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失恋を癒したい人の映画。ミッドサマー


め~め~。

いわゆるコミューンというものというのは、世俗とは離れている分独自のルールというものがあります。

定義は色々あると思いますが、俗世とある程度隔離されながら生活する人たちの集団というものは、実際に存在しております。

世間一般でいうところの常識であるとか、法律とか倫理が異なる場合もありますし、一方で、部会者お断りといった雰囲気があるのもまた事実でしょう。

それを、いわゆるユートピアだと思うかどうかというのもまた、人それぞれだったりします。

さて、一部では映画の内容から賛否両論ある「ミッドサマー」ですが、そもそもどういう風にして楽しめばいいのか、どんな映画なのか、というところも踏まえて、簡単に解説&感想を述べていきたいと思います。

本作品は、ドキュメンタリー映画でいう「ジーザスキャンプ」のような、知られざる宗教の特訓場所を描いたものとかではなく、どちらかというと、情緒不安定で悲劇の中にいる女の子が、とんでもないものの中に喜びを見た物語としてみたほうが楽しめたりしますので、そのあたりも含めて語ってみたいと思います。

共同体について

物語そのものに入る前に、もう少し独自のコミューン的なものについておさらいしてみたいと思います。

あくまで、映画を見る前の事前知識としての大枠として考えていただければと思いますので、正確性よりも雰囲気を重視して説明していきますのでご承知置きいただければと思います。


「ミッドサマー」で描かれるのは、アメリカで生活する主人公たちからすると、一種の理想郷として描いています。

牧歌的といえば聞こえがいいですが、薬物による快楽や、一方で性行為に対してライセンス(許可制)を用いるなど、その宗旨はよくわからないところです。

ただ、そのあたりの教義については、ギリシャ正教会における知的障碍を持つ人を聖者と考える思想等がみてとれたり、アーミッシュの生活のような質素さも併せてもっているように作ってあります。

「ミッドサマー」におけるホルガという共同体においては、90年に一度のお祭りが催されたりと歴史はあるという設定になっています。


さて、本作品においては、そんな場所に、大学生がちょっとした思惑をもちつつ旅行にでかけるところから物語が始まります。


男女関係の映画


さて、あらすじだけを簡単に言ってしまいますと、この手の映画によくありがちが内容となっています。


謎の村であるとか、島とかの住民。はじめは良くしてくれた人たちが、実は主人公たちを餌食にしようと待ち構えていたのだった。

というのは、色々な作品で見たことのあるところではないでしょうか。

カルトな宗教施設に入り込んでも島に入り込んでもいいのですが、この手の作品としては、「ウィッカーマン」なんかが際立って有名ではないでしょうか。

しかし、「ミッドサマー」は、あくまで、情緒不安定な主人公であるダニーを起点に考えないと、よくわからない作品となってしまうかもしれません。


物語の冒頭で、あきらかにダニーと、恋人のクリスチャンとの間には、既に亀裂が入っています。

際立って何かがあるわけではありませんが、ダニーの妹は精神的に不安定であり、ダニーもその影響で情緒が不安定です。

別の理由があるなら仕方がないですが、大学生という身分で付き合っているのであれば、必ずしも添い遂げなければならないという法律もありません。

クリスチャンは、基本的には優しい男ですが、ダニーとの関係を終わらせたいと思っているのは明白です。


しかし、ダニーはまだ別れたくないという中、夏至祭に行くことになることで、どのようにその恋を終わらせるのか、というところが本作のエグいところとなっています。

分かち合い、輪廻する


独自の共同体ルールを、一般常識や倫理感と比較して大騒ぎする、というのはこの手の作品にとっては通過儀礼のようなものでしょう。

「ミッドサマー」においても、なんとなくホルガという場所になじんできたあたりでイベントが発生します。


二人の老人が崖から飛び降りるというイベントが発生しますが、「話を聞いて」と理由を説明し始めます。

ホルガでは、72歳を過ぎたものは、次のものの為に命を渡すという考えが定着しています。


このあたりの考え方は、人口制限をしなければ共同体そのものが滅んでしまう、という厳しい環境の場所では決して珍しい話ではありません

日本においても、姥捨て山を描いた今村昌平監督「楢山節考」なんかが有名です。

佐藤友哉原作「デンデラ」に至っては、姥捨て山で死んだはずの老婆たちが結託して村の住人を皆殺しにしようとする話なんてのもあります(そのあと、なぜか、熊嵐のような物語になっていってしまいます)。

