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『MY LIFE IN THE BUSH OF GHOSTS』宮崎大祐監督インタビュー【前編】

こんにちは。映画チア部大阪支部のりょうです。今回は、6月15日よりシアターセブンで公開の『MY LIFE IN THE BUSH OF GHOSTS』について、宮崎大祐監督へのインタビューをお届けします。

『MY LIFE IN THE BUSH OF GHOSTS』は、退廃的な近未来を描く前編”MY LIFE”と、ある森に集まった人々の様相を描く後編"BUSH OF GHOSTS"の二部で成り立つ実験的な映画作品です。映画内で物語やメッセージははっきりと明示されることはなく、観た者が提示された映像から自分なりに何かを読み取る、考えを深めていくという構造になっていて、これは主流な映像作品では中々できない、インディーズ映画だからこそできる映像表現だなと感銘を受けました。

記事は前後編に分かれていて、前編ではタイトルの由来や映画における森という存在について、そこから多様性という言葉の持つ危うさについてお聞きしました。

(聞き手:りょう)

チア部:タイトルの『MY LIFE IN THE BUSH OF GHOSTS』にはどのような意味が込められているのですか?

宮崎監督:タイトルはデヴィッド・バーンとブライアン・イーノのアルバム『My Life in the Bush of Ghosts』から取っているんですが、そのアルバムもナイジェリアの短編小説『My Life in the Bush of Ghosts』(エイモス・チュツオーラ作)から来ています。ブライアン・イーノの作品のツギハギなイメージが良いなと思ったことと、撮っているときから幽霊的な、「なにかいる森」というようなテーマがあったので、それらを重ねて選びました。

チア部:音楽からインスピレーションを受けるということも多いのでしょうか?

宮崎監督:結構、曲のタイトルが映画のタイトルになっているというのが好きなのですが、あんまり有名な曲だとみんな知っているので、知っている人は知っているけど、知らない人もいるというような…気になるタイトルがあるといつもメモを取っています。デヴィッド・バーンもブライアン・イーノもすごく好きです。

チア部:デヴィッド・バーンはトーキング・ヘッズのボーカルでブライアン・イーノはそのプロデューサーですよね。

宮崎監督:アルバムによると思うのですが初期はそうですね……ブライアン・イーノは元々、グラムロックバンド、ロキシー・ミュージックのメンバーでした。

チア部:幽霊という部分が共通していたということですが、この映画では第一部が『MY LIFE』、第二部が『BUSH OF GHOSTS』となっています。そこにはどういう意図があったのでしょうか?

宮崎監督:もともと違う映画だったんですよね。僕はまず森で映画を撮ろうと思っていて、森(Bush)で幽霊(Ghost)っぽいみたいなテーマがありました。前半はSFで別の監督が原案を書いていて、「人の人生(Life)とは、愛とは、繋がりとは」というような話でした。それじゃあ、『MY LIFE IN THE BUSH OF GHOSTS』じゃない?となってこのタイトルになりました。

チア部:前編は前の監督さんが書いた脚本を踏襲したのですか?

宮崎監督:いや、前の監督は原作、プロットみたいなものを書いていて、それをあのパートの出演者たちがそれぞれ脚本にしていたんですよね。それを僕が結構直しました。直したというか…思想を逆にしちゃったという感じです。例えば、「部屋から出ていく」という話だとしたら「部屋から出ていかない」にしたり、「この人が嫌い」という話を「この人が好き」という話にしちゃったり。割と前半は、与えられた原作の核とは逆の話を書きました。それから最初の脳RPGという部分は僕が書き足しました。

チア部:映画の中で〈森〉という存在がとても概念的に描かれていると感じました。この〈森〉という存在にどのようなイメージを持たせているのでしょうか?

宮崎監督:今までの作品では具体的な街、すなわち地元の大和だったり、大阪の鶴橋だったり、名古屋の都市部だったりを撮ってきたんですけど、それらが全部似たような場所になりつつあるという思いもあって。どこにも似たようなお店ができて、似たような服を着た人たちがいて、似たようなものを食っているっていう現実をここ数年すごい強烈に実感したときに、全部が同じ景色になっちゃって朽ち果てた後にはたぶん森が残るのだろうなと思いました。森も、植物とかは特徴がありますけど、割とどこも同じように見えるっちゃ見える。だから初めて抽象的な空間で意識的に映画を撮ろうというイメージがあって、森で撮ろうという風になりました。駆け出しの自主映画監督とかって大体、森か海で撮っちゃうみたいなところがあって、そんな気恥ずかしさも乗り越えてあえて森で撮ろうという感じでした。

チア部:なるほど……森や海は抽象的な場所だから……ということですか?

