ラングドシャは一口で食べるべきか、二口で食べるべきか
ブランチュールというお菓子が好きだ。
好きなのだが、ブランチュールを食べる時いつも迷うことがある。
それは『一口で食べるか、二口で食べるか』ということ。
これはブランチュールがラングドシャであることで生じている悩みだと思う。
少し話が逸れるが、『ラングドシャ』という食べ物がある。非常に美味しいお菓子だ。
『ラングドシャ』の語源が『猫の舌』だったとは知らなかった。ラングドシャを見て「猫の舌みたいだなぁ」と思うなんて昔の人の想像力はとてつもないな。
この説明にある通り、ラングドシャは軽い食感のクッキーのようなもの。サクサクとしていてとても美味しい。
ラングドシャはクッキーのような生地部分で定義されるらしい。しかし、私は『ラングドシャ』と聞くとサクサクとしたクッキーのような生地の間にチョコやクリームが挟まっているもの、つまり、ブランチュールのようなものを想像してしまう。
私にとってはラングドシャとはブランチュールなのだ。
話を戻そう。
ラングドシャ、一口で食べるか、二口で食べるか。
非常に悩ましい。
ラングドシャって普通のクッキーと比べてなんだか格式が高く高級な感じがする。そんなラングドシャを一口で食べていいものかと、思案してしまうのだ。
それに、上記で説明したブランチュールのようなチョコやクリームが挟まっているラングドシャは意外とボリュームがある。量や大きさは大したことないのだけど、口に入れた時の圧迫感が普通のクッキーとは段違いなのだ。これを一口で食べてしまうと少し勿体無い気がするし、口の中が全て埋まってしまうような感覚に陥る。
大きさや量的には一口で食べれる。でも、ラングドシャの格式やボリュームを考えると一口で食べるのは躊躇われる。ラングドシャとはそういう難しい存在だ。
今回は実際にラングドシャ(ブランチュール)を食べて一口で食べるのが適切か二口で食べるのが適切かを考えてみようと思う。
これが今回食べるラングドシャだ。私にとってラングドシャといえばこの『ブランチュール』だ。今気づいたが、ブランチュールのパッケージに『ラングドシャクッキー』と書いてある。もしかしたら、私がラングドシャだと思っていたものは全てラングドシャクッキーなのかもしれない。
だが、ここまできたらもう後戻りはできない。私はブランチュールをラングドシャとして、自分の悩みに向き合っていく。
これがブランチュールの本体。ラングドシャの間に板状のチョコが挟まっている。このチョコがボリューム感を出していてなんとも美味しいんだ。見た目はこんなにミニマムなのに感じるカロリーはマキシマムだ。身長が小さいが人脈の広さや能力の高さ故に存在感が大きい人物、ジョジョで言えば広瀬康一のような存在、それがブランチュールだろう。
そんなブランチュールをまずは一口で食べてみる。
では、いただきます。
やはり一口で食べると口の中が圧迫されるような感覚に陥る。しかし、不快ではない。強烈な甘さ、上品な食感、それらが幸せという形になって口の中に溢れる。そういった感覚だ。口の中に美味しさの波が押し寄せ幸福になると同時に、「こんな美味しい物、一口で食べてよかっただろうか」という気持ちにもなる。
ある種の背徳感、一抹の後悔さえ感じてしまう。
口内を幸せで満たしそれを咀嚼しながら過去の自分の愚行と向き合う。それがブランチュールを一口で食べるということなのだ。
次に、ブランチュールを二口で食べてみる。
先程まで感じていた甘美な刺激をコーヒーの苦味で洗い流したら、新たなブランチュールを開封する。
先程と同じ形状、同じサイズのブランチュールだ。同じ商品が同じ大きさなのは当たり前のことだが、簡単なことではない。どんな商品にも大量生産のために試行錯誤された過去があるだろう。大量生産大量消費の社会で生まれた私はそういったことを実感する機会が少ない。どんな商品、どんなお菓子にも濃密で壮絶な過去があるということを忘れたくないものだ。
話が逸れた。ブランチュールを食べていこう。
まずは半分ほど口に入れ、一思いに噛み砕く。
