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無駄なものを撮り続ける。
仕事へ行く時もどこかへ出かける時も毎日カメラを持ち歩いています。
その日1日を過ごす中で、撮らないこともありますが、その現象に出会したときにカメラがありませんでした。という失望に駆られたくないから持ち歩いています。
フィルムカメラを持ち歩いていますが、ここ数日撮らないことが続いていたので自分のためにこれを書いています。
息子や家族、あるいは出会った人の写真は、その人が生きた証、また僕自身がその人と関わった証として無駄ではないと信じたい。
その一方で、宇宙がバンしてギャア以来、僕たちの人生は、炊飯器にこびりつく米粒以下の点に過ぎないから宇宙にとってはいてもいなくてもいい無駄なものだ。
むしろ、右足の隣を行進するアリや、地を這うヒカゲノカズラからすれば、居ない方が都合のいい存在だ。
それでもたまたま人として生まれたからには、何らかの爪痕を残して130歳くらいで死にたい。
フィルムカメラをメインにして、写真を撮ってきたけれど、
いまものすごくデジタルのコンパクトカメラが欲しい。
無尽蔵に好きなものに目を逸らさずに撮りたい。
その最たるものが子どもの写真なんだけど、子育てをしていて大事にしていることがひとつある。それは、子どもの興味を見過ごさないことだ。
これは、自分自身にも言える。自分のなかにいる子どもの興味も見過ごさない方が良い。
写真は、好きと嫌いの判断を無数に繰り返した上に成り立っている。シャッターを切らなかったことが、良いなと感じたことへの否定に繋がりそうな感覚を覚えることがたまにある。その否定ともとれる行為を減らすために胸ポケットに入るコンパクトカメラが欲しい。
それが、写真展の会場に落ちていたつけまつげでも、害獣防止ネットに絡まって死んだ鹿の角でもいい。自分が美しいと思ったことを信じ続けることを大切にしたい。
そういうわけで、四六時中写真を撮っていたい話でした。
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