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源氏物語と写本 原本は復元不可能

意外と知られていない源氏物語のテキスト問題についてです。


源氏物語の評価の歴史

源氏物語の評価は時代によって変遷してきました。

源氏物語の研究の現状

写本が数種類あり研究はいまだ途上だそうです。

「現存する「源氏物語」の本文は、通常ルーツによって3種類に分類されます。それが、①青表紙本系統、②河内本系統、③別本系統です。青表紙本は、鎌倉中期の歌人・藤原定家によって作成された証本、河内本はそれとほぼ同時期に河内守源光行・親行父子によって作成された証本、別本群はそのいずれにも属さない証本を指します」

「とはいえ、青表紙本を読めばオリジナルに近い物語を楽しめるというわけではないのが、難しいところです。近年の研究では、青表紙本の名称の付け方、分類上の問題が数多く指摘されるようになり、その不動の地位が揺らぎつつあるのです。

本来、文献学の研究において作品の諸本を分類する場合は、本文の形状・性格等を捉えることが優先されるべきだとされています。ところが、「源氏物語」では中世以来の「青表紙本」という概念が重んじられ「定家作成」という起源ができたため、本文の特徴が「青表紙本」的の本文であっても、定家以前の写本は「別本」に分類されてしまうという、おかしな事態が発生するのです。

これにより、本文研究は振り出しに戻った感があります。「源氏物語」の原姿を求める果てなき夢は、まだまだ先の長い旅の途中にあるのです。」

https://president.jp/articles/-/77479?page=1

『源氏物語』でいえば、紫式部自筆の『源氏物語』が「正確な文章」の原典になるわけで、『源氏物語』の文献学は、この目標を目指して、鎌倉~室町末の間の約百二十部(五十四帖揃いの一部もあり、何帖かの欠本のある一部もあり、中には一帖で一部というものもある)の写本群の本文を資料として、努力してきたが、研究の実際は、諸伝本の本文の異同を一覧しうる「校本」が作られた段階で、足踏みをしている形である。

 今日、百二十部ほどの伝本を、(1)青表紙本、(2)河内かわち本、(3)別本と三分しているが、この中で、(2)河内本は、二十一部の本文の混合本文になるので、これを研究の基本文献に据えるわけにはゆかない。また、(3)別本は、玉石混淆で、原典の形を遺している伝本があるかもしれないが、今、それをこれと見分ける術すべはないので、これも研究の基本とはしがたい。それで、今日では、藤原定家という人物の古典についての造詣ぞうけいと書写事業の実績とに、何割かの可能性を托たくして、彼が家の証本として作った青表紙本を研究の基本に採用して、他の諸本を参照しつつ、原典の再建を試みているが、あまりにも道は遠く、目的地に辿たどりつきうるかどうかも今は判然としない。そこで、今日、『源氏物語』の文献学は、定家本青表紙、明融本、大島本などを拠りどころにして、中間的目標として、青表紙本五十四帖の再建を目標としているが、近年、定家本という系統は、青表紙本の一系統だけではなく、これとは別系統の本文があるようだということが明らかになってきたので、問題は一段と複雑になって、目下、次の方法を探っているところだというべきであるらしい。

https://japanknowledge.com/articles/koten/shoutai_21.html

オリジナルの復元は不可能

古典のオリジナルの復元は困難です。

真贋のはざま
古典はなにをもって「オリジナル」と考えるべきか

校訂本の権利はどうなっていますか

実は校定前の写本のままでしか著作権フリーの電子化はできません。

どう考えても、『源氏物語』に、「紫式部」の著作権はない。(※「紫式部」としたのは、本当に、その人が、「いずれの御時にか~~」から全部、オリジナルに書いたとは、やや疑問が残ると思うから)。

だが、現行の『源氏物語』そう簡単に、デジタル化してしまう、ということはできない。校訂した、注釈を加えた人の権利が……どのようにあつかえばいいのか。

さらにややこしいのは、それが商業出版されている場合の、出版社の権利関係。

https://yamamomo.asablo.jp/blog/2009/10/16/4634910

「古典文学の著作者は、『源氏物語』なら紫式部だし、『徒然草』なら兼好法師である。現行の著作権法では死後50年まで著作権が認められることになっている。当然、彼らははるか昔亡くなっているのだから、彼らの著作権は消滅している。

だから、単純に注釈書などから本文をコピーし放題かというと、実はこれには問題がある。その本文を作った校訂者がいるからである。

日本の古典文学は、ほとんどの場合、原作者の書いたものが存在しない。コピーにコピーを重ねた写本や版本という形で伝わるのだ。コピーといっても、手書きで写すわけだから、写し間違いや、意識的な改変が加わり、原典と同じということはまずない。

そこで、活字にする場合、もっとも原典に近いものを探して(必ずしも古いものが近いとは限らない)それと、別の本を比べて、足りないところや不審なところを補い、原典に近いものを再生しようとする。これを校訂という。この作業を行う人によって、本文に差異がでてくる」

「昔は濁点や半濁点、句読点、カギカッコなどは存在しなかった。拗音・促音を小さく書く習慣もなかった。また、仮名で書かれたものの多くは、現在ほどは漢字を混ぜていない。

現在、刊行されているほとんどの注釈書は、その状態では読みにくいため、それらを校訂者が補っているのである。中世以降は文法の誤りも多くなるので、それを正しい歴史的仮名遣いに直してある場合もある。」

「古典の本文は同じ作品でも、10人校訂者がいれば10人違うといってよい。これを独創性とみれば著作権を認めることになるだろう。」

http://blog.livedoor.jp/yatanavi/archives/51059625.html


源氏物語の写本について

写本の現状です。

『源氏物語』諸本の解読とテクスト論https://www.jstage.jst.go.jp/article/nihonbungaku/60/6/60_1/_pdf/-char/ja

