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消費圧力に怯えた午後

仕事の関係で、あるメーカーに訪問する機会があった。そのメーカーでは、私のような出入り業者が受付を通ったあとに担当者を待つ場所を、その会社の歴史や製品についての展示スペースにしていて、一番手前には商品が掲載された雑誌が並ぶマガジンラックがある。
女性誌が並んでいた。表紙の華やかなモデルたちがこちらを見つめている。その美しい顔の周りには「いますぐ〇〇ケア」「〇〇が選ぶベストコスメ」「トレンドに着替えよう」「洒落てる人になる方法」「いま着たい服」といった言葉が溢れていた。

怖い。
ものを買え、買い換えろ、消費しろ、という圧力が怖い。

晴天の午後だった。
エントランスの大きな窓からうららかな午後の日差しが差し込み、昼食時だったこともあって待合スペースは人が少なく、きれいに磨かれた床の上で私は一人立ち尽くしていた。目の前にはうつくしい女性の顔が意味ありげにこちらを見ていた。消費を促す言葉とともに。
何よりも怖かったのは、ほんの十年前、都会に住みウィンドウショッピングに明け暮れていた私はそんな恐怖を微塵も感じていなかったという事実だ。

田舎に移り住んで数年が経った。
身を飾らなければ会えない人も行けない場所もほとんどなくなった。服を減らし、化粧品を減らし、頻繁に買い替えなくても充分に生活できることを体感してしまった。歳を重ねたせいもあるかもしれない。
ときどき都会に出かけたときに、人の多さや電車の勢い、駅のアナウンスや店の呼込みの声が響きあう空間にあっけにとられることはあった。普段の牧歌的な生活とは違うスピード感についていけなくなってしまった自分を感じていた。
でも、その日の午後、明るい日差しの差し込むとある会社の受付でであったのは、世間に置きざりにされる寂しさとはまた異なる恐怖だった。

永遠に物を買い続け、短期間使っては捨てる、そんな世界が当たり前のように存在していて、その外の世界に住む私のような人間を手招きしている。そこにある喜びの空虚さに、賢い彼らは気づいているはずなのに、そのサイクルから逃れられないでいる。
高い給料も質の良い流行りの服もコスメももおしゃれな住まいも、それらに支えられた絵になる暮らしも、簡単に手に入るものではない。彼らはきっと努力の末にその立ち位置を勝ち取ったのだ。それなのに、足りない。まだ消費が足りなくて、努力に努力を重ねて働き、新しいものを買う。

古今東西こんなことはよくある話だろう。消費活動の盛んな地域に、そうでない地域で幸せに暮らしている民が行ってみれば皆こんな感想を抱いたのかもしれない。僻みではなく、素直に、「あんな要らないものを買うためにお金を使って、お金持ちはわけがわからないなぁ」なんて思っていたんだろう。

あの恐怖感も私の幸せの裏返しだったのかもしれない。

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