐらいの鉄瓶が並んでいる。お店の人にどこの工房でどんな作りでといったことを解説してもらいながら一点一点鑑賞していると、なぜ鉄瓶を探しているのか、と聞かれた。なぜ、と聞かれるといつもどきっとする。自分の行動のほとんどは人に説明できる理由などないからだ。物事をよく考えないでなんとなく生きているというのもあるけれど、そもそも人間の行動のほとんどは言葉で説明できる動機によるものではないとおもっている。理由はない、というと会話が成り立たないから、鉄瓶の形が好きで岩手にいたときから使いたいとおもっていたんです、などと適当な理由をつける。嘘ではないが、本当にそれだけの理由だろうか。

 鉄瓶でお湯を沸かしている時間が好き、という客が以前いたと教えてくれた。水が湯に変わるまでをぼうっとして待つその時間が好きなのだという。なるほどなとおもった。わたしも含めて多くの現代人は、一日のうちにぼうっとする時間なんてほとんどないんじゃないか。特にスマホが普及してからは、片手で一瞬のうちに世界中の情報にアクセスでき、世界中へ情報を発信できるようになった。ぼうっとする時間なんてもったいない。何か調べなきゃ、何か発信しなきゃ。でもその一方で、マインドフルネスやデフォルト・モード・ネットワークなる概念が生まれ、ぼうっとすることの効能が見直されている。意識的にぼうっとする時間をつくらなくてはぼうっとできない。それが鉄瓶でお湯を沸かす時間であり、一日のうちせめてその数分だけでもぼうっとしようということだ。たしかに鉄瓶は、電気ケトルややかんと違って静かにじっくりとお湯が沸いていく感覚がある。ぼうっとするのにうってつけではないか。

 結局その日その店でも選ぶことはできなかった。物欲がほとんどなく、買い物が苦手なわたしがこういう買い物の仕方をすることはめったにない。何か買う必要があるとき、店をはしごすると疲れて嫌になるのがわかっているから、たいていは一つ店を決めてしまって、そこにそのときあるものの中から選ぶようにしている。価格の比較もきりがないからしない。鉄瓶は違った。ネットで買える商品も吟味した。気に入ったデザインか、実用的なサイズか、機能に不備はないか、長く使えるか、それらの満足度に見合う価格か。結果、最初に銀河プラザで見た「月光」という名の鉄瓶を買うことにした。盛岡にある紅蓮堂(ぐれんどう)という工房の品で、約五万円。小ぶりでかわいらしい一リットルの容量。表面は真っ黒ではなく、光の加減によってほんのり赤みを帯びる。ああ月だなとおもう。最後の決め手はこの月光という名前だった。わたし望月が月光で湯を沸かすのだ。

 月光を手にしてからは、毎日それでお湯を沸かしている。錆もいい感じに育ってきた。鉄瓶でお湯を沸かしている時間が好き、といった客はどんな顔をしているのだろう。お湯が沸くまでのあいだ想像してみる。わたしが、彼・彼女が、ぼうっとしているあいだに、水が湯へ、世界は少し変わっている。

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