父の横顔と高速道路のきらめき

「会話」といわれて今自分がまっさきに思い出したのは父との会話である。

私と父は世間の父娘と比べたらあまり話をしない方だと思う。私は根っからのお母さん子で、何かと気軽に話せるのはいつもお母さんの方。でも決して父は無口なわけではない。博識でなにかと色んなことを知っている。そんな知識を足掛かりにして会話を仕掛けてくる父のやり方を、若かった私はあまり理解できていなかった。だから、そういう知識を「知ってるか?」と話しかけてくる父を「そんなに知識をひけらかしたいのか」と鬱陶しく思ってしまっていた。色んな知識を使ってコミュニケーションを図ろうとする父からのキャッチボールは何度となく私の「ふーん」の一言であっけなく終わってしまっていた。さすがに父も堪えたのか、そんな風に話しかけてくることはめったになくなった。

大学生になって私は1人暮らしを始めた。親元を離れ、地元を離れ、今まで出会ったことのなかった人たちとたくさん出会った。私はある意味、大学に入ってはじめて「人」というものを知ったのかもしれない。人を見つめる、人のことを考える、ということに対して、今までにないほど真剣に取り組んだように思う。当たり前にそばにいてくれたのは私のことが好きだからではなくて単に「近くにいたから」という理由でしかなかったことに気が付いた。それまで自分が築いてきた人間関係の浅さを痛感した。大学で出会った人たちは私を見ようとしてくれた。私がどんな人間であって、その上でそばにいようとしてくれた。だから私も同じように彼らを見つめ返し、そばにいようと思った。そうした自分の人間観とでもいえるようなものに変化があったことで、少しずつ親というものがなんとく「親」ではなく「人」として見えるようになってきた。当たり前のことだけれど父もまた人なんだと思えたときに、不思議と父のことに興味が湧いた。父はどんな風に生きてきたのだろうか。今まで父は自分の話は全くと言っていいほどしてくれなかった。もしかしたらしないようにしていたのかもしれない。

子どもは親を選べないのと同じように、親だって子どもを選べない。実家暮らしの18年間、そんな簡単なことにも気付けなかった。親だって人なのだから、得意なことがあれば苦手なことだってある。親子だからといって、生まれもって人と人としての相性がよいようになっているわけではない。偶然にも母との相性は良かったけれど、決してそれは当たり前ではない。そんなことを思うと、決して相性がよかったわけではない父が18年もの間、同じ一つ屋根の元で生活してくれたことが奇跡のようにも思われた。そして今なお関係が続いていることがありがたく思われた。

そうした感謝を強く感じるようになった頃、帰省するという私を父が1人で車を運転して迎えにきてくれた。いつもなら助手席はお母さんが座る場所だ。緊張しつつ助手席に乗り込んだ私は一体これからの2時間弱、どんな会話をしようかと頭を悩ませていた。そんな私の緊張を悟ってか、会話の口火を切ったのは父の方であった。仕事はどうだ、楽しいか、順調か。そういう話から始まった。父は、ずっと私が好きだったことからは程遠い仕事に就いたことを少し心配していたのかもしれない。思ってたよりも今の仕事が楽しい、そういう風に伝えると「ふーん、そうか」と呟いた。風景を眺めるふりをしてこっそりその表情を盗み見た私はなんだか照れくさくなった。父に自分の仕事の話をたっぷりした後で、少しずつ、父に聞いてみたかったことをぽつりぽつりと問いかけてみた。父の親はどんな人だったのか、どんな兄弟がいたのか、父はなぜ今の職を選んだのか。

車の助手席というのは、私が想像していた以上にとても居心地がいい場所だった。私は昔から人と向かい合って会話するのが苦手だ。こんな風に前を見つめて会話することが許されている、いやもはやそうするべきだというまでになっている環境では私も饒舌になれた。父と会話が弾むなんて、こんなことは今までなかった。

そしてこの会話をきっかけに、私は父と頻繁に話せるようになった、とまではいかなかった。実家に着くと、今までと同じように私と母がずっと喋っている。でも、今までとは何かが違う。それはあの会話がきっかけだったことは間違いなくて、あの会話があった車から見えた夜の高速道路のきらめきと父の横顔を私は一生忘れることはないだろう。

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