いずれにしても、人口が増えれば小さい村ですと、食料が足りなくなってしまいますので、そのような風習の名残がホルガにはあると思われます。

命を輪廻させるためとかそれっぽい思想を言っていますが、煎じ詰めるとそういうことになるでしょう。

また、意識的に近親相姦による障碍者をつくり、それをいわゆる巫女として扱うという点と、逆に村を存続させるために外部の血を取り入れるという文化。

いわゆる稀人(まれびと)信仰にも繋がるようなところも取り入れていますが、「ミッドサマー」において、そこまで深く考える必要はないかと思います。


雰囲気の面白さ

内容はともかくとして、「ミッドサマー」の見どころは、雰囲気の良さです。

美しい花畑があって、人々は美しい歌や音楽を奏でているというユートピア感というのはありますが、いかにも作りめいた雰囲気ではなく、どちらかというと、悪い雰囲気がよくでています。


常に、音楽や画像でこれでもかと悪い予感を高めてくれます。

物語の冒頭でも、謎のタペストリーが映し出されていますし、ダニーの恋人であるクリスチャンは、陰毛をミートパイの中にわざと混入させられて食べてしまいます。

このあたりも、タペストリーに描かれており、なぜか先読みできている自分に驚いたりするかもしれません。


ただし、死体が吊り下げられていたり、顔面がつぶれてみたりと、狂気の沙汰としか思えないことが行われたりしますが、今まで様々な映画をみてきた人であれば、そこまで驚くほどのものではないかもしれません。

発想や見た目のひどさでいえば「ムカデ人間」に軍配があがりますし、悲哀を含めてみると、「ミスタータスク」といったセイウチにされてしまった人間もまた、狂気に迫っているところです。


とはいえ、「ミッドサマー」は、グロテスクを楽しむものでもなく、宗教的、価値観的な違いによる恐ろしさを体験するものでもなく、「ラストサマー」のような登場人物が恐怖しながら殺されていくパニックホラーでもありません。

監督であるアリ・アスターによれば、失恋を癒す為につくった映画という発言もあり、心が弱っている女性が、失恋を乗り越える物語としてみたほうがしっくりくるようになっています。


最後のほほえみは何なのか。

精神的に弱い面のあるダニーは、彼氏と別れそうになっています。

誕生日も忘れられていますし、扱いも雑になっています。

別れのカウントダウンが始まっている中で、彼女はクリスチャンのひどく滑稽な姿を見たり、村の人たちに癒されたりして、自己肯定感を高めていくのです。

実は、ホルガ村においては、悪いことやいいことを分かち合う文化も示されています。

食事を全員で一斉に取るというのもそうですが、何よりも、パニック状態になったダニーの息遣いに併せて、周りの女性たちも同様の動きをとっている、ところにその雰囲気が感じられるところです。


おそらく、ダニーには友達がほとんどいません。あるいはゼロでしょう。

男友達と呼ぶべきかわかりませんが、クリスチャンとその友人たちでは、彼女の心をわかってくれるはずもありませんし、共感してくれる人もいません。

そんな彼女が、ホルガ村で、共感してくれる人たちや、八百長っぽくもありますが、メイクイーンという女王に選ばれて、特別扱いされる中で彼女の自己肯定感は高まっていっているはずです。


彼女は、恋人であるクリスチャンを生贄にするかどうかの選択を迫られます。


結果はいうまでもありませんが、彼女は、燃え盛る炎をみながら微笑むのは、監督曰く

「ダニーは狂気に堕ちた者だけが味わえる喜びに屈した。ダニーは自己を完全に失い、ついに自由を得た。それは恐ろしいことでもあり、美しいことでもある」
ウィキペディアより

と言っている通り、狂気の中に、自分自身の抑圧されたり、苦しんでいたものの解放をみたに違いありません。

「ミッドサマー」という作品に何を期待するかで評価も変わってくるかと思いますが、本作品が気になった方は、「ウィッカーマン」であるとか、各種B級ホラー映画、はたまた、失恋から立ち直るような映画をみたりと、それぞれに枝葉をのばしていくのも面白いかもしれません。

アリ監督は、バットエンドを肯定する監督でもありますので、本作を気に入った方は、前作「ヘレディタリー 継承」を見てみるのも面白いと思われます。

以上、失恋を癒したい人の映画。ミッドサマーでした!



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