2022.03.11

『崩れないで』

柱にしがみついて祈ってました。

ゆっくりと揺れだして、本揺れに。
閉じ込められないようにドアを開けて、扉の枠の柱にしがみついて「頼むから崩れないで」と祈りながら揺れがおさまるのを待ってました。
私がいた建物は、仙台にあるとても古い建物で、崩れてもおかしくない、どっちかというと崩壊90%ぐらいの建物でしたので、本当に「崩れたら即死」と思って祈っていました。

そして、これがまた揺れが長いんですよ。
揺れの中、編集HDDが倒れ、電気が落ち、「あ⤵︎明日本編のデータが〜」と悲しみながら。

揺れがおさまり、急いで財布を持ち、ダウンを着て、ダッシュで廊下を走り、階段を降り、そしたら老人が一歩一歩階段をゆっくりと降りてるんですね。
火事場のクソ力ってまさしく、その老人の脇に手を入れて持ち上げて3階から降りたのを覚えてます。
ヒョイって持ち上げられましたね。今でもあの力は本当に私が出したのか不思議に思えます。
早く建物から退避しないと、という意識が強くかったんだと思います。

仕事先のTV局に行ったら、もうパニックのバタバタで、私は外部の人間なので「そこに座っていていいよ」と地震報道を見ながら、何もできない不甲斐なさを感じていました。
「カメラ持って取材してきますよ」と言ったら「局の保険がないから君には行かせられない」と。
情けなかったなぁ。

ブラックアウトした仙台の街並み、渋滞のテールランプ、信号が無くても譲り合う車たち。
ホテルに戻っても客室には入れず、ロビーで毛布に包まって、連絡のつかない東京の家族にメールを打っては、なかなか送信されない携帯電話を眺めていた夜を思い出します。

仙台にいた理由は、仙台のTV局の仕事をしていたからで、ネタが「福島県浪江町のドキュメンタリー」だったんです。
浪江町請戸の物語。
その取材先の方々とは今も連絡を取り合ってます。

今年も皆さんに電話しました。
コロナが無ければ浪江町まで行ってたんですけどね。
浪江町の請戸で仕事をする家族、避難先で暮らすことを決めた家族、避難先で暮らすも浪江町に帰りたいと泣く家族。
皆それぞれの11年があります。

私の11年は、ディレクターになって、ドキュメンタリー作って、映画を作るようになって、子どもが産まれて、悲しみも、喜びもあり、平凡な毎日を送り、浪江町の映画をどうするかを悩み続けています。
そして世界では戦争が起きました。

皆さんの11年を今度聞かせてください。

黙祷。

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