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今泉力哉監督インタビュー ──パフェが溶け合うまで

取材:村田陽奈、植野さくら、島田芽依
編集・文:島田芽依


『街の上で』(2021)や、現在公開中の『窓辺にて』(2022)『ちひろさん』(2023)など、あらゆる作品を監督されている今泉力哉監督。今回、今泉監督と映画チア部京都支部のメンバー(むらた、さくら、めい)が、出町柳にある喫茶店、タナカコーヒーにてフルーツパフェを囲みながら、お話をさせていただきました。学生である私たちが知りたい、作品や制作、今泉監督の内側にせまること、パフェが溶け合うまでお届けします。


〜席に着いたら、パフェを注文〜


むらた:今泉さんはSNSで拝見しても、けっこういろんな人とラフに会われているなという印象があります。今回のインタビューも、急だったにも関わらず、快く引き受けてくださって…ありがとうございます。あえて、いろんな人に会っているのでしょうか。

今泉:そうですね。時間さえあれば。Twitter で呼びかけて、はじめましての人とお酒を飲んだりとかもそうだけど、知らない人と会うのはおもしろいので。たぶんそんなに特別なものだとも思ってないんですよ、自分のことだったり映画監督って職業だったりを。でも、「気軽に誰か飲みませんか?」って男性だからできることだな、とも思ってます。怖いじゃないですか、女性がやるのは。結局、ああ、これも特権的なことなんだな、と思って、最近はその意識を持ちながら行っていますけど。もちろん、知らない女性とのサシや、若手の俳優さんとのサシは避けたりしつつ。でも人に会うのはおもしろいですよ。

むらた:私たちの大学の同級生とかの反応でも、今泉監督に持っているイメージと実際にお会いした時のギャップってきっとあると思います。今泉監督がメジャーな作品を撮られているのに、こんな風に気さくに会ってくださるってことも含めて。

今泉:まわりが思う「今泉監督像」と、俺自身が思う「自分」っていうものに差があってもどうでもいいというか。別にここ10年、20年、なにも変わってない感じがして。だけど、それでもどこか傲慢になっている時とかはあると思うし。でも、ほんと、学生時代の友達とか昔からの知り合いと久々に会ったりすると、なんにも変わってないね、って言われますね。そうでありたいし。

ちなみに皆さんは、最初はなにで知ったんですか?俺の作品は。

めい:わたしは、テアトル梅田で『愛がなんだ』を立ち見で観ました。どうしても観たくて。

今泉:まじで?え、立ち見で?そういうことになってたんですか?

めい:はい、立ち見の二列目くらいで観たんですけど、大人気で。

むらた:わたしは映画っておもしろいなと思いはじめた高3の頃に、ちょうどテアトル梅田で『愛がなんだ』が上映されていて、ポスターにすごく惹かれて観ました。テアトル梅田って地下に潜って入るので、なかなか近寄りがたかったんですけど、思い切って観たらおもしろい!ってなって、そこからいろんな映画館に通うようになりました。なので、自分の中でも思い出深い一本です。

今泉:『愛がなんだ』は、それまでミニシアターのことを知らなかった若い方々が行くきっかけになってたみたいで。東京でもそうでしたね。それはすごく嬉しかったです。

さくら:わたしは、お姉ちゃんが『愛がなんだ』を教えてくれて。映画は好きなんですけど、それまでは恋愛映画に苦手意識が強くて、絶対に観ないと思っていました。

今泉:(笑)

さくら:で、どうしようと思ってたんですけど、大学に入ってから、やっぱり観てみたいなと思う瞬間があって。それではじめて家で観たときに、私が思っていた恋愛映画ではなくて。誰かに会いたいみたいな感情も、愛ってなんだろうみたいなのも、一緒に考えられたことがすごく楽しくて。それから『街の上で』とか『窓辺にて』を観ました。恋愛映画に対する抵抗感をなくしてくれたというか。

今泉:恋愛映画は、俺もあまり観ないんですよ。日本映画の…うーん、あるにはあると思うんだけど、現実に近い恋愛を扱った映画がめちゃくちゃ少なくて。一時期、キラキラ映画と言われるような漫画原作とか、オリジナルだとしても演出にそういう派手さがあるものがたくさん製作されていて。絶対に主役の二人が結ばれる、または死別することは決まってるっていう。それしかないのはさすがにやばいなって思ってて、日本の恋愛映画。そういう意識はありましたね。


〜パフェが運ばれてくる〜

タナカコーヒーのフルーツパフェ

今泉:すごい美味しそうですね。俺、頼んでないけど(笑)。

むらた:ちょうどいい大きさ!

