移動販売車

聞きなれないメロディーにふと目を覚ます。いつの間にか眠っていたらしい。スマホの時計は午後2時36分を示している。窓の外に見える空は今にも降りだしそうな灰色の雲で覆われている。

聞きなれないメロディーが少しずつ近づいてくる。移動販売車だ。パイプオルガンのこれはまるで不協和音だ。一体何の販売車だろう?映画で見た外国の教会で流れている宗教音楽のようなメロディーの正体を確かめたくて私は外に出た。

アパートの共同玄関を出て道路に出ると丁度移動販売車が角を曲がってこちらへ向かってくる所だった。2tトラックのキッチンカー。車体は鮮やかなエメラルド色でピカピカに磨かれている。不思議な音楽がより一層大きくなる。聖歌にもアラブ音楽にも聞こえる単調であり不可解な旋律。あまりの音の大きさに鼓膜がびりびりと震える。割れんばかりの大音量で不協和音が住宅街に鳴り響くが通りに出てきているのは不思議と私だけだ。

移動販売車は私の2メートル程手前でキイ、と止まった。エンジンを止めて男が降りてくる。シンと静寂が訪れたが私の耳は先ほどまでの音の暴力の残響音でじんじんしていた。背の低い目の大きな梟に似た男が降りてくる。男は私の目の前まで足早に滑るように近付いてくると体に似つかわしくない低い低い声で絞り出すように語りかけてくる。

全く別の人生は要りませんか

私は一瞬その言葉が理解できずにたじろぐ。

男はもう一度、一言一言噛むようにゆっくりと話す。

全く別の人生は要りませんか

全く別の人生?梟のような男は私をじっと見てそして低い声で続け様に話し始めた。

私が売っているものは全く別の人生を生きる権利のような物です。見た目は大きな枯葉によく似ています。これを心臓の上に貼り付けて眠りますと次目が覚めたとき貴女は今の貴女とは全く別の人生を生きることになります。何の矛盾もなく他人の人生のようなものを始められるのです。

男は真剣である。私は少しだけ興味を抱いて男に小さな声で問いかける。

それは、自分の思い願う人生を生きられるのですか

瞬きもせずに男は答える

いいえ。どのような人生が始まるのかは選べませぬ。ただ1つ言えることは兎に角全く、貴女の意識は今このまま、環境ががらりと変わります。家族も友人も見ず知らずの別人と入れ替わります。街の風景もテレビのタレントも全てが変わります。貴女の意識だけが連続しますがそれ以外は、切り替わるのです。

私は呆気に取られただ男の大きな目を見ていた。新しい詐欺か何かだろう。そう思いたいのに妙に説得力のある男の語り口調が私の判断力を失わせていた。

要りませんか

男は私の返事を待っているようだった。

でも…今お金持っていないんです。家にもないし…コンビニで下ろしてこないと…

私が途切れ途切れに小さな声で答えると、男は小さく頷き、滑るように車に戻りトランクから黒い大きな鞄を運んできて私の前で広げて見せた。

心臓が早鐘のように鳴っている

鞄の中には大量の枯葉がぎゅうぎゅうに押し込められていた。男はその中から一際大きな葉を1枚、私に差し出した。

お代は結構でございます。心臓の上の皮膚に貼り付けてお使いください。良き人生を。

男は鞄を両手で抱え運転席に乗り込む。エンジンをかけるとまた、けたたましく音楽が流れ出し私の鼓膜をびりびりと震わせた。移動販売車はそのまま角をゆっくりと曲がってゆき音楽は車に付いていくかのように少しずつ小さくなりやがて聞こえなくなった。

私はしばらく動けずにいた。

夜、私は枯葉を絆創膏で左胸の皮膚に固定して眠った。耳の奥でパイプオルガンの不思議な旋律が少しずつ大きくなりやがて私の体全体を包み込み私は眠りに落ちた。


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