宮崎監督:森や海は抽象的で、フィクションのレベルを上げるのにもってこいなのかもしれません。海に関しては「海に行ったけど結局逃げれませんでしたー」みたいなのが若い人たちは好きじゃないですか。逃げようとしたけど海に行き当たってしまいました、みたいな。それって多分、日本文化全般に言えて、周りが海で逃げれないからそうなるんでしょうね。でも、自分は下に掘るか、みたいな。

チア部:自分が日本の海の映画と聞いて連想するのは北野武作品ですね。

宮崎監督:確かに北野武の作品は海に行って死亡みたいな話が多い(笑)。

チア部:海が「死」の概念と結びついているというか……海は抽象的な意味合いを持たせることができる存在なのかもしれません。

宮崎監督:そうですね、帰っていく場所というか……森もそんな感じなんですけど、もっと色んな生き物がいることが具体的に想像できるというところがあって。海も魚とかもちろんいっぱいいるんでしょうけど、魚たちがざわめいているイメージより、森の方が色んな動物がいて、ざわめいているイメージが膨らみやすいような気がしています。

チア部:海の場合は生物は水面下にいますもんね。

宮崎監督:人間が行けないのが大きいのかもしれません。森には行けることは行けるので。

チア部:生物が共生している場として森というモチーフを使ったのですか?

宮崎監督:そうなんですよね。森がどんどん都市を食ってきている感じがあって、コロナウイルスとかもそうですけど、人間にはよく分からないけど、たしかに存在しているものたちがどんどん人間の都合を飲み込んでいるというか、侵食している感じというのをやりたかった気がします。

チア部:それは今までの作品で結構都市を撮っていたという反動で自然を撮りたかったということですか?

宮崎監督:自然と言っても綺麗な山とか綺麗な海、カッコいい砂漠とかあるじゃないですか。ああいうのってCMとかAIの映像で大量にあって、そうではない、汚いその辺にある茂みみたいなイメージで、映画的ではない自然というのを都市の代わりにやってみるかと考えていました。

チア部:人間によって美的対象として消費されていない、リアルな自然というイメージですか?

宮崎監督:そうなんですよね。壮大な雪山とかハリウッド映画を観てるとよく出てくるけど、「うわぁ美しい」ってこの十年ぐらい思ったことがない(笑)。「どうせ全部CGでしょ」って終わってしまうというか、「実写かもしれないけどドローン飛ばした程度の苦労か、CGっぽいよね」みたいな反応が僕は多くて。だったらその辺にある、わけの分からない、形が整っていない雑草とか誰の目にも入らない汚い森のほうが可能性感じるなというか、面白いなと思います。

チア部:美しくて完璧すぎるものは逆にその美しさが伝わらないみたいなことはある気がします。

宮崎監督:そうですねぇ。多分、「森」って検索すると美しい森がいっぱい出てくるので、言葉に定義されて一番美しい基準値的なイメージが溢れちゃってる世界だと思います。AIも多分そうで、「森」って打ったら一番綺麗な、みんなが思うような森が出るし、「魚」って打つとそれなりに整った魚が出てくる。そういう基準値みたいなものって人間が作らなくても機械が再現してくれる時代だから、わざわざ芸術として表現する必要がなくなってきてるのかなと思って。

チア部:確かに、AIに出力されたイメージって小綺麗な感じがします。

宮崎監督:そうですよね。すごく綺麗で標準的なみんなが思う平均値的なものを算出してくるので……物凄いデータベースの中から抽出して世界の人たちが思う基準値みたいなものを出してくるじゃないですか。だけど、映画ってそうじゃないというか、芸術すべてが当たり前とか基準値から離れれば離れるほど面白いと僕は思っていて、だからその余りというか汚れみたいなのがテーマでした。撮影したのは2年前なので、まだそのころはAIの出来ることもかなり限定的だったのですが、未来を予見して「今後はAIが作れないものしか作りません!」とか言って一人で騒いでたんですけど、今年になってGoogleやChat GPTによって、単語を入れたらHD動画を作れちゃうという世界になっちゃったので、より一層AIに描けないことを描かないとなあと思うんですよね。
 