今泉:いや、これ中にけっこうな量入ってると思うよ。

ー『窓辺にて』について

むらた:わたしは恋愛を全然したことがなくて、恋愛に必死になってる人とか、映画としては楽しめるんですけど、それを強く意識したり共感を求めて恋愛映画を観たいとかは全然なくて。
『窓辺にて』を観て改めて思ったことは、今泉監督の作品は、恋愛をきっかけにその人の価値観とか人間関係がどんどん広がっていったり、交錯していく様子がすごくおもしろいなと感じました。
そのトーンがすごく好きなので、知り合いの知り合いと話す場面とか、いろんな人の組み合わせで出てくる場面とか、映画の中で生まれるセッションみたいなものが好きでした。

今泉:びっくりするくらいカット割りも少なかったし、本当にずっと喋ってるだけで。しかもめちゃくちゃ⻑くなって、143 分になっちゃったので。『退屈な日々にさようならを』が 142 分だから 1 分だけ越えて、自己最⻑映画ですね。本当はもっと⻑かったんですけど、切りました。

むらた:カット割りってお芝居を見たら、割らなくてもいいなっていう確信が生まれてくるんですか。

今泉:そうですね。それもありましたし、あまり割るような映画でもないと思っていたので。あとは現場で芝居を見て、割らなくても成立するな、ってなれば割らないし、とかですかね。『ドライブ・マイ・カー』も撮影されたカメラマンの四宮(しのみや)さんは、映画では初めてだったんですけど。昔、ドラマとかでご一緒したことはあったので、あまり話さなくてもわかってくれました。

フルーツパフェと今泉監督


さくら:パンフレットに書いてある「永遠に手をかける」という言葉が印象的でした。

今泉:はいはい、劇中の本のタイトルにも勝手にしてますけど。なんかすごくいい言葉ですよね。『街の上で』の公開記念のライブがあって、そのときに俺が疲れ切ってて、死んでて。そしたらマヒトゥさんが、「映画つくるってことは、存在しない人物を生み出すみたいな行為で。それって神様がやってることだから、それは大変だよ」みたいなことを MC で言ってくれて。そのときの話の中で「永遠に手をかけるみたいなことをしてるんだから」みたいな話が出て。そうか、神様みたいなことしてるんだったら疲れてもしょうがないか、ってなって、それにすごい救われたんですよね。
それで『窓辺にて』の中で、荒川円が最後に書く小説のタイトルとして使ったんですよね。劇中だと『永遠に手をかける』っていう言葉は、荒川と紗衣の不倫関係の終わりもそうだし、彼女と旦那である主人公・茂⺒との関係が離婚によって終わることもそうだし。そういうことについてのタイトルとして使えるかもと思って、つけましたね。

書けば売れる作家・荒川円のそれ以外の小説のタイトルは、極力ダサいタイトルをつけておいて。最後のだけ、その人っぽくないまともな言葉にしたくて。
前作の『シーサイド』もひどいし、その一個前の一瞬だけ映る小説のタイトルも『除光液』ですからね。『除光液』って! 絶対面白くないじゃん(笑)。
実は『除光液』は、うちの娘のアイデアで。俺が「小説のタイトルで、イケメンの人が書いてて、全然読みたくないけど、めちゃくちゃ売れてるタイトルって、なんかない?」って話を中 1 の娘としてて。で、娘の口から「除光液」って聞いたときにだいぶおもしろいと思って、採用しました。『シーサイド』も美術としてつくるから、本の帯文のコピーに「その時、彼女のスカートが海になった」みたいなよくわからないダサいコピーを添えて。俺、燃え殻さんと知り合いなのもあって、劇中に展示してるパネルに、燃え殻さんからもらった体のコメントを載せていて。そこだけ実名を使わせてもらいました。

むらた:佐々木詩音さんが映画学科の先輩で。佐々木さんの声って二重に出てるなと思っていて。下の音域の声と上の音域の声が両方出てて、複声音、みたいな…。それが、今回のどこかで消え入りそうな役とすごく合っていて素敵でした。

今泉:『窓辺にて』と『裸足で鳴らしてみせろ』は人物が違う人だと思ったっていう人がいるくらいで。昔、ワークショップに来てくれたんですけど。その時に、やっぱお芝居めちゃくちゃいいな、と感じて。どこかでご一緒できたらいいなとは思っていました。

『あの頃。』にも一瞬出てもらって。『窓辺にて』を撮ったあとに、有村さんの弟役で『ちひろさん』にも電話のやりとりの声だけですけど、出演してもらいました。

むらた:佐々木さんを、Twitterで書き殴ったような日記をみてキャスティングされたっていうのを見たんですけど…。

今泉:そうです。役者を探しているときに、ツイッターであの文章に出会った。変な文章、書いてるなぁと。いずれにしても、書ける人、書く人だったんですよね、彼は。荒川っていう役は、どっちかっていうと、繊細だったり、複雑だったり、めんどくささとかがある人がいいと思っていたので。普段から自分の言葉を書いたりしている人の方が、創作の産みの苦しみとか知ってる可能性があるから。

