里見朝希監督「マイリトルゴート」を見逃した人の為の感想解説
「PUIPUIモルカー」でその名前を知った方が大半ではないかと思われますが、里見朝希監督の代表作といえば、学生時代に制作した「マイリトルゴート」です。
圧倒的な画面作りの精密さと、動きとテンポの良さでまったく飽きることなく進む内容。
加えて、羊毛フェルトで作られた可愛らしい山羊のキャラクターたちの、壮絶な経験を知ることになる作品で、心にグサリとくること間違いなしです。
「マイリトルゴート」は、里見監督の代表作ではありますが、ブリリア ショートショートシアター オンライン」にて臨時配信されていたり、過去にも期間限定で配信・放映がされたりしていたものの、日常的に見ることはできない残念さがあります。
そのため、「PUIPUIモルカー」から、里見監督への興味を持った方だと、ギリギリ間に合わないまま、配信を見逃してしまった方も多いのではないでしょうか。
当noteムービーメーメーも同じ山羊(のキャラクター)として、見逃すことのできない作品でありますので、感想と解説を加えつつ、皆さんに「マイリトルゴート」の面白さについて伝えていければと思います。
では、さっそく、内容に入ってきたいと思います。メ~メ~。
オオカミと7匹の子ヤギ、その後。
里見監督が以下のようにツイートをしてくれています。
グリム童話で有名な「オオカミと7匹の子ヤギ」をモチーフにしている本作品ですが、そこに、現実的な解釈を入れたことで一気に物語的な広がりをもたせています。
グリム童話といえば、グリム兄弟によって収集された昔話・逸話等を本にしたものとなっており、様々なヴァージョンがあることが知られています。
小さいころに、なんらかの形で耳にした人が大半かもしれません。
もともと、その裏側には大人の残酷な真実が隠されているものが多々ある中で、里見監督は、食べられたら消化されるだろう、という、ある意味もっともな疑問から作品を広げるきっかけにしています。
腹の中をかっさばいて取り出した子供たちが、消化されかけて、死にかけているところから始まるというオープニングは、ヤギ母の激しい息遣いと相まって、緊張感がすさまじいです。
オオカミの腹の中にカメラを置くことで、そうそう見たことのない構図になっている点も、里見監督の非凡さを表しているといえるでしょう。
本記事は、なかなか本作品を見ることができない、という事情を鑑みて、ネタバレ全開で書いていきますので、ご了承ください。また、ネタバレをした後でみたとしても、「マイリトルゴート」の本当の魅力は内容もさることながら、その映像の圧倒的な情報量にありますので、ネタバレを気にすることはあまりないかと思います。
我が子を愛しすぎる母
さて、冒頭でヤギ母は、子供たちを取り上げながら、子ヤギが一匹いないことに気づきます。
「トルク、トルクはどこ?」
オオカミの腹を開けながら、我が子を拾い上げるという、絶対にありえないシチュエーションの中で、一番初めにオオカミに食べられた長男が見つからない。
何を意味するかは説明するまでもありません。
でも、ヤギ母の目の前で、溶けかけたヒヅメ、ほとんど原型が無くなった何かの動物らしきものを見つけているのですが、それでも、彼女は「トルクがいない」というのです。
里見監督は、本作品のテーマを『親の愛情の狂気」と言っています。
以下引用
見里:テーマは親の愛情の狂気です。この作品を通し、親の行き過ぎた愛情は果たして正義なのか? という疑問を観る人に提示したかったのです。ネグレクトは問題視されるし犯罪ですが、過保護は犯罪ではない。しかし、子どもに自分について学ばせる機会を失わせます。一方的な愛情に対する違和感を余韻として残したいと思い制作しました。 日本の学生が作ったコマ撮りアニメが国内外でアニメアワードを受賞 「マイリトルゴート」作者に聞く制作の裏側 - ねとらぼ (itmedia.co.jp)より
ちなみに、グリム童話「オオカミと7匹の子ヤギ」における母ヤギは、年老いたヤギとして描写されています。
グリム童話の中も、父親は不在であり、母ヤギは、子ヤギたちを愛情をたっぷりに育てています。
年老いたヤギにとっては、子供たちはあまりに可愛らしく、そして、失われるかもしれない存在です。
グリム童話については深く言及しませんが、どの時代にあったとしても、母ヤギが一匹で7匹のヤギを育てることは容易ではなく、オオカミのような外敵が、大事に育てているものを奪おうとする、というのは、已む得ないことでもあります。
「マイリトルゴート」が現代的なのは、そんな母ヤギが、我が子の死を認められない、という現実にあります。
そんな中、森の中で見つけた迷子の男の子、ナツキ。
彼が、ヤギの姿に見えるケープを着ていたことと、息子の死を認められない母ヤギの状況が一致したとき、悲劇は起こります。
映画的文法
里見監督は、過去作品をみても海外映画の影響を色濃く受けているのがわかります。
そのため、映像作品に対してのお約束というのを把握しておりまして、母ヤギが、少年を連れていくときは、画面の右側に引っ張っていきます。
自体を進展させるのは左側、後退するのは右側というセオリーが守られている点でも、お手本のような作品となっています。
