7月7日

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カスミソウの日、なんだそうだ。そんなの全然知らなかった。母の遺影の小さいのを持ち帰って来てから何となく花を飾るようになり、そのために通りがかりの花屋をよく覗くようになり、それで触れた情報によれば、小さな白い花の集まりを天の川に見立て…ということらしい。

今日で1年。墓参りはどうしよう。そこにはいません系の人だとは思うけど。実家は姪っ子にベイビー誕生で沸き立っており、東京モンとしては尋ねるのも憚られる。あちらはフロントラインワーカー揃い、だから「気にしないよ」と言うけれど、万が一ってことがあるらしいから慎重になる。私が何か持ち込むのもマズイが、こっちも単身中高年だからね、患ったらヤバイんだ。

去年の今日は朝の生番組での仕事から始まった。平時ならアーティストと一緒に生出演して、その場でワイワイ通訳して終わる仕事。コロナ禍で来日が絶えてから、何組かリモートで生出演しているのは知っていた。その通訳のお鉢が回って来たわけだ。私も初めてだが番組側もまだ数えるほどしか経験していないこのパターン。指示にも迷いが感じられ、いざ始まったら回線にも迷いが生じて画面も音声もギクシャク。何とかするしかないから何とかしたけれど、良かったんだか悪かったんだか、正直、誰にも正解がわかっていない状況で、なんだかなぁ…と煮え切らない思いで小石を蹴りながらテレビ局から歩いて帰った。途中、大きな神社にお参りしたり、腹ごしらえをしたり。

私がテレビに出る、というか映るのを、母はとても楽しみにしていた。前もってわかれば連絡して、すると親戚や近所の人にまで触れ回っていたらしいことを葬儀の際に聞いた。テレビで私が通訳することなんてノリ一発で大した内容ではないし、雑誌の取材等々の方がよほど大変なんだけど、地上波のテレビに映るっていうのは田舎の年寄りにはスゴイことで、何をやっているかは問題じゃないのだ。某国営放送は通訳の名前も字幕に出るので、母の一番のお気に入りだった。最後に観てもらえたのは何だろう。リチャード・カーペンターかな。リチャード・カーペンターが誰かも母は知らないわけだけど「名前が出ていた!」と大喜びだった。考えてみれば母が考えて付けた名前だもんね。そんな感慨もあったのかしら。

そんなことを考えながら帰宅。テレビに映っても、もう観てもらえないんだな…なんて思っていたら入院先から電話。容体急変、とのこと。「急激に体温が下がっている。お急ぎください」と。

緊急連絡先は家も勤務先も病院に近い弟夫婦になっていたのだが、コロナ禍で彼らの職場=学校はテンヤワンヤ。普段だって授業中はケータイ不携帯だ。その数週間前からいくらか様子がおかしかった母の状況を伝える病院からの電話が増えて、何はともあれすぐ応答できる私が窓口に変わっていた。そして弟達には、どう連絡したらいいか聞いておいた。義妹はメール。弟は学校の代表電話。その通りに伝言を済ませ、私も荷造りを。たぶん、母は亡くなる。遺体を実家に連れて帰る。葬儀の準備が始まる。喪服は持参すべきか。いや、でも意外と人は長らえる。危篤を何度も繰り返すこともある。頭に巡るのは父が亡くなった時の記憶だ。母には苦しまずにすんなり逝ってほしかった。もうじゅうぶん苦しんだんだから。

つくばエクスプレスのガラガラの車内で義妹から臨終のメールを受け取った。すーっと心が軽くなった。あ、いま逝ったのかな、と思った。

病院はコロナ禍で一切の面会を遮断していたけれど、臨終にあたっては「人道的な配慮から」会わせてくれると医者から聞いていた。まず弟が到着したが、入り口で消毒だ、検温だ、とやっている最中に母は息を引き取ったそうだ。続いて義妹ろ姪っ子が到着。最後になった私が通されたのは霊安室だった。刑事ドラマでよく見るような暗い部屋ではなく、外に繋がる大きな扉の窓から光が差し込む明るい部屋で、祭壇には花も飾ってある。ここは療養型の病院。かなりの頻度でここは使用されて、わずかな時間を過ごした後にその扉から送り出されて待ち受ける葬儀社の車に乗る、というルーティンが繰り返されているんだろう。担当医と看護師の立ち合いも実にそつが無い。車が視界から消えたら、パッと頭を上げて深呼吸して、また仕事に戻るんだろう。

