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ソロの安全とは

僕はソロクライマー

これを全部背負うのかと思うと毎回うんざりするけれど、ギア選びの時間は大好きだ。

最初の記事にも書いたとおり、僕は基本ソロクライミングしかやりません。(妻と一緒に登る時アンザイレンすることはあります。というか妻を安全にガイドするためにペアロープ技術も自分で言うのもなんですが、なかなかなものだと思います。山ではよくガイドかと聞かれます。どうでもいいですが笑)ですので、単独登山者の遭難のニュースを聞いたり、登山口に単独登山は避けましょう、とか看板があると自分が責められているような居心地の悪い気持ちになります。そもそも僕など、単独登攀者で、マイナールートが大好きで、あやしい古いプロテクションが大好きというわけですから、言う人に言わせればまさにデストライアングル、あぶないクライマー代表です。

 いっぽう、単独登山は危険ではないと主張する人もいます。僕のTwitterのフォロワーさんたちにもそういう人たちは何人かいますし(類友です♥)普段パーティーで登る人たちも、比較的マジメに登っている人たちは単独登攀を批判したりすることは少ないように感じます。

 最近、山野井さんのドキュメンタリー「人生クライマー」も公開になりました。僕はまだ見ていないのですが、山野井さんが危険な単独登攀をしながら生き延びてこられた所以についてが大きなテーマだと聞いています。山野井さんはかつて著書の中で「妙子と登っているときにケガをしている」と言っておられ、妙子さんにとってはちょっと失礼ともとれる発言ではありますが、単独登攀にはある種の安全性があるという考えをお持ちなことが伺えます。僕もこれには共感を覚えた記憶があります。実際僕も、山やスキーでは軽微なケガしかしたことはありませんが、いずれも妻との山行においてです(妻ごめんなさい笑)

そもそも僕は単独でしかクライミングをしないので、単独がどれほど危険かを考える意味はそれほどありませんし、またパーティーで登るということも経験が非常に薄いので、本来この問題について語る土台はないのです。ただ、単独登攀をしない人が単独は危険だ、と語ることがやや一方的とはいえ可能であるのだとしたら、単独しかやらないクライマーがパーティー登山について分析するのも自由ではないか、という気もしてきたので、今回はソロクライマーから見たパーティー登山の姿を通して、ソロの安全について書いてみたいと思います。

パーティー登山は謎が多い

まず大前提として、ふだんソロしかやらない人間にとって、パーティー登山というのは謎が多いものです。僕も妻とは登りますが、あれはパーティー登山とは全く違います。妻と一緒に登るのであれば、妻の行きたいルートで計画を立て、団体装備は全部僕が決めて僕が背負ってしまえばいいのですが(そうまさにパーフェクトガイドなのです。そう言えば使用する登山用品もガイドとかプロという名を冠するものが多いような・・・また話がずれました)比較的対等な関係の場合や、僕が連れて行ってもらう場合は皆目イメージが湧きません。
 日程に沿ってシミュレーションしてみましょう。まず、ルート決めは最重要事項ですから一切の妥協は受け入れがたいものですからまず一発喧嘩になるでしょう。なんとかルートが決まったとして、共同装備とか本当に忘れ物なく分担できるのでしょうか?たとえ重複が出ても個人個人で責任持って揃えたほうが安心ではないでしょうか。食事もあんまり凝る人は苦手です。各自で準備しましょう。僕は行動食は柿ピーと決めています。美濃戸の林道の運転が怖い?そんなスカした高級車で来る方が悪い。ベンツ(軽トラ)に乗りなさい。取り付きまでとぼとぼ歩く中で話すことがなくなったらどうすればいいでしょう?クライムオンしたら、寒さに震えながらビレーしつつガンバとかナイスとか言わないといけないでしょうか?なんでみんな残置支点にクリップして完登とかはしゃいでるんでしょうか?品性を疑います。夜の酒を持っていく余裕があるならヘキセントリックでも持ちなさい。

 あー、パーティー登山って大変ですね・・・

パーティー登山の事故

スラブに雪が載ったルンゼは簡単でも安全確保技術が難しい

ふざけてしまい申し訳ありません・・・自分がソロクライマーな理由がよくわかりました(笑)安全の話に絞りましょう。
そういえばそもそも、山での事故そのものは単独でもパーティーでも起きるということは誰でも同意するところでしょう。
強烈な思い出があります。僕がバリエーションルートを登り始めて間もない頃、あるルートで僕は異様な光景を目にしました。急斜面の雪面に点々と落ちた血、そして登っていくと歪んだまま立てられて残置されたテント。そこは数日前滑落事故があった場所で、まだ残置物の片付けが済んでおらず、天気も良かったため雪にも隠れず、僕はそのままの形で保存された事故現場に足を踏み入れてしまったのでした。

 それから数年後、僕は妻とともに同じルートを登っていました。僕達は地元の利で軽量な装備で日帰りを狙ってハイペースでアプローチを進めていましたら、大きな泊まり装備で登っている5人ほどのパーティーに追いつきました。少し言葉を交わしましたが、経験豊富そうな年配のメンバーと、経験は浅そうですが真面目で体力のありそうな若手たちで構成されて、バランスよくまとまったパーティーに見えました。

