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差別と区別

ネットやSNSを拝見していてなんか引っかかる記事があったのでこれについて持論を述べたいと思う。

様々なところで活発な議論を読んでいるこの車椅子使用者についてである。

事の発端や以降の燃料投下についてはご存知の方も多いかと思うので割愛。

ここからは私見のお話だが、問題提起や社会扇動を起こし、注目を集めたいという意思は理解できた。ご自身の状況や環境を最大限に活かしたやり方としては素晴らしい方法だったと感じた。だが、世論は思ったように動かなかった。そもそも今回の氏の投稿は「仲間」と仰っている思想共有をされている内輪へのアピールでありまさかこのような形で表舞台まで引き摺り出される事は想定外であったのだと見える。昔流行った?「バカッター」や昨今であれば「迷惑YouTuber」など内輪では面白いやつ・凄いやつなどと思われている方が不本意な形で世に出て集中砲火を喰らう状況は非常に多くなった。

そもそもそんな事しなければいいじゃないかという大前提はさておき、なぜこんな事がおきてしまうのかという所については総じて「想像力の欠如」によるものだと感じる。

これはSNSが普及する前の同じ言葉とは全く違う意味の言葉になった。そもそも一般社会で生活する上でも誹謗中傷や罵詈雑言を集めてしまうリスクというものは当たり前に存在する。故に発言の内容や誰に言うかという事を非常に考えているものだ。だが今回のように一度SNSというネットワークに乗ってしまうと自らの意思とは全く違う方向に情報が流れたり、改変加筆され私見を混ぜられ大きなうねりとなってしまう事が可能性として常に付き纏うようになったのだ。

もちろんそれを自らの求める良い結果の為に使おうとしていたのだろうが、世間的にはマイノリティであり偏見を持たれるアンチの多いい立場であるという認識が非常に甘かったのではないだろうか。結局は大多数の意見に少数は勝つ事はできず、大多数の持つ正論から外れたオプションで居続ける事でしか市民権は得られないのである。

その少数派が武器を持ち鉄槌を振りかざした先が大多数が社会的に「障害者を庇護してあげる」という優しさに対してだった事が非常に良くない展開を生んだ理由だ。

私自身、差別意識もあるし偏見もある。そしてそれを他人から受けたことも感じたこともある。大小あるにせよ人間が生きていく上でどうしても起きてしまう事だとおもっている。

平等を実現するというのは本当に難しい。無理であろう。そもそも平等なんていう言葉は現実には存在しないのである。

個があまたあるかぎりその平等という概念もあまたあり、平等という考え自体が統一されていないのだ。

Twitterなどの匿名性の高いSNSではより顕著にその思想が暴走する。方や実名前提のFacebookでは氏への反論などは見受けられずコメントは味方ばかりである。

これはもう実質的に区別ではないだろうか。

私はそれが悪いなどとは一切思わない。どちらかというと井の中の蛙でありたいと心から願っている人間である。だからこそ今回の件を見ていて非常に悲しい気持ちになったのである。

おそらく障害者の中にも私と同じ気持ちになった方も少なくないと思う。実際障害者の反論も多くネットに上がってきた。それは今回の件で「同じ」と思われたくないからである。それは今回障害者という社会的弱者であるという理由を盾ではなく武器にしてしまったからではないだろうか。

社会的立場や人種、性別。あらゆる区別は差別の対象であってはならないと思う。だが、円滑な社会の進行において理由があってしている区別もあるのではないだろうか。

今回の問題は区別の問題で差別ではないというのが私の考えだ。排気量の違うバイクは同じ通行ルールで運用できないのだ。

だからこそ氏は車椅子の障害者が妨げなく生きやすい社会のためにどうしてもらいたいかという事に声をあげるようにしていただきたい。

それが大多数に対して宣戦布告した結果と責任である。

乱文乱筆にて失礼。

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