遠野物語から読み解く日本人とは何か。
終戦記念日
昨日終戦記念日であったわけだが、平素、原爆の日や終戦記念日はニュースも見たりするので意識はしているが、
自分の心の中で平和への誓いみたいなものを完結することが多かった。
でも、今晩ウォーキングしているときにカルチャーラジオ文学の世界で”遠野物語”を読み解くというお話を聞いていて、合点がいったので書いておこうと思う。
その中で民俗学者の新谷尚紀先生が「日本人とは何か」という話をしていたわけだが、このカルチャーラジオで遠野物語を読み解くシリーズは全13回。
何と今日聴いたのが最終回だったのだ。
全部聞けなかったのは残念だったが。
「我々は公民として病み且つ貧しいのであった」
柳田が「我々は公民として貧しい」というとき、それは、西洋には成熟した市民社会があるが、日本にはないというようなことをいっているのではない。彼は「公民」の可能性を、むしろ前近代日本の社会に求めている。ゆえに、民俗学となるのだ。
と柳田國男は「明治大正史世相篇」の最後に書かれた題名のことについて柄谷行人は『遊動論』の中で述べている。
日本人の道徳の傾向として、勤勉で正直で、倹約をして、自然に(親や、殿様も含め)感謝するという特徴がある。日本人が今後世界の中で渡り歩くとき、もともと持っている公平、公正はもちろん必要だが「公」として自分の権利を知ることがとても重要。それこそが民俗学であるというような話。
自分の権利、権力を求める。
柳田國男のいう「権利」、それは「国民全体が必要な知識を得て自立?自律?すること」であるし、国民全体が知識を得て自分の意見を持つことがこのグローバル社会の中で日本人が生き残っていく方法でもある。と言っている。
そのためにも知識を得ること、学ぶことは戦後の私たちに普遍的に必要だし、未だ足並みが揃っていないよなと近年特に思う。
学びの場とは、学校はもちろん家庭が当たるわけだが、それらを整えるためにも政治はとても重要だし 一人一人が手綱を握って二度と過ちを繰り返さないように考えなければならない。そういう空気感が必要だと感じる。
日本人という民族としてこの権利を主張するために、知見を得る義務がある。
余裕のない中でも、意識してしっかり情報を得ながら自分の足で立っていたいとも、立っていよう!とも思う。
と、少し難しい話で感覚的に納得したけど、きちんと説明できているのかもはや不安。。。。
とはいえ、何より、平和な世界を求めて一人一人ができることを。
どこに於いても皆さまお元気でお過ごしください。
このような記事や、ものづくりをもっと充実させるために邁進してまいります。