また、引っ張られている手が映し出された際に、ヤギの手と、五本指の手が映し出されることで、彼らは、本当の親子ではない(種族が違うという意味もあるかもしれませんが、本作品においては、見た目のイメージと設定が一致しているとは限りません)というのがわかります。
誘拐された少年
「トルク、お母さんよ。今までどこにいっていたの? 私のかわいいトルク」
母ヤギは、少年を我が子としか思っていません。
長男トルクだと思われて軟禁されてしまった少年ナツキの心の変化を追うことでも、本作品はさらに丁寧に作られていることがわかります。
ナツキ少年は、逃げ出そうと抵抗しますが、母ヤギに抱かれて抵抗をやめます。
これは、のちにわかることですが、彼が虐待を受けており、おそらく、誰かに抱きしめられた、という経験がほとんどなかった、または、しばらくの間なかったことがわかる描写になっています。
たとえ、知らないヤギで、誰かと勘違いしていると思っていても、愛情をもって抱きしめられてしまったとき、ナツキ少年は、その愛情に動けなくなってしまったのです。
里見監督がいう通りこれは、愛情の物語です。
恐怖の兄弟たち
母ヤギの愛情を受けた少年は、他の子ヤギたちのいる小屋に置いていかれます。
「トルクお兄ちゃん」「ト・ル・ク・おにいちゃん」「トルクにいちゃん」
オオカミに食われて顔が歪み、皮膚がただれた子ヤギたちに囲まれて、ナツキ少年は恐怖します。
「あたしたち、家族よね。本当にトルクお兄ちゃんなら、どうして逃げるの?」
このあたりは、完全にホラー映画です。
でも、面白いのは、この時点でナツキ少年は、子ヤギたちの顔などの見た目だけを見て怖がっていることです。
もちろん、自分がその場では異分子であり、それに気づかれるわけにはいかないという恐怖もあるでしょう。
そして、彼は鏡を踏み台にして、逃げようとします。
心のやさしさ
「PUIPUIモルカー」でも顕著ですが、里見監督の作り出すキャラクターは、本当に素直で優しいキャラクターばかりです。
鏡によって、自分の姿を見てしまった子ヤギの長女レコンは、自分の見た目のあまりの恐ろしさに悲鳴を上げます。
ナツキ少年は、その隙に逃げ出そうとしますが、ふと思いとどまります。
虐待を受けて身体の傷のあるナツキは、理由こそ違っていても、自分自身と同じような傷をもつ子ヤギたちが、恐ろしい存在ではないことに気づき、自分のかぶっていたケープを着せてあげるのです。
自分自身もまたケープによって傷を隠していたため、それを着せることによって、相手を思い遣ると同時に、自分自身のトラウマも見せることになります。
それによって子ヤギたちは、ナツキが兄であると認めるのです。
ちなみに、ナツキの視点になると、子ヤギたちが「おねーちゃん」といっていた意味のあるセリフが、「メ~、メ~」という鳴き声にしか聞こえないあたりで、ナツキの視点と子ヤギの視点が分けられていることがわかります。
「オオカミが来た・・・」
次男のシーザーが言います。そこからは、ストップモーションアニメ的な隠れ方をするヤギ達を見ることができます。
現実と妄想のはざまで
里見監督の面白さの一つとして、その世界観の抽象度の巧みさがあると思います。
どういうことかと言いますと、過去作品である「あたしだけをみて」では、モルモットに気を取られてしまい、彼女との心の距離が開いてしまう男が描かれています。
そのモルモットは、後でスマートフォンに変化します。
物体だけではなく、世界観も含めていろいろなものをメタファーとしてとらえてみたり、現実と抽象物との間に区切りがないところが、魅力の一つです。
「PUIPUIモルカー」であっても、モルカーがいる世界でありながら、ありえない世界に整合性があるのです。
抽象的な表現かと思うと、その世界の中では、そういう機構で動いているものであったりするその距離感が非常にうまいのです。
ちなみに、「あたしだけをみて」にでてくるモルモットの声は、監督が飼っているモルモットのミルキーちゃんとなっています。
「PUIPUIモルカー」ではお馴染みのモルモットの鳴き声を聞くことができます。
オオカミの正体
さて、オオカミだ、と子ヤギたちが言っていたのは、ナツキ少年の父親です。
ですが、ヤギ達にとってすれば、おそらく、大人の男の人が全員オオカミに見えるのかもしれません。
ナツキも初めは人間として父親を見ていますが、抱きつかれた後、オオカミに変貌しています。
「いや」
と抵抗した瞬間です。
ちなみに、子供を虐待する親については、NHK 番組ねぽりんはぽりんで「子供を虐待する親」を見ていただけると、その辛さがより一層わかってしまいますが、あまりオススメは致しません。
文字通り、父親は、ナツキを食おうとする存在になってしまいますが、その瞬間、ついさっきまで恐怖していたヤギ達が一斉に鳴き始めます。
6匹合体子ヤギたち
「メ~~~」
この辺りは、胸にぐっとくるところです。
オオカミに食われて心底恐怖していたはずの子ヤギたちが、二度もお兄ちゃんを失いたくない、という想いから、合体ロボよろしく力を合わせて、大人相手に戦いを挑むのです。