それは玉城さんもだけど、なにか文章を書いたりしているのを知っていて。ミス iD で審査員をしていた時に何度かお会いしていたんですけど。きっと彼女は、もっともっとリアリティのある、自然体なお芝居ができる人だと思っていて。なにか勘違いされてるというわけでもないけど、どうしても美しい容姿を活かしたキャスティングのほうがこれまで多かった気がして。でも俺は、その不安定さも含めた内面に惹かれていたので。

さくら:嬉しかったです。ミスiDが好きで応援していて、玉城さんのことずっと見てたので。見たかった役だったので、嬉しかったです。

今泉:留亜役は他にもいろんな候補の名前が出ていたんですけど、プロデューサー的にはある程度の知名度もほしかったみたいで。玉城さんになりました。とてもよかったですね。でも、あんまり細かく演出してないですね。
『窓辺にて』に関しては、誰にもあんまりなにも言ってないかも。キャスティングでほぼほぼ決まってたというか。選んだ時点でもう OK な人たちでしたね。

むらた:留亜は「現実世界に出てきた、大人になったピノコ」みたいでかわいかったです。

今泉:衣装も本人が持ってきてくれたんですよ。緑のボーダーT シャツと赤いワンピースはたしか本人の私物。実は衣装合わせを2回していて。1 回目は、衣装さんが用意してくださったものと、本人が思ってたものとが少しずれてて。それで 2 回目に私物も持ってきてくれた。玉城さんに関しては、要は幼さをどうつくるかだったから。実際は23 歳とか 24 歳とかだったから、大人っぽさの方はそのままいける。あとは、高校生に見せるための無邪気さ、幼さをどう演出するか、で。その、幼さのつくり方がちょっとずれてたんですよね。だから、サイズとかも含めて、本人が持ってるものの方が良かったって感じでした。決して衣装さんのミスとかじゃなくて。これは、まあ私物が一番良かったりするんですよ。

むらた:脚本のときから、特定の方を想像して書かれたりすることが多いですか?

今泉:オリジナルのときはそれが多いですね。でも脇役というか、二番手以降は想定して書くことはあんまりないです。原作モノでもオリジナルでも、自分から企画書をつくってプロデューサーや制作会社に持っていって映画をつくることは一切したことがなくて。全部、請け負い仕事です。オリジナルも。原作ものも。基本すべて依頼されてつくってます。今回も、稲垣さん主演でなにかやりませんか?から始まってるから、稲垣さんが演じることを前提に書いていきました。オリジナルは今までずっとそうですね。主演が誰々で、内容はおまかせで、っていうのが多いですね。

むらた:いろんな人物が登場するけど、どこかでこの人のことを知ってるなと思わせるところがあって。そういうのは、今まで誰かが言った言葉とか、いろんなところからエッセンスとして入れてるんですか?

今泉:そうですね。恋愛まわりは自分の経験からつくることもあるし。あ、でも、『サッドティー』と『退屈な日々にさようならを』と『街の上で』は俳優ワークショップから立ち上げていった映画なので、集まった俳優を見てから、役柄もお話もつくっていったので、主役だけじゃなく、ほぼ全員、当て書きですね。そうすると、その人用に役をつくっているから、当たり前に役にはまってますよね。だってその人用の役なんだから。
古着屋の宇宙猫 T シャツカップルとか、ライブハウスで出会うメンソールの女とか、警察とか。若葉さんとメインの女性 4 人はキャスティングなので、当て書きではないけど全員、第一希望でキャスティングできたので、とても幸福でした。

むらた:わたし自身が脚本を書くとき、人物が増えれば増えるほど、形式的なところから埋めていったら、変な構造みたいなものが生まれてきてしまうという葛藤がありまして…。どういうところから、出てくる人物とかに温度みたいなものを生まれさせていったらいいんだろうっていつも悩んでいます。

今泉:俳優や監督によっては、キャラクターの履歴書をつくったり、生まれたときから現在をまでを考える、みたいな準備の仕方、人物の組み立て方があるんですけど、俺はそれをやったことがほとんどなくて。
別にそのやり方を否定しているわけではなくて、そうすることで俳優さんが演じやすくなるのであれば、自らそういうのを考えて演じてもらう分にはいいんだけど、俺はこれまでの人生、みたいなものにあんまり興味がなくて。職業すらあやふやなまま、特に決めずにつくったりしてたし、昔は。