チア部:2年前だとまだ画像生成AIもまだ出てきていないですよね。

宮崎監督:そうです。今はフルHDですぐ動画を作れちゃうので、そうするといよいよ今映像作ってる人たちの9割方仕事がなくなるぞ…という。

チア部:標準的な、いわゆる綺麗な映像だけしか作れないと……

宮崎監督:そうですね。多分、テレビドラマやCMといった標準的な、マス向けの動画やアニメはAIで良いんじゃないのってなるんじゃないですか。

チア部:色んな生物が存在している、共生としての森というのが先ほどお話の中で出たと思うのですが、この映画でも言葉を話せない人だったり、下半身不随の人や方言を喋る人など様々な人が登場しているなと思いました。”THE BUSH OF GHOSTS”の冒頭とラストの枝分かれする根のショットは、そういった人々の生まれ持った性質、つまり根っこの部分を表したショットであると同時に、根っこが枝分かれしている様から多様性の象徴のようにも思えます。この多様性というのが、一種映画のテーマだったりするのですか?

宮崎監督:そうですね。根っこもそうですし、カレー屋の曼荼羅画もそうなんですけど、木の幹があって枝があるというよりかは、みんなが根っこで、てんで散り散りに、それぞれで生きているみたいなイメージというか。一緒に住んでいる、共生している、まとまっているわけじゃないけど、とりあえず一緒にいる状態みたいなことをやりたくて。映画って関係性を見せないといけない、みたいなところがあるので、誰と誰が関係していて最終的にオチがこうみたいなのがすごく強いと思うんですけど、そうじゃない、ただそれぞれみんな森の周辺にいる、存在しているみたいなことがやりたかったんですよね。近いところにいてちょっとすれ違ったりするけど、決して作者の都合とか物語上の都合でくっついたり、関係性が出てきたりということがない作劇がやりたくて。

©️2022 THE FILM SCHOOL OF TOKYO

多様性云々とかも僕はすごく上からの目線だと思っていて、ケアとか利他っていう言葉を最近よく聞くじゃないですか。他の人に利益を与えるとか、そんなこと言われるまでもなく昆虫でもやっているわけでして……そんな動物の原初的な活動にまたそんなくだらない名前をつけて金稼ごうとしてんのかと。「多様」なんて言葉も、さっきの話と一緒で「基準から外れているものがいっぱいいる」という彼らの「ものごとを自分の外側に置く」という考え方がベースあって。そもそもあんたに多様なんて言われなくてもみんなそれぞれがそれぞれのあるままに存在していて、それに良いも悪いもない。そんな状態を僕は求めるし、むしろそう存在出来ない状態がある場合、それを変えたいんです。「ただ、そこにいる」以上にわれわれに必要なことってなんなんでしょうか。そしてみなさんの思う基準と違う、ズレていることはむしろ素晴らしいことだし、その人の美点だと僕は思うから。我々は標準語という基準に合わせられちゃうんですが、訛りもそのままで僕は良いと思うし…渚まな美さんは山梨出身で、普段はもっとカチコチの標準語を喋るんですけど、「甲州弁でお願いします。ちょっとやりすぎでもいいです」と言ったらああいう感じになりました。そういう積み上げてきた歴史や文化が標準化の名の下に骨抜きにされちゃう、慣らされちゃうことにすごく僕は違和感を感じるので。そのままでいる人たちがただそこにいて、たまにちょっと交錯したり、出会ったり別れたりするみたいな、そんなイメージでした。

チア部:確かに、多様性という言葉自体にみんなの基準から外れている人達というのを指す部分があって、その言葉そのものに「基準」が垣間見えてしまうこともある気がします。

宮崎監督:本当にそう思いますね。名前を付けて自分の外側に置いて、それで儲けるんじゃなくて、その人たちと同じところに自分は生きている、みな自分の内側に存在しているんだと思って、生きていくという。歴史的に見ても、人が何かを名付けることによって「自分たちとは違う」といった分断が生まれていたように思います。怖いから檻に入れる、理解できないから線を引くといったことを繰り返してきて、僕は今の世界になっていると思うので。もともといる、そして自分とは違う、だけど違うからこそお互い学び合い、語り合い、生きているし、それぞれを尊重し合って生きる、そういうことなんじゃないの?と僕は個人的に思っています。

チア部:難しいですよね……名前を付けた時点で他者化してしまうけど、名前を付けないと広めることはできないというか……

宮崎監督:そのバランスだとは思うんですけど、ちょっと現代はあまりにすべてに名前を付けすぎているように思います。それはそれで良いこともあるんだろうけど、機能性を超えて言葉を追えないときもあるし、そこまでして棲み分けしていった先に何があるのって。分断していくことで、あらゆることが相対化されて結局無関心を招くこともある。そしてやっぱりその不必要な記号化によってお金を儲けようとしてる人たちがいるということには気付いたほうが良いと思うんですよね。

