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暇と退屈の倫理学 読後振り返り

 こんにちは。りょうです。

 「暇と退屈の倫理学」という哲学書を読みました。この本、1年ぐらい前から買ってはいたものの、読み切るのがなかなか大変でしばらく放置していた本でした。(ネットの感想を見る限り、哲学書の中ではだいぶ読みやすい本らしいのですが、、、トホホ) しかしなんとか読み切ったので、この本の振り返りをしようと思います。

 正直かなりボリュームのある本であったため、まだこの本のすべてを理解しきれていません。なので読み落としている箇所もあるかもしれませんが、とりあえず現段階で自分なりの暇と退屈についての考えについてまとめていきたいと思います。

 なお今回はこの本を読んだことが人に対して「この本はこんなことが書かれているよ」と紹介したいわけではありません。この本を読んだことがある人に対して「自分はこんな風に考えたよ、あなたはどう?」といった内容を書いています。なので未読の方がこの記事を読んでも仕方ないかなと思います。






①まず、人は退屈という感情から逃げきることはできない

 まずは退屈という概念について、受け入れなければならないだろう点についてです。なぜ逃げることができないのか、それは①定住生活を始めたから②人間は複数の環世界を移動することができるから③人間は習慣を作り、考えずに済む生活を望んでいるから、の3つの理由で説明されていました。(環世界とは、動物がそれぞれ所有している「固有の時間・空間」のこと。)

 基本は退屈の第2形式を生き、時々第1形式=第3形式を生き、また戻る。。。人として生きるのであれば、これをエンドレスに繰り返す人生だそうです。退屈から何とかして逃れようと躍起になる前に、ここをストレートに受け入れることがまず大事かなと思いました。



②「消費」ではなく「浪費」をするためにも、自分なりの発見や気づきを見つけながらコンテンツを楽しみたい!

 本書の中では浪費と消費の違いについて、「モノ」を受け取るか「意味・観念」を受け取るかという違いで説明されていました。でもこれ、その人がそのコンテンツをどう受け取るかによってそのコンテンツは「消費」にも「浪費」にもどちらにもなりうるなと感じました。

 例えば食べ物を食べるという行為。これは物理的なモノを受け取っているのでぱっと見「浪費」に見えます。でも、単なる栄養として接種することしか考えていないのであれば、それは浪費とは言えないかもしれないなと感じました。本書の結論でも取り上げられていましたが、浪費する=モノを受け取るためには、そのモノを楽しむことが必要である、と述べられています。

 また「意味・観念を受け取る」ことを消費だと書かれていますが、個人的な解釈として、製作者が用意したコンテンツの意味・観念を"そのまま受け取る"ことを言っているのだと思います。だとすれば、たとえコンテンツから意味・観念を受け取ったとしても、そこから自分なりの発見や気づきを見つけて楽しむことができれば、それは消費ではなくなるのか?とも思いました。


③動物になる=1つの環世界に没頭するためなら、第3形式の退屈を経て「決断の奴隷」になってもいいのでは?

 著書では結論のひとつに、動物になる=1つの環世界に没頭することを推奨しています。今の言葉でいうなら、「オタクになる」ことですかね。そこは概ね僕も賛成です。しかしその1つの環世界に飛び込むきっかけのためなら、時には第3形式を経て「決断の奴隷」に自ら飛び込んでもいいのでは?とも感じました。

 著書内でも触れられていますが、決断するためには、目をつぶり、耳をふさぎ、自分がやりたいと思ったものに対して奴隷になることが必要です。しかし、その自分がやりたいと思っているものに対して「好きだから・興味があるから」という気持ちがほんの1%でもあったら、自ら奴隷になってもいいのではと感じました。

 もちろん決断の奴隷にならなくても、周囲のコンテンツに対して思考を繰り返すことで1つの環世界に没頭するきっかけができるかもしれない。でもそんなきっかけが日常にないのであれば、自ら1つの環世界に飛び込む必要があります。その勇気を引き出すために、決断の奴隷になるのはありではないか?とも思いました。



 今回はここまでです。またこの本は機会があれば読み直し、自分なりの退屈との付き合い方についてまた考えていきたいです。

 読んでいただきありがとうございました。

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