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神は死んだか(2018年1月7日)

映画もののけ姫を、導入部分だけ観る(子供らが怖がるので中断)

恨みを持ったことで、祟り神という魔物になってしまった猪が、人間の村を襲う。

主人公のアシタカは、敬意をもった言葉で猪を鎮めようとするが、猪は止まらず、やむなく矢を射って殺し、その代償として、自身の片腕に祟りを貰ってしまう。

シーンは村の長たちの話し合いの場面。

長老は、アシタカに自分の運命を聞く覚悟はあるかと問い、あると答えたアシタカに、その祟りは、やがて身体を蝕み、そなたを殺すだろうと告げる。
「誰にもさだめは変えらなれない」

「ただ、待つか赴くかは変えられる」

猪が祟り神になってしまった原因である、銃の弾を見せ
「西の国で不吉な事が起こっているんだよ。そうでなければ猪が祟り神などになるはずがない」

「その地に赴き、曇りなき眼で見定めるなら、何か変えられるかもしれない」と言う。
そして、アシタカは村を出て、旅に出て、物語は動き出す。

ここで描かれている、村人の人生観や世界観。

人々は、自分たちの力では変えられない、大きな力の中で生かされている感覚を持っている。

同じ流れの中で生きる他の命への敬意が、土台にありながら、その生かしあいのバランスをもって生きていれば、おかしなことは起きないはずだという、世界への信頼感覚を持っている。

それは実感としての強いニュアンスがある。

本当にこのような世界観の中で、生きていた人たちがいたかは、分からないが、他の命と密接にやり取りがあった時代だ。

今の僕らには見えないものが、たくさん見えたではないかと思う。

感知できたのではないかと。

八百万の神という感覚は、今の時代を生きる僕にも、根底に流れている。

当時は、そこら中に「神」を感知する感性が必要だったのかもしれない。

そして、そんな世界では、人間として生きるための思想や哲学を、今よりも明確に持っていたのかもしれない。

2500年前に書かれた仏典や、縄文の遺跡を見ても、同じように思う。

当時の人たちは、知っていたんだなーといつも思う。

長老は、運命を変えようとすることではなく、「曇りなき眼で見る」ことの大切さを伝え、最後に「掟に従い、健やかにあれ」とアシタカを送り出す。

何かを変えようとせず、謙虚に、自分自身の行いや、思考をこそ、曇らせない事が、大事だと。

しかし、物語は、人間が自然を制圧して、「神」を殺してしまいクライマックスを迎える。

神はいなくなったのだろうか。

昼からは、甥っ子が、神社で、無形文化財の踊りを舞うとのことで、みんなで観に行った。
戦国時代から、その土地に受け継がれている舞で、戦に向けて、大衆を鼓舞するために、時の権力者が、作らせたものだという。
太鼓のリズムと、派手な衣装と、舞で、戦いを表現していた。
そこに言語はなく、音やリズムや動きだけで、高揚を作り、心を動かす。

こうして、民意を作り出していったのかもしれない。

目的はどうあれ、当時はまだ、見えないものを感知する力が、大衆の中に強くあったのかもしれないと、その舞を見ながら思った。

神は生きるためのものから、利用するものへ変わっていったのかもしれない。


その夜、テレビをつけると「都庁爆破」というドラマをやっていた。

東京都庁がテロリストに乗っ取っられ爆破されるもの。

派手な爆破シーン大げさな演技。白々しい作為。

ひどいもんだった。

正月のゴールデン枠で、これをやるという事は、もしかしたら、何らかの民意誘導的な側面もあるかもしれない。

或いは、単なるエンターテイメントか。

どちらにしても、ひどく悲しいものがあった。

朝からの文脈で、語るなら、もう神はいなくなりつつあるのかもしれないと思った。

自分の命を支える神を、感知できなくなった時代に、語られるのは、正義だ悪だ右だ左だ。

心を支えるものがないのだ。

秋葉原や相模原の事件を思う。

感性を取り戻す生き方をしなければ。

人間は、火を使うことによって文明を手に入れたが、動物にとって脅威である火を、なぜ人間だけが扱うことができたのか。

それは、勇気か、好奇心か、合理的利用のためか。

僕は動物行動学者のライアルワトソンの説が好きだ。

人間は火に感動したのだ。

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