今日、一番最初に、適当に知らない人と会ったりする、って話したじゃないですか。やっぱり普段生活していて、他人のことを、職業とかお金とか、地位、またはその人の置かれている状況とかで見ていないというか。別にどうでもいいんですよね。そんなことよりもその場で会って話してみた時に生まれた感情とか、誰かと対峙したときにどういう振る舞いをするか、の方が人物像がみえる気がして。あんまりそういう「過去」や「家庭環境」とか「学歴・職歴」とかから登場人物をつくり出すと、縛られると思うんですよね。この人ってこういう生き方をしてきて、家族がこうだから、こういう性格で、とか。

俺、物語ってこうなってるよね、っていうセオリーをすごく疑ってて。たとえば昔、『パンとバスと 2 度目のハツコイ』って映画の中で、主人公の女性が 2、3 年付き合ってた男性からプロポーズされるけど、「一生好きでいてもらえる自信もないし、一生好きでいられるかもわからない」っていう理由で、真面目に考え過ぎちゃって別れちゃうっていう場面があって。そういうことを描く時の一番ベタなセオリーとしては、親が離婚してたり片親だったりして、結婚に対してのなにかしらの不安や不信感を彼女が持っていて、みたいなやつが多いんですけど。そういうことは絶対にしたくなくて。そういう人もいると思う、でも、みんながそうじゃないでしょ、って思うんですよ。だから、ぜんぜん両親は仲が良くて、なんならお婆ちゃんの誕生日に電話するっていう設定にしたんです。「そういう感情が生まれるのは親の影響でしかない」みたいなベタな設定から生まれる物語のつくり方みたいな、そういうセオリーを全部やらないっていうのは決めてますね。それやってると、結局、今まで存在している物語になるし、現実世界ってそういう風にはできていないんですよ、実は。

むらた:なるほど。拠り所にしているところは、ある台詞や一言だったり、こういう場所でこういう会話をするみたいなところからですか。

今泉:そうですね。「これまでの創作物はこういう風にできている」っていうことを疑うっていうことは常にしたいことですね。今までの映画がそういう構造をもっているっていうのは、もちろん、そういう状況が多いから、こうやってたくさんの物語が生まれて、ある程度の説得力も生まれているのかもしれないけど。やっぱりそれでは今までに存在している映画になるからなあ、っていうか。それはやりたくないんですよね。俺はやらなくていいっていうか。その世界を信じてる人がやればいいっていうだけですよね。

めい:恋愛映画が苦手だという話には、これに当てはめないと自分はいけないのかなと思ってしまうところにあるのかなと思うんですけど。『窓辺にて』も『街の上で』も『愛がなんだ』もそうですけど、複雑な人間の関係性の絡まり合いとか、それがそのままスクリーンに映されて、その部分に凄い救われてて。全員がすこしずつわかるし、でもわからないし。今のお話を聞いていて、登場人物と、鑑賞者である自分が会話できてるような感覚とかが、今泉さんが人と会うときの振る舞いとかからにも現れているのかなと思って、すごい感動しています。

今泉:どうしてもそっちで見ないようにしてます。人ってそんなに単純じゃないし。わかった気にならない方がいいっていうか。そういう考え方って、謙遜とかじゃなくて、正直、自己肯定から来てるんですよね。昔からの知り合いに言われるのは、だらしなさだったりとか、遅刻とか含めて、俺はほんとに駄目な人間でして。そういう、自分も含めた、どこか欠陥があったり、どこかよくないとされてるような人みたいな登場人物に興味があるし、別に映画のキャラに限らず、普段からそういう人の方がやっぱり自分は好きだったりするんですよね。

そういう人が、誰からも突っ込まれたり、否定されずにただそこに存在している、っていうのを映画でつくっていきたくて。それは、そういう人たちのため、というよりは、もう自己肯定なんですよ。自分を助けてるみたいな感覚でつくってるんで。
これは良くないとか、こうしなきゃいけない、みたいなことに対するクエスチョンがすごくあります。特に『窓辺にて』は、浮気とか不倫とかも扱っているし、スポーツ選手の引退や、小説を書くのをやめてしまったこと、などもそうですけど、続ける方がよくて、止めることはよくないことなのだろうか、とか。とにかく、そういう、これは良くないとされてることをいっぱい詰め込んで、それを否定しない、みたいなのがやりたかった。続けることだけが正しいわけじゃない。やめて初めて見える景色も絶対にありますしね。離婚だってそうです。