だからそういう、文化人界隈で流行し消費される嘘くさい概念に対してすごく抵抗があります。今回の撮影ではろう者の方が3人参加していて、ろうって分かりやすくマイノリティとか多様性みたいなところに括られますけど、実際そういう聞こえないという特徴がある。そういう特徴があるから彼らとはうまくコミュニケーションが取れないときもある。そういう前提から始まったので、この撮影は、お互いどう交流してどう落とし所を見出すというか、お互いを分かっていくかという過程でもありました。その結果分かってくるのは、基本的にやっぱり一緒なんだけど、もっとお互いコミュニケーションをとればよかったということです。聴力において権力側にいる僕はもっと主体的にろうの方々のことを知ろうとする必要があった。気づく必要があった。その上で、聞こえない人はこういうものだからどうのとか、逆に聞こえる人はこういうものだからどうの、みたいな思い込みがお互いにあるんですよ。そういうのが実際とどうずれているのかという話し合いができたのが、外部化することや消費することに逆らう生きた活動であったように思います。

チア部:ろう者の方と撮影を行ったことで得た気づきとは、根本的な部分はお互い同じだったということですか?

宮崎監督:同じというか……何に喜びを感じるかとか、何を不快と思うかなんてことはどんな人でもおおむね同じでありながらも細かくは当然それぞれに違うんですけど、違う背景や環境の中で育ってきたわれわれがお互いの知らなかったことを知ろうと努力し始めるようになって、お互いコミュニケーションを取り始めるようになったというのはすごく大きいことですし。お互いたまたま出会えて、コミュニケーションが取れて、お互いの存在とか、お互いがなんでそうなってるのかとかを話し合えた。出会えて本当に良かったなという経験でした。

でも、それだけじゃないんですよ、絶対。自分としては何かが足りないとか、どこが具合悪いとか自信がないとか、誰にでも何かしらあるじゃないですか。そういうものを隠して標準化するんじゃなくて、そのまま活かしたい、肯定したいという思いがすごく強くありました。気づいたかどうか分からないですけど、ちょっと特徴的な歩き方をする俳優の方がいて、僕はそれをじっくり撮ったんですよ。やめてくれって思ってたのかもしれないけど、僕はすごく良く撮れたと思ったし、あの歩き方がすごく良かったと書いてくれてた人もいた。そういう風に、多くは語らず、観てくれた人たちがネガティブだと思ってたことを肯定的に捉えられるようになるというか、そういうあるがままを肯定する機能を映画に持たせないと、AI動画にやられてしまうというのがあったんです。

チア部:色々な人が映画に出ているけど、それを売りにしたり、それがこの映画のメッセージですというよりも、当たり前にそこに存在しているというか……

宮崎監督:本当にその通りです。金儲けに走ったインディーズ映画とかって存在意義が無いかなと思っちゃったりもするので。昔から低予算映画ってエロ・グロが前に出るじゃないですか。小銭のためにそこの品位まで失った場合って、「何なんだろう、こんな辛い思いをしてまでこんなことやってる我々は」ってちょっと思っちゃうところもあって。せめて自分が信念として信じている倫理からは離れないように作ることはインディーズ映画を作る真摯な態度かなとは思うので。

チア部:インディーズ映画の映画制作には様々な制約や困難があると思うのですが、制作中にぶつかった壁などはありましたか?

宮崎監督:いやもう壁だらけでしたよ。予算がほとんどなかったし、撮影日数もほとんどなかったので。メインの森が撮影許可を取っていたんですけど、撮影してはいけないと公園の方に言われたりとかして。3月の末とかだったので、事務局の引き継ぎの時期だったんですよ。メインのロケ地が急に使えなくなるみたいなやばいことも……森の映画なのに森が使えないとはどういうことだと思ったんですけど(笑)。そういうこととかも上手いことどうにか……

あとは予算がなさすぎて……劇場でかけるとなると最低限のクオリティを担保しないといけないと僕は思っていて、お客さんもいるので。そうすると音とかやらないといけないんですよ、仕上げを。家でヘッドホンで聞いて作った音だと劇場だと聞くレベルではないと思うので、そういうときとか追加でお金がかかるじゃないですか。仕上げとかやってるうちにお金がないとやっぱ映画って作れないよなという非常に前提となるところを思い出して(笑)。

今回だけはって頭を下げて、学生の映画だし、頭下げまくってどうにか完成はしたんですけど、そういうところで僕の人間関係が摩耗したというところはありましたけどね(笑)。インディーズ映画って結局、人間関係がすり減ってしまう……一本撮るころにはもう周りに誰もいなくなったみたいなことはざらなので。

チア部:逆に、インディーズ映画だからこその良いところというのはありますか?