うーむ、美味い。相変わらず強烈に甘いが、口内に対するブランチュールの量が丁度いい感じがする。ブランチュールによって口内が埋まることがないため、ラングドシャのサクサク感をしっかりと感じながら咀嚼することができる。
先程一口で食べた時もサクサク感を感じることはできたが、サクサクを口全体で感じているような感覚で、ただラングドシャを砕いているような感じだった。対して、今回はサクサクを舌で感じているような感覚だ。量が少ない分、必要とする咀嚼が少なくなりサクサク感をより丁寧に感じることができている気がする。砕くというよりはしっかりと噛んでいる感じだ。
それに、こんなに味わって食べてもまだ半分あるというのが嬉しい。自分の口の中にブランチュールが存在するのに、目の前にもブランチュールがある。なんということだ。ここは無限ブランチュール地獄か?? そんな地獄があるのならすぐに連れて行ってもらいたい。私の理想の死因は『サクサクブランチュール圧死』だ。
残った半分のブランチュールをいただくとしよう。
やはり美味い。当たり前だが、先程と同じように美味い。しかし、ここであることに気づく。何か物足りないのだ。甘さは上品だがくどくなく、サクサクの食感は上品で舌に快感をもたらす。しかし何かが足りない。
それは量だ。私は一つ前のブランチュールを一口で食べた。そして、今、ブランチュールを二口で食べている。『ブランチュールを一つ食べている』という点ではやっていることは同じだが、これらは似て非なるものだ。
前者は一口で一気に1つのブランチュールを食べている。つまり、1ブランチュールを食べているのだ。しかし、後者は1つのブランチュールを2回に分けて食べている。つまり、0.5ブランチュールを2回食べているのだ。
一見同じように見えるがこれは大きな差異だ。1ブランチュールを食べればあの圧迫感、美味しさの波を感じることができる。これは1ブランチュールを食べた時特有のものだ。
いくら0.5ブランチュールを2回食べたからって、あの圧迫感、あの波を感じることはできない。0.5は所詮0.5なのだ。ここでは足し算など通用しない。0.5がいくら集まったところで1の強さには辿り着けない。
ブランチュールを二口で食べると、それを強く痛感してしまう。二口食べても、間違いなく美味しい。文句のつけようがない100点のお菓子だと言える。しかし、一度一口で食べた時の感覚を味わってしまうと、不思議と物足りなさを感じてしまう。
あの圧迫感を、美味しさの波をもう一度味わいたい。そう思わされる。まるで健康的な食事を続けていると、ある日無性にジャンクフードを食べたくなる時の感覚、あの感覚のようだ。
まさかブランチュールを食べてこんな感覚に陥るとは。自分でも予想外だ。
とりあえず落ち着くためにコーヒーを一口飲む。ブランチュールは一口で食べる、二口で食べる、それぞれに良さがあることが分かった。
一口で食べるのはドラッグ的な気持ちよさがある。不意のジャンクフード、サウナの後の水風呂、限界までおしっこを我慢した時。これらと似たような気持ちよさがある。快感は大きいが、次はもっとその次はさらにもっとと求めてしまう危険性がある。
対して、二口で食べるとしっかりと噛み締めて食べることができる。食べている物の味、触感、香りまで存分に味わうことができるだろう。しかし、『普通』の域を出ない。チョコだったらチョコの、ブランチュールならブランチュールの域を決して出ることはない。一口で食べた時のあの美味さでぶん殴られているような感覚、複数回に分けて食べていたらあの感覚にたどり着くことはないだろう。
ブランチュール、ラングドシャの高貴さやボリューム故に食べ方に迷ってしまう菓子。迷ってしまうということは美味しさに振れ幅があるということ。ブランチュールは食べ方でも我々を楽しませてれる。
これからもブランチュールを食べる時は、ブランチュールと向き合い、ブランチュールに思いを馳せながら食べていきたい。その時に適した口数で。
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『藻野菜/@Moroheiya0225』
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