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脱毛メランコリ

脱毛に通っている。
昔から、体毛が濃いのがコンプレックスで、小学生の頃にはこっそり母親のカミソリで腕や足のムダ毛を剃っていた。体操座りは嫌いだった。目線の位置に脛があるから。体操服の短パンでも目立たないように、ハイソックスばかり履いていた記憶がある。あれは、夏は暑い。

大学生の頃、肌荒れが酷くなり、あまりの醜さにコミュニケーションが困難になった。バイトもやめたし、夜は眠れなくなった。薬を塗ったり、化粧品を変えたり、なにをしても効果が感じられず、そのうち足の短さや輪郭、癖毛、無駄毛に至るまで細かなコンプレックスを掬い上げては病んでいった。空回る思考と試行錯誤ののち、足は長くならないし、シェイプアップは根気がいる、というわけで、脱毛に通うと決心したのだった。

あれからコロナ間のお休みを経て、近頃また通いだしたわけだけど、あの頃は23、今26。時の流れは速すぎる。毛に対する意識も、コンプレックスに対する気持ちの熱量も変わった。20代前半のスタッフさんは、丸裸の私に言った。
「26ぐらいならやっぱり、守りのケアに移らなきゃですよね!」
生まれてこの方、攻めた記憶がない。初手から守りなのか。何もかも遅すぎたのか。

最近、昔よりは洋服や化粧品にお金をかけるようになったと思う。タンスの中も、植木鉢の中身か?ってぐらい茶色やグレーのくすんだ色味ばかりだったのが、少しずつ華やいできた。これは、攻めですか?受けですか?

今でも、コンプレックスしかなかった時代の恐怖に胸が覆われる時がある。自分の顔が化け物にしか見えなくて泣いていた一人暮らしのバスルームにいる。だけど、幸い(ある親戚の金銭的援助があり)ニキビは改善し、脱毛の費用も払済みで(こちらは実費)、現在実家でぬくぬくと暮らしている。思い出してわざわざストレスを拵えることもないのだが、あの時の私が可哀想で、忘れてやることはまだ、できない。

たとえば、ニキビ跡がすべてなくなり、身体中の無駄毛がなくなり、あと少し細くなったとして。それはただ、化粧がしやすくなったり、無駄毛処理の手間がなくなったり、服のサイズに悩まなくてよくなったりするだけの話で、私は私なんだと、そう思えるだろうか。
また顔がボコボコになったり、剃り残しが目立ったり、なにを着ても似合わなくなったりする日が来ることを、怯えながら過ごすのだろうか。

べつに、いつもこんなことを考えてるわけではない。むしろ最近はそんなこと気にしてる日の方が少ない。腕の毛は生やしながら暮らしている。

ただふとした時に、思い悩んで無駄にした日々のことを思い出して沈んでゆく。あの日々の痛みが、なにかに昇華されるまで、捨てられない。

脱毛に通っている。確かに、あの時の私とは、違う私になっている…はずである。

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