浮気とか不倫についても、芸能人とか政治家とかが、驚くほど一発で断罪されて、業界から消される、みたいなことが多くて。その断罪が、夫婦間とか当事者間で起こっているなら全然問題ないのですが、当事者同士が謝ったり、修復していこうとしていても、関係のない一般の人たち、第三者の声で、最低だとかクソだみたいに言われたことで、離婚しなきゃいけない状況に追い込まれたりとか.......。しかもそういう声の主って、「不倫された人がかわいそうだ!」みたいなことを盾にして、不倫した人を攻め続けるんですよね。「かわいそうだ!」って言われている当人がすでに許していても、「絶対に許さない!誰々がかわいそうだ!離婚しろ!」みたいな......おいおい、誰を守ってるんだ?みたいな。そういうやりとりって SNS 社会になって匿名になったことも含めて、たくさん溢れていますよね。政治家への批判も擁護もそうだし、ワクチン、反ワクチンも。
こういう状況が続いてしまうと、沈黙は金、みたいな状況になってしまって、賢い人ほど黙ってしまうような事態になりますよ、これ。それって、投票しない方が、今のだめな政権が続いていく、みたいなことにも繋がるし。大変な時代ですよね。

『窓辺にて』に話を戻しますけど、浮気とか不倫をあんなにたくさん扱ってるのに、あまり嫌な感じがしないっていう感想をたくさんいただいたのですが、それは誰も浮気などを楽しんでいないから、です。浮気とか不倫を楽しんでたら、もっと不愉快に映ると思う。別に誰も楽しんでないように描こうっていうのは意識していました。見た人が、逆に、どうせ浮気するなら、せめて楽しんでてくれよと思うぐらい(笑)誰も楽しそうじゃない。「やっぱ別れよう」とか「こういうのよくないよね」とかずっと言ってる。浮気や不倫が悪いことっていうのは大前提として、その中にも罪悪感とか、様々な葛藤、いろんな感情、純粋な片想いみたいな気持ちも存在しているはずなんです。それを描くためには、やはり「楽しんでいない人々にする」っていうのはありましたね。

さくら:わたしも脚本を書いたときに、登場人物が進歩しないと言われてしまったり、本当の物語を書くと、先生に「親はこの子をどう扱っていたの?」とか、「虐待してたの?」とか聞かれて、わたしはそこを描きたいわけじゃないのにって思って。

今泉:それは言い返せる答えを持っていないからだと思いますよ。先生に問われた際、明確に、「べつに親は虐待とかしてないし、愛情も注いでいた普通の人です」と言えればいい。何かしら用意しておけば答えられるから。

それに対して先生が「でもこういう状況だったら親が厳しかったりとか、なにかあった方がいいんじゃない?」って言ってきた時に「それだと普通になるんで」って言えればいいんですよ。それがなかったり、あやふやに答えると、先生も(ああ、あなたの中では決まってないんだね)みたいになっちゃう。そして、ベタを提案される。俺も、けっこう決まってないんだけど(笑)嘘でも、そこは戦えるようにはしてますかね。さも、すべて決まっているかのように。

さくら:もう毎回負けるんです。

今泉:(笑)。言葉にするのって、めちゃくちゃ難しいじゃないですか。言った瞬間にそういうことでもないんだけどな、って自分の中で少しズレてしまう時もあるし。メールとかもめちゃくちゃ面倒くさいというか、ズレるよね。そんな意図じゃないのに、めちゃくちゃ詰めてるような文章になったりして。助監督に当てたメールとかがね。あとで読み返したら、ああ、確かにこれは冷たく読めるなあ、とか。
喋り言葉ってイントネーションとか、表情もあったりするから、それによって、実は冗談だよ、みたいなニュアンスとかが補われたりするけど、書き言葉はねえ......トゲが出やすくなる、ってのはありますよね。顔が見えないからねえ。

むらた:みんなもっと、絵文字とかメールでも使っていいのにと思います。
チア部の三人でも、全然関係のない会話でも、語尾に羊がついてたりとかしゃぼん玉がついてたりとかして、それを見るとちょっと安心するんです。

さくら:パフェの絵文字がなくて、毎回花束で表したりとか。

今泉:それ、俺はやらないかな。俺がやったら一瞬にしておじさん構文になる。絶対使わないですね、絵文字とか(笑)。


〜溶けていくパフェを四人で見つめる〜

さくら:溶けちゃった。

めい:アルバイト先でパフェを出すことがあって、新作の試食をみんなでしようってなってたとき、お皿にパフェの具材を乗せたらもはやパフェじゃなくなって……。器ありきだなと。

今泉:ほんとそうかも。分けちゃったらちょっとしたケーキにだもんね。

めい:ドロドロになって。『窓辺にて』でもあったけど、チーズケーキは自立してるからその方がパーフェクトに近いですね(笑)。

ー 映画と現実を近づけたい

さくら:映画を観て、アスペクト比(画面のサイズ)が気になって。『窓辺にて』も『愛がなんだ』も、シネマスコープじゃないものを選ばれているのが、今泉監督の映画って日常を描いているから、そうすることによって、日常と映画を切り分けているのかなと気になりました。