宮崎監督:やっぱり、自分が本当に面白いと思うことを徹底的にできるというところじゃないですか。商業の現場でもそういう幸運が訪れることもまれにありますが。今回はキャストが俳優コースの学生だったので、キャストは全面的に選べるわけではなかったですけど、好きな俳優で好きな物語を好きなように撮れるっていう。しかも僕が作るインディーズ映画というのは絶対、基準値的なものにはならないので。AIでは絶対生成できない動画が仕上がってくるというところに僕のインディーズ映画に賭ける面白みがあるんじゃないですか。世間一般の人たちが求める、伏線があって回収があるとか考察ができましたとか没入感がありましたみたいなポイントに一ミリも触れないような作品ばっかり作っているので(笑)。そこがすごい爽快というか快感ですね。まあでも、インディーズ映画制作よりも楽しいことってなかなか他にないと思います。危険な、非常に魔力が強いので、人を傷つける可能性が高いですけど。色んな芸術の中でダントツの中毒度とセロトニン排出レベルだと思います。

チア部:それはどういう部分で人を傷つけるようなことがあったり、中毒性があったりするんですか?

宮崎監督:映画って現実の再現なわけですけど、やっぱり監督って構造上権力者になるし、欲深いので、神様みたいなポジションになるわけじゃないですか。そうなると現実を再現するうえで絶対、行くところまで行っちゃう?みたいなボーダーラインが出てくるんですよ。分かりやすく言うと、例えば主人公が海に溺れるシーンを撮るとする。一度普通に撮ってみて、俳優の熱演によって実際に溺れているように見えた。でも、もう五秒長く溺れてくれるとさらにリアルでいいかもな、などと監督がぼそっとつぶやく。さっきのテイクでギリギリっぽかったし常識的にはそんなことは危険なので予定通りでという選択肢しかないんですけど、俳優はあと五秒くらいならがんばれますなどと青ざめた笑顔で述べる。ここで、なんとなくに基づき、常識とは外れた映画の魔が発動する。そしてとりあえずやってみようとか言ってやった結果実際には五秒どころか十秒長く溺れたことですごいものが撮れてしまったりする。これに立ち会った人々は突如自然発生したお祭りに立ち会ったかのような不思議な躁状態に陥る。「こんなことはやってはいけない!ドーピングだ!」と叫んでみたところで、俳優はやってやったぞと大満足で、監督は気恥ずかしそうに微笑んでいる。あたりを見回すと、スタッフの目は監督のカット!の声と同時に噴き出た濃厚なドーパミンによって爛々と輝いていて、感動のあまり泣いているものまでもがいる始末。当然誰も常識や正論を聞き入れてはくれない。こんな、お祭りというには野蛮すぎる戦争にも似た集団ヒストリーが頻発するのが映画撮影の現場です。問題になるような監督は毎日そのボーダー越えをやっているのでしょう。ボーダーライン中毒です。過酷で尋常ではない背景さえ知らなければ疑いなく素晴らしい傑作も多いですよね。スポーツの強いチームが連勝して勢いに乗ってきたような、グループとしてボーダー越えをこなしてきたというグルーブや一体感が作品に力を与えるのでしょう。客観的に見ていると犯罪行為と呼んでもいいようなことが日々行われているわけですが。だから映画の魔との戦いは映画が存在するかぎりつづきます。特に権力者である監督はそれを意識しなければ、これからの時代、映画監督をつづけられないでしょう。本当は客観的な判断をしてくれる人間をつど現場に置いた方がいいと思います。インディーズ映画は商業映画に比べると制約が少なく、監督の権力も強いので、より一層「お祭り感」が出るというか…みんな躁状態になりやすいので。だから怖いことに、ずっと寝てなくても大丈夫な人がいたりします(笑)

ここまで読んで頂いてありがとうございます。
現在、映画業界ではハラスメントをなくすために次のような取り組みがなされています。
ぜひこちらも併せてご覧ください🔽

日本映画制作適正化機構について
https://eiteki.org/

action4cinema、「制作現場でのハラスメント防止ハンドブック」配布
https://branc.jp/article/2023/12/22/896.html

続く後編ではコロナと作品の繋がりやこれからのミニシアターについてお聞きしましたので、ぜひご覧ください!



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