 追い抜かせてもらい、僕達は予定通りルートを踏破して山頂を踏み、一般ルートから下山しました。この日の午後は天気が悪く、山頂も大展望とはいかず核心のルンゼは崩れ落ちるとらえどころのない八ヶ岳的な雪でけっこう難しく感じました。今思えばなにかの予感だったのかもしれません。

 翌日はうって変わって晴れ上がり、今日登ればよかったなあ、と妻と話していた時、ニュースで僕達の追い抜いたパーティーが滑落し、残念ながら死者も出たことを知ったのでした。報道は詳細なものではなく、断片的な情報しか得られませんでしたが状況から考えて数珠つなぎ滑落による事故と思われました。(複数人でロープを結び合い、中間支点を取らずに行動し、誰かが滑落して他のメンバーも巻き込まれてしまう)

 もちろん、パーティー登山で起きた個別の事故を例にあげて、「ほら見なさい、パーティー登山だって危険なのです。単独を批判するのはやめなさい」と主張するものではありません。単独登山者一人ひとりに能力の差があるように、パーティーにも完成度の違いがあり、未熟なパーティーもあります。未熟なパーティーの起こした事故ですべてを語られたら不愉快な方もいっぱいいるでしょう。しかし、普段ソロしかしない僕からすると、パーティーの成熟、という考えには慎重になるべきではないか、と思います。どういうことでしょうか。ここに書いた事故をもとに(あくまでも僕の推測した状況で起きた事故だという前提でですが)検証してみましょう。

責任感が無責任につながるとき

冬のクライミングでずっと命を預けてきた相棒のアイスフック

断っておきますと、僕は正しい第三者として事故を上から断罪するスタンスではありません。僕は超・慎重にクライミングを実践していますが、まだ「その時」が来ていないだけで、100年もこの調子で登っていれば必ずや一回くらいは事故を起こすと思います。リスクがゼロでない以上、突っぱねた言い方をすれば登山界には「事故を起こして愚か者と批判される人」と「事故をまだ起こしていない潜在的愚か者」と「事故を起こすほどの回数山に入れないまま山に登れなくなった引退者」しかいないと言えます。

 先述の事故の起きた場所、僕達はどうやって通過したかというと、妻にセルフビレイをとらせて僕がリードで上り、多雪のため残置支点を発見できませんでしたが40メートルほど登ったところで草付きが出てきたのでそこでアイスフック(草付きや状態の悪い氷に使う鎌型のプロテクション)を打ってピッチを切って登りました。僕は初めてこの場所を通って事故現場を見てしまったあの強烈な体験から、どうしたら残置支点が覆い隠されてしまった状況でこの場所を安全に通過できるか考えていて、草付きでプロテクションをとる、という戦略は自然に導かれたものでした。つまり結果的に言えば本件のパーティーは取りうる安全手段を怠ったということになるのですが、僕はそのことについてパーティー登山の性質を考えれば致し方ないところがあるように思うのです。なぜでしょう。

 上のように分析しておいて矛盾しますが、彼らは間違ったことをしたとまでは言えないのです。というのは、このルートについて市販のルート集には使用ギアにアイスフックなんて入っていませんし、ネットに溢れる記事を見てもそのような装備をするパーティーは皆無と言えます。このルートにおいて一般的な認識では、そんなギアは必携アイテムではないのです。また、おそらく中間支点無しで数珠つなぎで登ったことに対しても、同様のシチュエーションでそのように行動することは比較的新しい登山ビデオにおいてもプロのガイドも行っている姿が収録されていて、普通レベルの情報アンテナのクライマーがそれを適切な行動だと考えても不思議はないのです。

 もちろん、リスクに対して自己の能力と責任で管理していくことがクライミングの本質であるとすれば、そういったことも何らエクスキューズにはなりません。安全戦略も山との対話の中で自然と導かれるべきものです。とすれば本件においてもなにかの点で山に素直に向き合えない思考停止があったのでしょうか?僕は、逆説的ながらこれはパーティーのメンバーが互いに責任を持っていたことが原因ではないかと考えます。

 僕がアイスフックを最適解と考えたのはおそらく妥当なこととはいえ、僕個人の見解に過ぎません。僕の登山技術のほとんどはネットや本から聞きかじりで得た知識を実地で試す中でなんとなく習得してきたもので、権威ある実力者から直接学んだことは一切ありません。パーティー登山の中で、お互いに対して責任を持たねばならない立場で、あえてネットからかじってきたような自己流の方法を強く主張するでしょうか?この前外国の動画でこの方法はヤバいと言っていたからやめときましょうよ、なんて言えるでしょうか?責任という重い言葉を背負った時、人は自分には責任を負えないだろうと萎縮し、権威に判断を委ねます。たとえ自分の考えが90%正しい確信があったとしても、10%のリスクがあり、少なくとも旧来のやり方でやっていれば責任を果たしたことになるのだとすれば、人は責任を果たすために無責任になるのです。

