ベクトル ;R3-6-26, Sat. free

貴重な土曜日、HNG 叔父の電話に辟易するも、昨日のような重圧感なし。

7時に 思いがけないLINEあり。コロナ騒動で疲れのピーク、それを乗り越えようといった内容で、ありがたかった。朝日を浴びての散歩中なのか、

それにひきかえ、情けない私はようやく8時過ぎにトーストにコロッケ、ミルクと洗い物を最小限とする手抜き。

本を一部読み終えて、図書館に趣く。鬱陶しい重圧感を和らげるのは、歩くしかない。だいぶ遅れて10時の館内は予想外の混雑、とりあえず、目にした本を持って、僅かな空き席に座った。

恩田陸の「MAZE」,  2001年。もう20年も昔の本で、4つのセクションも英語、少し違和感あるも、読みだしたらグイグイ引き込まれていく。

その35ページに 「自分の理性が判断した事実と 感情は 全く別方向のベクトルを向いていた」  

そして、女言葉を語る恵弥(めぐみ)の戦略思想が出てくるが、この行動基準は、パワーをもつ方向性を示す、ベクトル そのものではないだろうか。

ここで、昼休み、

「ベクトル」とは、「大きさと向きを持つ量」 と書かれている。 大昔の学校教育では、ふたつの向きが異なる矢印が2本あり、この大きさと向きの2つの量を合わせてベクトルと習った。

抽象的なベクトルは、パワー・エネルギーを秘めた「量」であることを再認識したい。 でも実社会では2本どころか5-6本、あるいはそれ以上の無数のベクトルがある。

最近の叔父の言動からしても、不安混乱のベクトルに駆られての行動であり、叔父にとって幸いなのは、短時間で忘れてくれること。  一方の私は、振り回されそうになり、その都度距離を測りながら対応している。

うまく纏めたいが、数多のベクトルを冷静に客観的に敷衍した方針、それが戦略といふものなのだろうか

さて、コーヒーを淹れる

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