今泉:映画は、もちろん作品毎にいろいろあるけど、日本映画の場合は、何も選択しなければ、たぶん 16:9 っていうのが基本ですかね。俺が最近好んで選択しているアスペクト比は『愛がなんだ』のときに初めて使ったヨーロピアン・ビスタっていう、ちょっとだけ横に黒があって、狭いっていうもので。『愛がなんだ』は、主人公の視野の狭さとか、開かれてる世界より閉ざされてる窮屈さがある方が合うからっていう理由でそれにしました。シネスコにはまるような、壮大な景色とか、広い画がどかんとある、みたいな映画じゃないので、それを選んだんだけど、その後も、主人公の視野が広い人とか描いたことないし、どこか窮屈で、生きにくくて、みたいな人たちを描くことが多いので、それ以降、重宝してますね。『窓辺にて』も『ちひろさん』もそうだしね。

さくら:なんかそれが、日常を見つめてるんじゃなくて、映画を観てるって感覚になることがよくて。そこで分断してる。私たちの生きている世界がスクリーンに映し出されているけど。これは映画だっていうのが.…..

今泉:おもしろい視点ですね。俺の中では、逆のニュアンスで使用していましたけどね。シネスコとかのほうが、ザ・映画!って感じがするから、今はあまり使ってないですね。
基本的には、俺は映画というものと現実を近づけたいと思ってて。でも、その逆の特殊性で、分断してる、映画だと思う、っていうのは初めての意見ですね。 自分以外の最近のヨーロピアン・ビスタの映画でいうと、三宅唱監督の『ケイコ 目を澄ませて』とかも、たしかヨーロピアン・ビスタですね。 三宅さんは2008年から知り合いなんです。映画祭で同じ部門で競ったりしてました。三宅さんがグランプリ取って俺が審査員に文句言いに行くみたいな(笑)。自意識過剰だったので。 5年くらい前に、海外の映画祭に三宅さんの映画『Playback』が行っていた時期もメールでやりとりをしていて。映画祭で多くの海外の映画に触れたり、自作への様々な国の方々のリアクションを受けてだったと思うのですが、三宅さんから来たメールに「今泉さん。たぶん今、自分たちがやってることは間違ってないんで大丈夫です。このまま続けていきましょう」っていうような内容が書いてあって。わあ、励みになるなあって思ったことを憶えています。三宅さん、憶えてないと思うけど。

チア部:かっこいい…

今泉:『ケイコ 目を澄ませて』すごいおもしろかったですね。もう映画つくんのやだなって思ったもんあれ見たら(笑)やりたくなーい、こんな映画つくれない俺はって。

さくら:そういうときってどうやって立ち直ってるんですか。

今泉:立ち直ってないです!立ち直ってないですけど、考えますね、ずっと。もっとおもしろいのつくりたいとか...…。自分は自分の映画をつくるぞ、とか。でも憧れますよね、やっぱ。画で魅せれる映画。どうやってんのか、わかんない。同世代に、濱口、深田、三宅、がいる。これってある種の絶望ですよね。本当は学び直さなきゃいけないんです。これは冗談じゃなくて。でも、しあわせなことですよね。

さくら:奮い立たされますよね。

今泉:岩永洋ていう、『街の上で』とか『愛がなんだ』とかもう10本ぐらい一緒にやってるカメラマンと、去年の夏、ある作品のロケハン中に、俺があまりに景色とか撮りたい映像、カットとか、とにかく絵的にことに興味がないのがバレて、「なんか撮りたい画とかってないんですか?」と言われた時に、「一切ないんだよね」って言っちゃって。そしたらすごいどんびかれて。「一生忘れないです、今の言葉」って言ってました(笑)。

むらた:正直ですね(笑)

今泉:いや、あるんですけどね。見えてないんですよね、絵が。想像できなくて。人物がそこに立って、動いてみて、初めてアイデアも視野も開けるんです。まあ、結局、人物にしか興味がないんですよね。作品を撮れば撮るほど、どんどんどんどんそうなっていますよね。実景とかもぜんぜん撮らないし。実景なし映画ですね、俺の映画は。これは昔っから。このへんは岩永さんとも意見が合うんですけどね。

〜パフェが溶けてドロドロに〜

今泉:これがパーフェクトじゃない所以ですね(笑)

むらた:「時間芸術」

今泉:時間芸術であり、取り分けてはいけないものである……

ー OKのライン

さくら:以前のインタビューで、脚本上のお芝居が終わってもすぐにカットをかけないことに関して、「なにか想像してないことが起きないかなと、カメラを回しながら、期待して待っている時間なのかもしれない」と話されていたと思うのですが、ひとつのカットの終わりの部分に限らず、いいカットが撮れたあとも、想像していないことが起きるのを期待して、同じシーンを何度も撮ることなどもあるのでしょうか。

