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Wasted Matereal

退屈≠暇

皆さんはこの二つの違いがわかるだろうか?

暇とは、すべきことが何もない状態。
退屈は、何かをしているが興味を持てない状態。

といったところだろうか。
暇は自分の意思でどうにかでき、
退屈は自分の意思でどうにかすることを諦めた状態とも言える。

さらに消費と浪費の違いを考える。

消費とは、対象をすり減らすこと。
浪費とは、自分をすり減らすこと。
ではないかと考える。

ここで世界の事実を考えてみてもらいたい。
純度100%で変化を及ぼせるものは何だろうか?
わかりにくいから言い換える。
この世界で自分が操ることができるのは何だろう?

そう、自分である。

相手を変えることはできない。
世界を変えることはできない。

変わったとすれば、自分の行動がもたらした結果の副産物に過ぎない。
そしてその行動を起こすためには、自分の意思が必要である。

自分の意思を決めるのは誰か?
そう、自分である。

朝起きて何をするかを決めるのも自分。
寝る時間を決めるのも自分。
全て自分なのだ。

つまり現在の自分を作り出しているのは過去の自分。
もし現在の状態に納得がいかずに嘆き、
誰かのせいにしているのであれば考え直したほうがいいかもしれない。
誰のせいでもない自分の結果なのだから。

話が逸れた。
話したいのは消費と浪費の件だ。
操ることができるのは自分のみという前提の元、話を続けよう。

消費は対象をすり減らすことといった。
トイレットペーパーを消費する。
ガソリンを消費する。
消費には必ず自分以外の対象が存在する。

それに対し、浪費は自分をすり減らす。
自分が稼いだお金を浪費する。
浪費には欲望が伴う。

自分という存在は唯一無二であり、許容量(キャパ)がある。
つまり有限である。
消費は対象をすり減らすため、これもまた有限かと思いきや
世界に消費対象は溢れかえっているため、対象は移り変わり続ける。
つまり無限だ。

大量消費社会とはよく言ったものだ。
まさにその通り、消費に終わりはない。

消費には終わりがない、故に満足することはない。

それに比べ、浪費はというと
キャパが存在するため満足する状態を作り出すことが可能だ。

筆者はYoutubeが好きなので
Youtubeで例えさせてもらうと
消費は連続自動再生onで次々と勝手に動画が流れるタイプの視聴、
浪費は一本終わるごとに再生が止まり、次に見る動画を選べるタイプの視聴だ。

浪費はネットで調べると、無駄に費やすこと、とあるが
筆者の経験からすると、無駄から得られるものは大きい。
そして無駄はエモい。

高校の時、Youtuberを真似て動画を撮っていた日々は無駄だっただろうか。
ドライブ中に景色を眺めながら将来の夢を語ることは無駄だろうか。
仲間とバカみたいに酒を飲んで盛り上がったあの日は無駄だろうか。

無駄とは、側から見た時の感想である。
当人たちからすれば、無駄だと言われていることは思い出を彩る貴重な経験だ。

冒頭にて退屈と暇の話をした。
退屈や暇の状態になるということは贅沢がゆえに起こる。
余裕があるからこそ退屈や暇になるのだ。

では暇や退屈になった時、皆はどうするか?
どうもしない。
することがわからないから暇や退屈なのだ。

このような時に意識してもらいたい。
積極的無駄を。積極的浪費を。
無駄に思えることも視点を変えてみれば、
また新しい刺激となってあなたの糧になるだろう。

消費は無限だが、浪費は有限。
つまり満足を生み出せる。
一時的な満足であっても、無限に続く消費よりもマシである。
小さな満足が感じれる機会を増やしていこう。

無駄に思える浪費も(wasted)
仲間との経験を重ねてできたエモーショナルを(mate)
現実へと昇華させる。(real)

そして日々の現実が今の自分を作り上げている。

そんな想いを込めた自分の信条的ブランド。

WastedMatereal

です。

Waste Material(廃棄材料、廃棄物)
という既存の単語から派生させて考えました。

ぱっと見見間違えるでしょ?
小さな変化を見逃さず、日々の無駄を見過ごさないように
という意味を込めています。

将来的に廃棄材料をリサイクルしたものを作りたいですね。
この世界に無駄なものはない、という想いを乗せたいので。
大した人間ではないですが、一丁前に社会問題に向き合って生きれたら幸せです。

暇と贅沢を恐れず、積極的浪費をしていこう。

人生は短い。


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