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『許された子どもたち』

監督:内藤瑛亮/2020年

主人公の少年が、同級生の喉をボーガンで撃って死なせてしまうという、
ショッキングなシーンから幕をあける本作。

少年犯罪というテーマを映画に落とし込む事の限界を見た気がします。

一応、懲りもせず書き綴ってみましたが、結構ひどい文章になったと思いますので、適当に流してください。

なお、本作はコマフォト6月号で特集が組まれています。
そちらもご参照ください。

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主人公・市川絆星が見せる二面性や、
我が子の罪から目を背けようとする母親の姿。
そして彼らに対し、私刑に走るネット社会など、よく練られている。
(エンドロールでの参考文献一覧を見れば、
監督の研究は並み大抵の努力ではない事がよく分かります)

他方、絆星の転校先の学級委員2人組と、
時節登場するニコ生主・キャロルが、何だか浮いてしまっている。
彼らは、先に述べた「ネット社会」を象徴するキャラクター。


彼らだけが何故か、極端に様式化された登場人物となっている。
ドキュメンタリー的な方式で撮られたと思しきディベートシーンからの流れで登場する事も相まって、悪く言えば、「安っぽい芝居」を見せられているような気分になってくる。
違和感の塊。
しかし、この違和感こそ、製作者の狙いなのかもしれない。

つまり、目には目を、歯には歯をの現代社会。
「同じ目にあわせてやれ」という発想から抜け出ず、
いじめる方が悪い。否、いじめられる側にも問題があると、二者択一の堂々巡りな議論をしている限り、
第2、第3の市川絆星を生むという、訴えかけ。
少年犯罪をテーマにしながら、映画がフォーカスするのは、この社会そのもの。
ボーガン事件は、あくまでそれをあぶり出すための「きっかけ」として配置されている。

だから、この映画に於いては(その是非はともかく)、
殺された少年やその家族たちは、物語の文脈からどんどん置いてけぼりにされるし、彼らは一切救われることがない。
主人公にも、贖罪のチャンスは殆ど与えられない。

上映後、ピカデリーのエスカレーターを下っていると、
後ろから「救いのない話だったね」と、観客の声が聞こえた。
それはそうだろう。
映画がこのテーマに救いを提示することなど、端から不可能だった。
むしろ、矮小化した答えを示すべきではないのだ。
なぜなら、「事」は現実に起こり続けているから。

映画の器に乗り切らなかった要素を拾い集めるのは観客だよ、と。
それを訴えようとして、登場人物たちは観客に向かって、何度もボーガンを向けてくる。
好き勝手なこと言いたいだけ言って目ぇ逸らしてんじゃねぇよ、と。

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