仕事に例えるほうがわかりやすいかもしれません。あなたは今の部署に配属されてから経験は少ないですが、アンテナは高い方で常に情報を集めており、自分の部署にコンプライアンス上の課題があることを知りました。ボスに懸念を伝えましたが、ボスはこう言います。「今までこのやり方でノークレームでやってきた。そんな君の聞きかじりで余計な手間を増やしたら取引先はどう思う?君は責任をとれるのか?」取るべき態度は決まっています。言葉を引っ込め、もともとボスに言われた方法しか知らなかったことにしておくのです。

組織というものはすべからくそうであると思いますが、組織が風通し悪く硬直化しがちなのは、なにも各個人がやる気のない退屈な奴だからではなく、むしろ各メンバーが責任感を持って役割を果たすという望ましい態度そのものと密接な関わりがあります。パーティーの成熟、という言葉も意外とパラドックスな概念も含んでいると思いませんか?

パーティーで生み出した余裕を安全のために使えているか

岩壁でにわか雨に遭う。悪条件のソロは泣きたくなるほど心細い

ここまでで論じたことは、僕としては実感をもって言っていることですが、もちろんパーティー登山にも絶対的なメリットはあります。厳冬の冬山では、ちょっと重度の腹痛を起こしたとか、足首を捻ったとか、驚くほど些細なことも、電波が繋がらず救助を得られなければ行動不能になってそのままジ・エンドという厳しい現実があり、そういうときには細かい実力なんて置いておいても、誰かが一緒に登ってくれるだけで非常に心強いものです。そのようにして、大した実力もない(失礼!)同行者に命を救われたクライマーも数しれないでしょう。

パーティーは互いに様々な形で助け合うことができます。団体装備でトータル荷物重量を減らし、ラッセルを分担し、僕で言えば、煩雑なクライミングギアの操作を代わりにやってくれるため、ソロでは出せない厳しい一手を出すこともできます。

僕も、妻と一緒に登るときはパートナーというもののすごい力を感じることがあります。妻は僕と比べると力のあるクライマーとは全く言えないのですが、妻がビレイしてくれていると思うだけでいつもの恐怖感はなくなりますし、妻がダブルロープのうち一本を持ってくれるだけで足取りも軽いです。そういう意味では、上級者にとってさえも自分より技量の未熟な同行者が単なる足手まといということはなく、ある意味支えられて登っているということが言えると思います。ソロクライマー独特の視点かもしれませんが、ある意味で自分の実力以上の事ができるのです。

パーティー登山をする人は、どんなに自分にとって余裕の山行であっても「ソロでやれると思うか?」と自問してみることは価値があるかもしれません。あくまでもソロしかやらない人間の感覚なのですが、技術的にせよ、体力的にせよ精神的にせよ、ソロでできないことをパーティーでならできるというなら、それはある面においてパーティーというもので作り出したアドバンテージを安全確保のためではなくて背伸びのために使っているのかもしれません。上級者は初心者を監督し、自身の余裕によって初心者の安全を確保します。が、その余裕そのものが実はそのヨチヨチの初心者の運んでくれるギアの重さや、ヘタクソなりにやってくれるビレイによって生み出されているとしたら?このへんが、山野井さんの「妙子と登ってるときにケガをする」という言葉ににじませる「ソロの安全性」とも関係があるような気がします。

終わりに

有名な新田次郎の山岳小説「孤高の人」では、加藤文太郎は驚異的な単独行で名を馳せた後、パーティー登山で命を落とします。小説の演出では、加藤が慣れないパーティー登山に戸惑いながら、勇む同行者を御しきれず遭難してしまう、つまり単独行を続けていれば死ぬことは無かったのではないかと思わせるラストになっています。

これは史実の加藤の姿とはいささか異なっているようですが、読者にとっては自然に受け入れられるラストでした。孤高の心で山を愛し山に愛された加藤であれば、ものすごい成功はしなかったかもしれないけれど、単独行に徹していれば無事故を更新し続け天寿を全うしたのではないか、そんなふうに思わされてしまいます。それはもしかしたら、僕達も明文化はしていないけれど、パーティーを組むことのメリットは万能ではなく、組織には組織ゆえの危うさがあるということを、社会的な生物ニンゲンとして感じ取っているからかもしれません。

八ヶ岳に冬のクライミングシーズンがやってきました。今年も多くのパーティーがここでアイスクライミングや冬の岩稜登攀の合宿を行い腕を磨くことでしょう。皆様、楽しく安全な合宿を!ソロクライマーからひとこと申し上げます。仲間というのは素晴らしいものです。仲間がいるから踏み出せる一歩があります。しかし、前に進むためだけでなくその協力一致の力を安全のためにも惜しみなく使いましょう。新しい安全確保技術にアンテナを張り、自分を守ってくれるパートナーを自分も守れるように、素直な心で学び続けましょう。


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