新たな写本の発見

今なお新たな写本と文章が発見されています。

大沢本の再発見

源氏物語千年紀の今年、姿を現した「大沢本」は、源氏物語研究に新たな道筋を開く可能性に満ちている。何より国文学者たちが注目するのは、これまでの研究では非主流だった「別本」と呼ばれる写本が54帖中、28帖もあることだ。

http://news.goo.ne.jp/article/sankei/nation/m20080722004.html

「藤原定家が編さんした青表紙本の本文と大きく違う部分が見つかったのは、主人公光源氏の死後の物語「宇治十帖」の中の「蜻蛉巻」。薫と匂宮という2人の男性との三角関係に悩んでいたヒロインの浮舟が宇治で行方不明になってしまった後のくだりだ。」
「大沢本はこのほか、前半の「花宴巻」の巻末にも源氏の心境をつづった部分があるなど、標準本と違う部分が数多く見つかっている」

https://www.shikoku-np.co.jp/national/culture_entertainment/20091030000208

源氏物語の写本に異なる内容/標準本との違い約2千字もhttps://www.shikoku-np.co.jp/national/culture_entertainment/20091030000208

別本の32帖 梅枝 発見

源氏物語の代表的な写本の藤原定家編纂「青表紙本」とは異なる独自の文があり、「光源氏」と「紫の上」の会話の中などにこれまでにない描写が多数

https://blog.goo.ne.jp/thetaoh/e/83ac2280a33038475f0fd4052de8d8e9

藤原定家の若紫 発見

「大島本源氏物語」の再検討 : 新発見の定家監督書写本「若紫」https://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/download.php/AN00106199-20200000-0033.pdf?file_id=156268

作者について

作者について異説があります。

光源氏のモデルと言われる源高明自身が作者という説がある。

推理作家の藤本泉は1962年(昭和37年)の小説[45]をはじめとして『源氏物語』多数作者説をとっていた。その中の著作[46]で、桐壺など「原 源氏物語」を源高明とその一族が書いたと仮定していたが、続く著作[47]において源高明説が弱いことを認めており、同著でほかの複数作者の推定を行っている。作者は紫式部ではないとする説の根拠の一部は以下の通り。藤原道長をはじめとする当時の何人もの人物がもてはやしたとされる作品であるにもかかわらず、当事者の記録とされている『紫式部日記』(原題『紫日記』)(藤本泉はこの『紫日記』も紫式部の作ではないとしている)を除くと、当時、数多く存在した公的な記録や日記などの私的な記録に一切記述がない。
現実とは逆に、常に藤原氏が敗れ、源氏が政争や恋愛に最終的に勝利する話になっており、藤原氏の一員である紫式部が書いたとするのは不自然である。
詳細は「#藤原氏と源氏」を参照
作中で描かれている妊娠出産に関する話の中には、女性(特に、子どもを産んだ経験のある女性)が書いたとするにはあり得ない矛盾がいくつも存在する。
女性の手による作品のはずなのに、作中に婦人語と呼べるものがまったくみられない。
源氏物語の中において描かれている時代が紫式部の時代より数十年前の時代と考えられる。
紫式部の呼び名の元になった父親(式部大丞の地位に就いていた)を思わせる「藤式部丞」なる者が、帚木の帖の雨夜の品定めのシーンにおいてもっとも愚かな内容の話をする役割を演じており、紫式部が書いたとするには不自然である。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E

「『源氏物語』の大部分が紫式部の作品であるとしてもその一部には別人の手が加わっているのではないか、とする説は古くから存在する。

古注の一条兼良の『花鳥余情』に引用された『宇治大納言物語』には、『源氏物語』は紫式部の父である藤原為時が大筋を書き、娘の紫式部に細かいところを書かせたとする伝承が記録されている。『河海抄』には藤原行成が書いた『源氏物語』の写本に藤原道長が書き加えたとする伝承が記録されている。一条兼良の『花鳥余情』、一条冬良の『世諺問答』などには宇治十帖が紫式部の作ではなく、その娘である大弐三位の作であるとする伝承が記録されている。これらの伝承に何らかの事実の反映を見る説も多いものの、池田亀鑑はこれらの親子で書き継いだとする説は、『漢書』について前半を班彪が書き、残りを子の班固が書き上げたという故事にちなんだもので、事実とは何の関係もないとの見解を示している[48]

近代に入ってからも、さまざまな形で「源氏物語の一部分は紫式部の作ではない」とする説が唱えられてきた。

与謝野晶子は筆致の違いなどから「若菜」以降の全巻が大弐三位の作であるとした。 和辻哲郎は「大部分の作者である紫式部と誰かの加筆」といった形ではなく、「ひとつの流派を想定するべきではないか」としている[49]

第二次世界大戦後になって、登場人物の官位の矛盾などから、武田宗俊らによる「竹河」の巻別作者説といったものも現れた」

阿部秋生は、『伊勢物語』『竹取物語』『平中物語』『うつほ物語』『落窪物語』『住吉物語』など当時存在した多くの物語の加筆状況を調べたうえで、「そもそも、当時の『物語』はひとりの作者が作り上げたものがそのまま後世に伝えられるというのはむしろ例外であり、ほとんどの場合は別人の手が加わった形のものが伝えられており、何らかの形で別人の手が加わって後世に伝わっていくのが物語のとって当たり前の姿である」として、「源氏物語だけがそうでないとする根拠は存在しない」との見解を示した」

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E

執筆動機『河海抄』の説

藤原氏により左遷された源高明の鎮魂のため、藤原氏一族である紫式部に書かせたという『河海抄』に記されている説

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E

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