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映画『聲の形』 見て、聴いて、ちゃんとーー。

初めまして、映画チア部大阪支部のタマキです。この度、京都アニメーション特集ということで遠路はるばる出張して参りました。
こうして感じ、考えたことを文章にするのは普段あまりなく、慣れないことではありますが、お時間が許しましたらごゆるりとお付き合いください。

さて、僕が今回紹介するのは、映画『聲の形』です。週刊少年マガジンで連載された大今良時の漫画を、京都アニメーションが劇場アニメ化した作品です。

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あらすじ

”退屈すること”を何よりも嫌う少年、石田将也。  ガキ大将だった小学生の彼は、転校生の少女、西宮硝子へ無邪気な好奇心を持つ。  彼女が来たことを期に、少年は退屈から解放された日々を手に入れた。  しかし、硝子とのとある出来事がきっかけで将也は周囲から孤立してしまう。  やがて五年の時を経て、別々の場所で高校生へと成長したふたり。  ”ある出来事”以来、固く心を閉ざしていた将也は硝子の元を訪れる。  これはひとりの少年が、少女を、周りの人たちを、そして自分を受け入れようとする物語ーー。(映画『聲の形』公式サイトより引用)

 原作漫画も含めて、この『聲の形』という作品は僕にとってとても大きな存在です。映画の公開初日の初回、1番最初に劇場に駆け込んだのは今でも良い思い出です。
それほど大好きな作品なので言いたいことは山ほどありますが、収拾がつかなくなりかねないので、あまり熱く長くなりすぎないように、今回は注目ポイントを3つだけに絞ってお送りします。

*がっつりネタバレなので、その点はご注意ください。


1.光の形

 この映画『聲の形』は、真っ暗な画面に光の点(a point of the light)が映し出されて始まります。徐々に大きくなる光、中に小さく見えるのは将也の後ろ姿でしょうか。将也と硝子が肩を並べて歩いているのでしょうか。後述しますが、この光の点は本編の最後にも観ることになります。

映画の最初と最後を飾っているように、本作では光というものが印象的に用いられています。アニメーションには偶然はありません。全てが人の手で、意思で描かれます。
そこで、この光の演出について考えてみます。

真っ先に思い浮かぶのは、小学生時代の将也と硝子の喧嘩のシーンです。孤立した2人が夕暮れの教室で激しくぶつかり合う、一見すると、いじめ加害者と被害者、障害のある少女と元気あり余る少年の取っ組み合いという酷い場面。
しかしここでは明るい光が差し込み、2人(特に硝子)を照らすのです。

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というのも、ここで初めて硝子は他人に自らの真の感情をぶつけたのではないでしょうか。今まで曖昧に微笑んでごまかし、ごめんなさいを繰り返すことで波風を立てないようにしていた彼女が、言えずに抱えていた思いを伝えようとしたのです。
だからこそ、その意味で明るい光に包まれているのだと考えられます。そして、このシーンの音楽も、喧嘩とは思えないような優しく落ち着いたもので、前向きにも聴こえるのです。

また、この喧嘩以前、硝子が将也にあるお願いをするシーンや、終盤にそれがフラッシュバックするシーン、2人が初めてメールのやり取りをするシーンなどでも光に照らされます。

このように硝子が他人に何かを伝えようとする時、コミュニケーションをとろうとする時には、そこに光を当てていると考えられます。

 そこで、直接的な光とは少しずれますが、花火についても触れてみたいと思います。本作で花火は、将也が自殺を試みる冒頭と花火大会の日の2度登場します。
前者では花火によって将也は自殺を取りやめ、後者では花火大会の途中で帰宅した硝子が、美しい大きな花火を前に自殺を図ります。

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この2つを考察すると、花火大会で花火を見ている際、硝子が目を閉じる場面があります。その後、将也に話す手話は全て見えませんが、一部と将也のリアクション、途中に挟まれるカットから推察するに、「花火の音は聴こえなくても振動は伝わる」というようなことを言っていると思われます(振動で伝わる、というのは2人が再開した最初の場面での手すりでも表現されています)。

そこで硝子の状況を鑑みると、既に自殺の決意という強い意思を持ちながら、彼女は花火の光に照らされているのです。そして音はなくとも揺れは伝わる。すると、話さなくとも揺れている内なる部分が伝わる、と解釈出来るのではないでしょうか。つまり花火とは硝子の秘めた意思の表れなのです。
時間を遡ることになりますが、こうして1つ目の花火を考えると、将也が飛び降りなかった理由が新たに見えてきます。硝子の”こえ”が伝わったのでしょう。

2.手の形

 監督を務めた山田尚子、彼女といえば「脚の演出」というのがアニメファンにはもはや常識ですが(そんなことはない)、今作では手話が多用されるのもあって、手が名演技を見せてくれます(もちろん脚も健在です、ご心配なく)。
その中でも「友達」を意味する手話でもある、手を握る・繋ぐという行為が特に強調されて映ります。

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この手に注目すると、硝子の手は他者と悉くすれ違い続けるのです。将也に友達になってと伝えた時。補聴器が投げられるのを止めようとした時。川に落ちたノートを取りに飛び込む時。観覧車で植野が握手を求めた時。養老天命反転地で将也が足を滑らせた時。小学校時代に1度、将也の手を掴みますが、この時は将也が振りほどいてしまいます。