今泉:まず、いいカット、OKカットっていうものが何を指すのかってことですよね。OKのラインってめっちゃ難しいじゃないですか。よかったらOKなんですけど、監督がOKと言ったらOKになってしまう。そしたら、それで終わりですからね。ものすごく当たり前のことを言いますけど、もっといける可能性があるなら、もう一回やらせてほしい。でもその判断って本当に難しい。でも、ある時、あることに気づいてからだいぶ楽になりました。

極論ですけど、俳優って全カット一発OKじゃなくていいじゃないですか。うまくいかなかったら、NGでもう一回がある。それで何回かやってOKになる。ある時、ふと思ったんです。俳優は一発じゃなくていいのに、なんで監督は一回でOKを判断できなきゃいけないんだって。もちろん、全てのカットで迷い続けていたら大変だし、監督失格かもだけど、監督だっておなじ人間です、本当に迷った時は、一発でOKを判断できなくてもいいんじゃないかと考えるようにしたんです。
そういう風に考えるようになってから、OKのラインがだいぶ楽になったというか。迷ったらもう一回正直に言ってやらしてもらう。で、俳優さんには申し訳ないけど、例えば「もうひとつ熱があるやつを見せてほしい」って伝えて、テイクを重ねて、やってもらう。それで、やっぱりさっきのがOKでした、と確認できたら正直に言えばいい気がして。
あと、脚本通り、想像していた通りのものが撮れても、俺は全然おもしろがれないですね。自分の想像を超えたもの、想像できないようなものが撮れた時は嬉しい。いつもなんか起これ、と思って現場にいます。きっとこのシーンはこうなるだろうなあっていうやつが撮れて、それで一日の撮影が終わると、(ああ今日は何にも起きなかったなあ)と思っちゃう。
役者さんに、先に細かくこうしてほしいって演出もしないし、キャスティングの時点で信用している人を選んだら、現場では、まずは何も言わないで演じてもらいます。先に言うと答えが一個になっちゃうから。一度、おまかせで演じてもらう。そうすると、想像もしていなかったようなお芝居が観れる可能性があがりますよね。そういう可能性の芽を摘むような演出はしたくないんです。でも、まあ何も言わないと、ぜんぜん間違った方向の芝居をされることもたまにあります。そしたら、ちょっと違うかも、俺はこう思うのですが、と伝えて、話し合って、調整していけばいい。でも理想はやっぱり、何も言わずに映画が完成したらいいな、と思うんですよね。極論ですけど。

─「これ、どういうこと」

むらた:自分たちが映画をつくって、友達とかに観てもらったときとかに、「これ、どういうこと?」って聞かれることがよくあって。そういう場合、演出の意図を説明していいのかどうなのか、迷うんですよね。今って、ドラマの考察なんかも激化したりとかっていうのはよくあると思うんですけど、そういう楽しみ方もあるけど……ちょっと寂しいなとも思います。

今泉:その場合の「これ、どういうこと?」って、いろんな見方ができるのに答えを求められてるってこと?それとも、(自分が大学生の時の感覚で言うと)表現の拙さとかでマジで伝わってないとかってことじゃなくて?
大学生の時、俺が言われた「どういうこと?」は、間違いなく表現が至ってなかったので。だから、単純にもうちょっとちゃんと伝わるようにつくんなきゃいけなかった。

むらた:そっちの面も、もちろんあると思います。でも、やっぱり考察して、伏線回収したいみたいなのは、同世代の中でもあるなと感じます。

今泉:ああ。そっちの意味、前者の方の「これ、どういうこと?」で言うと、意味がないシーンっていうものに対しての見方が分からないってことなんですよね。やっぱり観ている人は全てのシーン、全てのカットに意味があると思っちゃうから。これはねえ、どうしたらいいのかな。まあ、話はずれるかもしれないけど、作り手がどれだけ意識して、無駄とか、意味のなさを入れられるかって部分はありますよね。
『退屈な日々にさようならを』は自分で編集したんですけど。とあるシーンで、襖を閉める芝居の場面で、その襖に寄ってばちっと閉まるっていうカットを編集であえて入れてて。それってなんの意味もないんですよ。説明するなら、自分の中になる生理。リズム。それだけなんです。でも、やっぱり、見る人とか、セオリーで編集する人とかからしたら、絶対に要らないカットなんですよ。そこに寄る意味がわからないんですよね。だけど、自分で編集してたらそれが絶対に必要なんです。でも、いろんな人からあそこってなんなの、あれって意味ないよね、とか言われて。逆に、寄ってるから何かしらの意味を勝手にみんなが見つけたりしてて、いや全然そういう意味はないです、っていう。単なるリズム。でも、まあ、絶対言われるのはわかっていたので、直さなかったですね。「ああ、そうだよね。意味不明だよね。でもいるんだ」って答えるだけですね。そういうの、大切だと思います。俺は。

