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文楽にハマって/「奥州安達原」(2022年9月19日)

前回につづいて、2022年9月公演にまた足を運びました。
コロナ禍でずっと観られなかったので、これを機に一気に摂取。
今回、鑑賞したのは、「奥州安達原」
おうしゅうあだちがはら、と読みます。

これが素晴らしかったです。
盲目の母と、その娘の流離譚。
母は若い時分に浪人と出会って、武家の家柄を捨てての熱情的な駆け落ち。
男と別れてしまい、宿した子を女手ひとつで産み育てています。
今は、母娘で哀れな乞食道。
その二人の末路はどうなる……という物語。
凄まじく良くできた脚本です。

この文楽は、人が死にます。
死の瞬間を演じるのは、人形です。
これがまた素晴らしい。

文楽解説本の中で、作家の柚木麻子さんが書いていて、本当にその通りだと思ったことがあります。
人形だからこそ死を演じるのが真に迫ってくる、と。
ぱたりと倒れた後、そこにあるのは血が通った俳優ではなく、ただの物体。
英語で死体は「Body」といいますが、まさにボディーそのもの。
車のボディーみたいな物質性。
精神性も温度も皆無。
だからこそ、余計に「死んだなあ……」というのが胸に迫ってきます。

思えばわたしが、歌舞伎や能よりもむしろ文楽にハマったのも、人形だからでした。
歌舞伎、能、狂言も面白いのですが、文楽は圧倒的に異なっています。
舞台の中心にいるのが、人間ではないのです。
人形です。
舞台の中心に生身の俳優がいないから、発せられる熱がない。
かといって、生きている瞬間はちゃんと呼吸すらも感じます。
なんだったら、女性役の人形とかの色気は凄まじい。
一方で人形がスッと無機物になる瞬間には、心地よさすら感じます。

普段、わたしは生身の俳優さんと仕事をしているので、主張ゼロ、表現欲ゼロの人形に逆に惹かれるのかもしれません。
俳優さんと違って、人形は空っぽなのです。
想像絶する修行を積んだ芸能者たち(太夫や三味線)が一生懸命、物語を紡ぎつつも、真ん中にいるのは魂のない人形、という構図になにやら不思議な色気を感じます。
外側の大人たちの熱量・技術は凄まじいけど、真ん中だけが空白。
これは世界的に見ても、とても珍しい芸能じゃないでしょうか。

おそらく、死ぬまでずっと観続けていくだろうな、という気がしています。
大阪の国立文楽劇場にも行きたいところです。


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