そんな硝子の手が初めて繋がれるのが、前述の花火大会の日に飛び降りた硝子を将也が助けるところです。伸ばし続け、伸ばされ続けた手をようやく握ったのがこの形。これが硝子の、将也の、2人の望んだ形なのでしょうか。

だからこそ2人は過去ではなく、今と今が連なる先の未来を見て走り出すのです。そして橋の上でのクライマックス、将也によって形作られる「友達」。重ねられる将也の手。こうして出来上がった手こそ、2人の求めたものと言えるのでしょう。

その後の文化祭で硝子が将也の手を引く光景も、この過程を考えるととても感慨深いものです。

3.前提とテーマ

 前提とテーマは異なる。これは僕が映画をはじめ、創作物に触れる際に意識している事のひとつです。当然と言えば当然ですが、混同して考えられていることがしばしばあるように思われます。何らかの社会問題やマイノリティ、センシティブな内容などを扱った場合には特に。

あ、ここからは今までよりも主観的になります。

 して、『聲の形』のテーマは一体何なのでしょうか。漫画の読み切りや連載の当時から、そして映画公開時から現在までも、その内容や描写から賛否両論で物議を醸してきた『聲の形』。
少し調べると、強烈なインパクトを与える事もあってか、いじめや障害をテーマだと言う意見もよく目にします。

僕が思うに今作が描いてみせたのは「コミュニケーション」そのものです。伝える、伝え合うことの難しさであり、その行為自体の尊さです。いじめはこのテーマを語る過程で必要となったもので、聴覚障害はそのきっかけだと思っています。

というのも、まず硝子は転校してきて早々にいじめられるわけではなく、最初は彼女もクラスメイトも互いに仲を深めようとするものの、コミュニケーションが上手く取り合えないことから徐々にズレが生じ、距離が出来て…という過程を辿るのです。
つまり、硝子がいじめられたのは単に障害者であったからではなく(スタートとゴールだけを見ればそうとも言えるが)、コミュニケーションの失敗が原因と言えるのです。硝子へのいじめという事象はコミュニケーションがもたらしたひとつの結果だ、と。

だからこそ、この映画では「いじめは悪」や「いじめの肯定」など、いじめという事象に答えを出しているのではなく、過程を経て起こった事としてフラットな描き方を心がけているように感じられます。
(しかし基本的に将也の視点で語られるため、その意味での偏りは感じると思いますし、僕が何度も何度も観ているために慣れてしまっているという可能性も否定しきれませんが・・・)

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そして聴覚障害というのも、先にきっかけと書いたように、本質ではないと思います。そもそも聴覚障害というのも硝子の数ある内の1つの要素でありますし、気持ちを適切に伝えられないのは硝子だけではありません。
そして今作は極端な話、聴覚障害でなくても成立すると思うのです。ディスコミュニケーションに行き着くように機能する設定や要因は他にもあるでしょう。加えて、今作を通して得られる聴覚障害そのものについての学びは多いわけではないと思います。医学的な解説や、補聴器の詳しい説明もそうたくさん為されません。
これらの意味でも、今作における障害はテーマを描くために選ばれた方法の1つだと、僕は解しています。

また、障害を扱う物語として、その向き合い方を見ると、障害(を持った人)へのまなざしが素晴らしいと感じています。僕が原作を含め『聲の形』という作品を愛してやまない大きな理由の1つでもあります。

これは植野直花というキャラクターを通して顕著に見えてきます。彼女は自分の正義に従い、言いたいことは素直にぶつける、良くも悪くも真っ直ぐな人間です。
そんな彼女は硝子に対してもその姿勢は変わりません。自分の気持ちはちゃんと伝えて、その上で相手と向き合って言葉を聴きます。そしてそんな自分に向き合おうとしない硝子には、はっきりと怒りを持って感情をぶつけるのです。障害を理由にコミュニケーションを拒むことを彼女は許しません。
このように植野の硝子への向き合い方は差別的な意識はもちろん、「障害者だから」といった特別視もない、同じ立場の西宮硝子という1人の人間に対してしてのものなのです。

無意識的にも設けてしまいがちな健常者と障害者といった枠を飛び越えた人と人の関わり合いを描いた事は、硝子にとって、この作品にとって、そしてその固定観念にとらわれがちな映画などの表現にも大きな意味を持つと思います。

以上のように、見えない壁さえも越えた人と人の関わり合い、「コミュニケーション」を描いた『聲の形』、世界を閉ざしていた将也がちゃんと人の顔を見て、”こえ”に耳を傾ける事は、まさにこの物語の締めくくりに相応しいものです。
そして上記の光の点は、関わってきたキャラクターを映しながら大きくなり、画面いっぱいに広がるのです。これが「聲の形(the shape of voice)」だ、と。

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おわりに

想定よりもずっと長々しくなってしまい、最後までお付き合いいただいた方には感謝でいっぱいです。温度をあまり感じない文章になった気もしますが、荒ぶらないよう努めた結果ですのでご容赦を。
少しでも僕の”こえ”が伝わっていたら嬉しいです。

京都アニメーション特集はまだ続きます、引き続き楽しみにお待ちください!!

引用

koenokatachi-movie.com/







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