さくら:(店員さんに)ストローもらえますか

今泉:飲みものになっちゃった(笑)

飲みものになったパフェ


─ ずれの部分が大事

さくら:『窓辺にて』のパンフレットの中に、「やったあとに後悔する」みたいなことが書いてあって。一回付き合ってみてから後悔するみたいな。それが凄いわかるなって、試してみないと...。

今泉:『ラ・フランス』の小説の一部かな。
それに関しては、どっちもあると思ってます。経験が勝手に補うこともありますよね。やらなくても、前に失敗したことと似た状況だから回避できるとか。例えば、映画を年間100本とか200本とか観てたとして、その中に変な映画とか、つまんないものを観ることもすごく大事だと思うんです。でも、もちろんそういう出会いは必要だけど、めちゃくちゃ忙しい日々の中で、やっとできた時間にどの映画を観にいくか決めなくちゃいけない時に、(外したくない!おもしろい映画が観たい!)って時に、ポスタービジュアルとか、キャストとか監督、また、まわりの感想やリアクションから、ああ、これはもう観なくていいやつだな、と、察せるようになるとかね。そうすると大外れはしなくなっちゃったりとかする。でも、まあ、これ、例えが悪かったかも。自分で観ないとわかんないって部分もあるから、食わず嫌いはよくないですよね。映画に関しては特に。
というのも、本当に世の中がめちゃくちゃ評価してたり大ヒットしてて、みんな話題になってるようなものも、自分がおもしろくないと思ったら、それをちゃんとおもしろくないと言えるとか。まわりの評価と自分の評価は、ちゃんと違う部分にあるっていうのが大切だと思っていて。今ってあまりにSNSとかで、みんなの感想が目に入るから。自分がすごいおもしろいと思った作品がけっこう批判されてたりすると、自分の感覚がおかしいのかな、とか考えちゃう人もいると思うけど、それは違うと思う。
実は、ずれの部分が大事というか。みんながつまんないって言ってるけど、自分はおもしろいとか、みんながおもしろいって言ってるけど、自分はちょっと嫌だったな、って部分こそが、自分を形成している部分でしょ、って思うから。

ー 今泉監督のおすすめ映画

むらた:では最後に、学生に観てほしいおすすめの映画を教えていただきたいです。もちろん監督された作品でも。

今泉:自分のやつだったら『街の上で』ですかね。『愛がなんだ』もそうですけど。

俺が大学生の時に観て、恋愛映画としても影響を受けたのは、ジョン・カサヴェテス監督の『ミニー&モスコウィッツ』(1971)っていうアメリカの映画で。大学生の時に映画館で観て、結構な衝撃を受けました。とにかく俳優のいきいきしている感じが体験したことない空気だったんですよ。もう今は国内では観られなくなってるのかな…。あと、『ジョゼと虎と魚たち』(2003)は、映画を改めて志した時期に観て、改めて映画ってすげえってなった作品だったんで、おすすめですね。

あとは山下敦弘さんの『リンダ リンダ リンダ』(2005)とか『リアリズムの宿』(2004)とかは大好きです。俺の映画が好きな人はぜひ観てほしいです。ベースの部分で影響をもろに受けています。

若い映画ファンの間で、俺の映画や俺の存在が、なにか映画や映画館と触れ合うきっかけになっているとしたら、それはとても嬉しいですね。『愛がなんだ』をきっかけにミニシアターに行くようになったりとか、私の映画経由で他の映画を知る機会が増えたりとか。そういう存在になれているなら光栄です。俺の映画で止まってほしくない。ほんっとにおもしろい映画はたくさんたくさんあるので。

─ 編集後記
私たちの日常の、あらゆる場面で寄り添ってくれた今泉監督の作品たち。
今回、お話させていただいた時間の中でも、今泉監督の佇まいや言葉に、パーフェクトではない私たちがそのままで居られるような空気をつくり出してくださるようでした。
今泉監督の作品、このインタビューがひとりでも多くの方に届きますように。

─ 京都での上映情報🎥

京都みなみ会館にて
https://kyoto-minamikaikan.jp/schedule/
・2023.3.3(金)-3.23(木)『窓辺にて』
・2023.3.10(金)-3.16(木)『愛がなんだ』
・2023.3.17(金)-3.23(木)『街の上で』
・2023.3.11(土)『愛がなんだ』『街の上で』『窓辺にて』3本立てオールナイト上映イベント

出町座にて
2023.3.24(金)-『ちひろさん』
https://demachiza.com/movies/13122

京都みなみ会館


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