しかも、オオカミのお面をかぶっています。このことからも、オオカミは必ずしも倒す存在ではなく、大人のように背伸びをすることのメタファーにもなっているようにとらえることができます。
オオカミ相手に勝つことはできませんでしたが、オオカミに隙を与えるには十分すぎる抵抗です。
ストップモーションアニメでありながら、カメラを大胆に動かしつつ、アクションシーンを30秒以上を行うというのは、想像を絶する作業量とセンスの良さです。
出来が良すぎて忘れがちですが、本作品はストップモーションアニメですので、1コマ1コマ人形を動かして撮影していることを、忘れてはいけません。
愛情の在り方
母ヤギは、スタンガンでナツキ父を撃退します。
ヒズメでスタンガンを操ることができるのか、そもそも、スタンガンをなぜ持っているのか、というところですが、「マイリトルゴート」での、里見監督の現実と抽象表現のすり合わせというのが、矛盾してそうでいながら、違和感がありません。
ヤギでありながらも、人間でもあるかもしれない、オオカミかもしれない。
また、ナツキ父が落とすスマートフォンですが、本当の母親とナツキの姿が見えます。
なぜこんな写真が、と思ってしまうところですが、いくつか想像することはできます。
身体にアザや傷がある以上、本物の母親が存在していれば気づくはずです。
この世界での母親は、勇敢です。ナツキの母親だけが、子供の虐待を見逃すとは思えません。
であれば、母親は何らかの理由でいなくなってしまったのでしょう。ナツキ父と離婚をしたのか、あるいは死別してしまったのか。
その結果、ゆがんだ愛情が、ゆがんだ形でナツキ少年に示されてしまったと考えることもできます。
この世界の中では、親はゆがんだ愛情を、ストレートに表現することはしないようになっていると考えられるためです。
母ヤギのような、子供たちを言葉や愛情で軟禁する方法が正しいかどうかは、はっきり示されていません。
もちろん、我々の感覚からすれば、それは悪であり罰するものではありますが、この世界観の中で、それがまかり通るかどうかまでは、示されていないためです。
母親という名の業
物語のラストで、母ヤギは、ナツキ父と思われる腹の中に、石を入れていきます。
このあたりは、物語全体が「オオカミと7匹の子ヤギ」をモチーフとしていることから、あるべき物語のまとめ方として実に美しく収まっています。
ただし、これが現実の世界と隣り合わせの抽象的な世界だとすれば、母ヤギは、さらなる犯罪を重ねています。
ナツキ少年は小屋の中に軟禁されたままです。
一方で、子ヤギたちは、色々な動物を模したケープを羽織っています。
鏡を見せないとか、お互いの容姿についての話はしてはいけない、という母親の言いつけだけでは、彼らの心のケアができないことを母ヤギは悟り、彼らに傷を隠し、且つ、人種や種族も関係ないようにしてあげたのでしょう。
母ヤギの愛情の深さは、業と呼んでもいいぐらいのものです。
彼らはこのまま社会を知ることなく大人になってしまい、本物のオオカミが来た時に対処できなくなってしまうかもしれませんが、母ヤギの異常な愛情は、そこまで想像することをやめているのでしょう。
物語の行方
ナツキ少年は、窓から外をみて、画面の右側にいる兄弟たちのほうに向かっていきます。
その耳に聞こえるのは、人間の言語ではなく、メ~メ~というヤギの鳴き声のみ。
でも、同じような仲間ができたほうが、人間として生きるよりも、遥かに嬉しかったのかもしれません。
最後に、トラバサミを抱えた母ヤギは、画面の左側に向かって歩いていきます。
映画の文法的には、物語が前進していくときの表現です。
ナツキ父の靴はどこへ行く
バタバタバタバタバタ、とヘリコプターの飛ぶ音が聞こえてきて、ナツキ父の靴は、川の中央からぷかりと浮かび上がり、右にも左にも動きません。
明るい色の緑色と、画面下部の濃い緑の対比が、「マイリトルゴート」のその後を暗示している、実に素晴らしい結末となっています。
里見朝希監督「マイリトルゴート」は、内容のショッキングさもありますが、その可愛らしい造形の美術全般や、ハイクオリティのストップモーションアニメも含めて、素晴らしいバランスで成り立っています。
「PUIPUIモルカー」の圧倒的な面白さもたしかにありますが、過去作品と見比べることで、監督自身のもつ世界観や、作家性を見ていくことで、より最新作を面白く見ることができると思います。
後々、里見監督は名実ともに巨匠になっていく器だと思いますので、今後も「マイリトルゴート」は見ることのできる機会は、何度も訪れるとは思いますが、今この時点で見ることのできない方は、色々な情報と合わせて、本記事を参考にしていただければと思います。
以上、里見監督「マイリトルゴート」を見逃した人の為の感想解説、でした。
それでは次回も、め~め~。
ちなみに、モルカーついての記事も書いてありますので、もし気になった方はぜひご覧いただければと思います。
また、「マイリトルゴート」オフィシャルページは以下となります。
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