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ヴィーガニズムが愛である限り誰にも論破はできない


アニマルライツの視点からのベジタリアン/ヴィーガンって、愛なのである。

反ベジタリアンの人達の論破を色々読んでみたんだけど
それに返せることは何もなかった。

野菜は動物より劣っているから食べてもいいなんてエゴだ
野菜は痛みを感じないというけれど、人間に聞こえない超音波を出したり、成分を出すことで動物とは違う方法で痛みを感じていることが科学的に証明されています
家畜がメタンガスやゴミ、大量の水を消費するというけれど、農園が増えれば同じだけの負荷がかかるという説もある
農家も沢山の生物を殺し、田畑を広げていき、昆虫を農薬で殺している
農薬や遺伝子組み換えの作物のことなどを考えたら、一概に菜食がいいとは言えない、などなど

そして私は思った。
そんなことは神様しか知る余地がないよ。

この世界はマトリックスみたいなバーチャル世界である可能性が高いと、イーロン・マスクを含めた沢山の科学者達が斉唱し始めていて、私もその説を信じている。
つまり私達の神様は、あつ森を作った誰かで、私達が生きているここは、あつ森の中の世界でしかないということ。

私達が映画やドラマやゲームを作る時、ただ同じ幸せな毎日が流れていて、何も起こらない、なんてシナリオはつくらない。
つまらないから。
だからもしかして、私達が生きているこの世界が混沌としているのも、誰かのエンターテインメントや、もしくは実験の為なのかも知れない。

人間自体が、サーカスやイルカショーなんかの為にいくつでも命を浪費できるように、私達が神だと思っている何かや、人間よりずっと高次元な世界に住んでいるエイリアンからしたら私達はみんな猿回しの猿以下でしかないのかも知れない。

でもだったらこの世界で何が起きてもフィクションなんだから、どうでもよくない?って思うけど、問題はここから逃げようがないってこと。
人生はとても辛く、悲しく、容易いことじゃないって、きっと誰もが一度は感じたことがあると思うんだけど
人生って、終わるまで終わらなくて、寝ても、覚めても、自分という人間の体から抜け出すことも出来なければ、ある日空がぱかりと空いて違う世界に行けるわけでもない。

痛み、は現実としてここにあって、それを感じることはやめられない。
例えこの世界が嘘でも本当でも。

私達はみんな超天才科学者じゃないから、そういう人たちがいうことを聞いているしかない。
それは違うんじゃないか、と思ってもそれを証明するだけのIQもお金もない。
よく、アメリカ ミネソタ州 何々大学の研究によると、なんて聞くけど、例えその大学が架空の名前だったとしてもきっとほとんどの人が気が付きもしない。
その英文のソースがどれほど有力であって、正しく翻訳されているかすら、わかりはしない。

詰まるところ、菜食が主流な世界になったとして、本当に人類はやっていけるのかなんて、知らない。
経済的に、環境学的に、生物学的に、科学的に、医学的に、本当にそれでいいのかなんて、誰も知らない。

そして、どちらにしろ、私達は何も犠牲にせず、完璧な世界を作ることなんて出来ないって、みんな知っているのだ。
ひとつを救えば、その裏でまた別の何かが犠牲になる。
それを憂いて、ほらね、だから意味ないんだよ、と言いたくなる。
何をしていいかわからないもん、何が正しいのかわからない。
だから今のままでいい。今までもそうやってきたんだから。
頭の中でありとあらゆる理論を展開して、両手を広げて、諦めて、忘れて、食べて、寝て、そうやってまた普通の生活に戻ればいい。

そうやって肉を食べ続ける人と、そうじゃない人の間にあるものは
結局愛なんじゃないかと思う。

私達は痛みを知っていて、それを動物と重ねている。
それを、どんな生き物でも感じるべきではないと思っている。
檻に閉じ込められた動物が、食べることも眠ることもままならないまま、病気と傷に止まない痛みを感じながら、悲しみと恐怖と絶望を感じながら、死ぬまでその中にいなくてはならないとしたら、そして麻酔も何もない猛烈な痛みの中、なぶり殺されることでやっと開放され、それが自分達の食卓に並び、ただ味わわれるだけの肉になるのだとしたら、それを許すことができないでいる。

ほとんどの人が普通に肉を食べて育ってきたのだろうし
肉の味を美味しいと感じてきたと思う。
友達や恋人との食事の場を幸せに感じたこともあるし
寒い日の温かいスープやクリスマスのご馳走を楽しんだと思う。

だから肉を食べない、というのは自己犠牲になる。
ベジタリアン/ヴィーガンになるということは
食費が余計にかかるかも知れないし
料理の手間が増えるかも知れないし
新しいレシピを覚えなくちゃいけないかも知れないし
友人をなくすかも知れないし
会食の場にいかなくなり、生活を一変させるかも知れない。
それは少なくとも、何かしらの自己犠牲を生む。

そしてそれを沢山の苦しむ命の開放の為に喜んでやってのけてるというのは
愛なのだと思う。

論破しようとして、繰り広げられる言い争いを読んだり、考えたりして、へとへとになった果てに、私はこれは愛の問題だと思った。

誰だって、愛する者が虐げられ、殺されている時に
でもまあこの世界って生死を繰り返して出来ているわけであって理論上毎日誰かは死ななきゃいけないわけだしみんながみんな幸せになれるわけでもないし、なんてことは言わない。
それがあなたの愛する犬であったり、娘であったり、旦那であったり、母親である時には、きっとあなたの心はぐしゃぐしゃと音を立てて壊れてしまう。

今、それらの命に対して抱いている愛を、想像を持って広げた時に、見える世界を私は今見ているんだと思う。





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