私は極めて冷静だった、と思う。本当にホッとしたのだ。完全な無意識ではなく、何かの拍子に反応を示すこともあった母は、自分の状況をどれだけ把握していたのか、なぜ誰も会いにこないのかわかってくれていたのか。わかって心労が募っているくらいならむしろ何もわからない方がいい。長らえて良いことがあるとしたら、その間にコロナが収まって見舞いが可能になり、少しでも会えたら…ということだけ。でも、それも当面はかないそうになかったし。

母はとても清潔にしてもらっていた。死後の清めも済ませた後だったけれど、髪の毛がきちんと整えられていたり、唇がツヤツヤしていたり、手にも足にも褥瘡など全く無く、爪もきれいで、肌もしっとりしていて、歯もきちんと磨かれていて。やっつけの仕事じゃないのは見ればわかる。転院前の救急病院では行き届かなかったことを、見舞いの目が無い半年の間、こちらではしっかりやってくれていたんだ。それは救いだった。

父の時は何度か危篤状態になる中で母が近所の人のツテで段取りをつけて、こちらで手配した葬儀屋に迎えに来てもらった。今回の方がよほど準備期間はあったのに、なかなかそこまで動けないままだったので、病院に紹介された葬儀社にお願いすると、あっという間に扉の外に車が横付けされた。弟達はそれぞれ車で来ていたので、私がこの黒塗りの車に同乗。父の時もそうだった。そして先に帰宅した弟達が仏間に布団を敷き、近所の人達にお知らせし…そう、父の時と同じだ。

葬儀社の人間に大村崑(2時間ドラマ「赤い霊柩車」参照)みたいなキャラクターはいないと思う。今回のオジサンも腰は低いがひょうひょうとしている。この段階で彼らには病院から家までの移動しか頼んでいない。だから当然、「葬儀は決まっていますか」という話になる。来た、来た。もう少し彼らの様子を観察した上で決めたい。失礼なことでもあれば却下だ。私は返事をノラリクラリ。向こうも悲しみの遺族にオセオセではこない、が、何度か繰り返し話を振ってくる。

「コロナじゃなかったのは幸いでしたね。お見送りできますね」そう、もしコロナで死んでいたら死に目に会えないどころじゃない、骨になるまで会えないんだ。葬儀屋さんも対策を講じ、中にはコロナ死には対応しないと決めた会社もあるそうだが「うちは受けることにして、防護服も用意したんですよ。火葬まで我々で代行して、遺骨も遺族に手渡しではなく玄関先に置く形でお渡しするんです。まだ一件もやってないですけど」帰宅後に渡された立派なパンフレットには、早くもコロナ葬の流れも記載されていた。

結局、大村崑と同じ一級葬祭ディレクターであるこのオジさんにお任せすることになる。葬儀場のアレコレも、コロナ禍で異例づくめ。近所の小さな会場を弟が考えていたらしいが、移動を極力少なくするために火葬場に併設の市営の葬儀場が望ましいのではないか等々、プロの提案にうなづいた。大小2つある式場も、密を避けるために片方づつの稼働になっているそうだ。少人数とはいえ近親者も参列することを考えたら、車社会の彼の地、それぞれの車で来てもらって一箇所で全て終わった方が無難だ。皆さん、高齢だし。決まったら話は早い。どんどん進む。「香典返しですが、いくつぐらい…」 悲しんでいる場合じゃないのだ。

前年12月2日以来の自宅の畳の横たわった母の周りを、実家猫しらすがウロウロと落ち着かない。喪主は長男である弟。なんたって夫婦で公務員。社会的信頼において姉は右にも左にも出られない。お金の絡む話となれば尚更だ。それに、誰にも知らせないと勝手に決めていた私の軽やかさに対して彼らは、職場には知らせるか、知らせたら面倒なしきたりがああでこうで…と気配りをする大人の社会人なのだ。

去年の今日。晴れていたと思うけど、どうだったかな。織姫と彦星は、あの日のうちに会えたのかな。



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