見出し画像

行き止まりを生きる 『走れ、絶望に追いつかれない速さで』

もう五月が終わろうとしています。なんだか季節に置いていかれているような感覚です。
春は実感がないくせして、いろいろなことを思い出してしまうので、いやですね。

一昨年の春、窪田正孝さんが好きなわたし(おかとも)は出町座で『犬猿』という映画を二回見たのですが
上映前の予告編で、二回とも同じ作品が流れていました。
当時、その予告編の中にわたしが知っている役者さんやスタッフの人の名前はなかったけれど、それでもなぜか惹かれて、自分の直観を信じて出町座の椅子に座って観たのが『四月の永い夢』です。

この『四月の永い夢』が本当に、私にとって特別な作品になりました(またいつかしっかりと書きたい)

そこから毎年、中川監督の作品を劇場で見るようになりました。

画像4

『四月の永い夢』をはじめて出町座で観た日は『泳ぎすぎた夜』という映画をはしごしました。人生ではじめて、映画館で映画を二本観た日。

画像3

京都シネマで観た『わたしは光をにぎっている』は、6限の授業終わり、急いで地下鉄に乗って向かって、一番前の席で観たり。

画像2

『静かな雨』は、公開日から少し経って出町座での上映が決まっていたけれど、待ちきれずシネマート心斎橋まで向かったりしました。

毎回
大きなスクリーンにうつしだされる世界を観ているときは、時間を忘れ、ずっと見つめ
映画が終わって1人歩いて帰る時は、スクリーンの中の世界が忘れられず、思いかえすたび胸がしめつけられて

中川監督の作品は、何度も何度も思い出す、初恋の人のようだなと感じていました。
概念として思い返す映画。

そして最近、なかなか映画館にいけない日が続く中
こんなツイートを見かけました。

BOXセットの中の、一番ひだり。『走れ、絶望に追いつかれない速さで』

ツイートを眺めた時は、これだけ観たことないなあ、なんて思っていました。
それもそのはずで、制作は2015年、劇場公開は2016年の作品でした。わたしがまだミニシアターの存在を知らない時。

スクリーンショット 2020-05-29 16.14.24

先日、『四月の永い夢』を観なおしたタイミングだったので
この作品を観てみることに決めました。

観る前に調べてみると、この作品は『四月の永い夢』と双子のような関係性を持った映画になっていることを知り。
親友が自殺する、という監督自身の実体験を踏まえて制作されたのが『走れ、絶望に追いつかれない速さで』です。親友の「死」が主人公にかなりダイレクトに直撃しているのが印象的です。
それに対して『四月の永い夢』は、恋人の「死」を主人公が乗り越える話。その周りの出来事まで愛おしくなるような映画でした。


画像5

『走れ、絶望に追いつかれない速さで』を観ていちばんに感じたのは、上に書いたことに似ていますが、絶望の濃度の濃さです。

美しい日本海の風景を切り取ったカットですら、どこかしら不安のようなものを感じさせます。
主人公である漣(仲野太賀)は、自殺した親友の薫(小林 竜樹)が死ぬ前に描き残した絵のモデルである薫の初恋の相手に会いに行きます。しかしそれを達成してもまた、絶望を拭うことはできず。

監督自身、「大学時代の友人が亡くなったときに自分自身が感じた気分みたいなものを、解釈しきれないうちに、若いうちに撮っておこうと思って制作した」とおっしゃっていた通り、いい意味で「死」の匂いが充満している作品でした。

画像6

だからこそ、この物語の主人公の太賀さんの演技が救いだったようにも感じます。

“そこに在る”というような演技が本当に素敵で
コインランドリー、運転席、工場、銭湯、崖
「はやくタクシー乗れるようになりてー」というような何気ない台詞でさえ
どんな場所でも、どんなセリフでも
均一に良い、という印象を受けました。

それは、今年の2月に公開された『静かな雨』を観て気づいたことでもあります。彼の演技は、緊張を感じることなく、ずっと観ることができます。

『走れ、絶望に追いつかれない速さで』の話に戻りますが
薫と漣が2人で朝まで飲んだ後の、屋上での太賀さんの姿が
この作品の中で一番素敵だと感じました。
朝日に照らされながら薫に対して微笑む姿には、慈しみのような感情すらも感じます。


この作品のラストシーンにもいえることですが、綺麗な空(景色)や やさしい光と太賀さんの笑顔、本当に似合っているなあと感じます。
彼自身のほんとうの性格は分かりませんが
中川監督の映像を通じてみる太賀さんは、おだやかに、そこに在ってくれるだけでいい。
そんな存在でもあるなと感じました。

画像7

ここには書ききれませんが、わたしは『静かな雨』にもたくさんの思い入れがあり
だからこそ、太賀さんが『走れ、絶望に追いつかれない速さで』と『静かな雨』の両方に出演してくれていてよかった、と感じていて。
どちらか一方だけではダメだったと思います。(これはおかともの文脈の中で、の話ですが。)

『静かな雨』のインタビュー記事の中では

仲野:この映画って、衛藤美彩さんが主演で、原作があって、新人監督で……という座組なので、いくらでも安牌は取れたはずなんですよね。でも、その安牌だけは絶対取らないでいこうっていう話は、監督やスタッフともしていました。
中川:そう、撮影の1か月前ぐらいに、プロデューサーの和田さんと僕と太賀の3人でいろいろ話して……
結果的に、みんなの合言葉として出てきたのは「カルト映画を作ろう」ということだったんですよね。
さっき太賀が言ったように、原作もので衛藤さん主演で新人監督という座組だったら、いわゆる「キラキラ映画」にすることもできるわけじゃないですか。そうではなく、むしろその真逆で、地味になってもいいから先々カルト的な人気が出るような作品に振り切るべきなんじゃないかって。

こんなやりとりがあり、はっとさせられました。

ここでは「カルト」という言葉が用いられていますが、ある種の宗教的側面のことを指しているのだと思います。

冒頭、わたしは中川監督の作品のことを“何度も何度も思い出す、初恋の人のようだ”と形容していましたが
初恋の人という概念もまた、永遠に崇拝してしまうような存在だと思います。だから惹かれてしまっていたのか・・・。と感じたり。

今まで、中川監督の作品は、キラキラしていておだやかなものだと位置付けていましたが
いろいろなインタビューを読んで、新しい発見があるのと同時に、私が彼の作品に惹かれる理由が徐々にわかってきている感覚があります。それはとても嬉しいことで。
さらに、『走れ、絶望に追いつかれない速さで』を観て、今まで監督の作品では感じることのなかった感覚も感じることができていたり。知れば知るほど素敵だなと感じています。

これより前の過去の作品も観てみたい、と思ったし
これからのわたしの人生にも、監督の作品が在ってくれたらいいな、と思いました。

『走れ、絶望に追いつかれない速さで』も
きっとまた数年後に観直すことがあるだろうな、と思います。
その時のわたしの感覚がたのしみです。

映画チア部京都支部 岡本

参考:
第68回CINEMA HIROMA~『走れ、絶望に追いつかれない速さで』中川監督、太賀さん、小林竜樹さんによる作品の舞台裏解説@元町映画館https://www.youtube.com/watch?v=eNPULz6IrtU&t=2s
詩人から転身した映画監督・中川龍太郎に、太賀らの証言で迫る
https://www.cinra.net/column/201805-shigatsunonagaiyume

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?