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三位一体説や聖霊などキリスト教の難解なワードについての解説してみた。

私は西安で、大秦景教流行中国碑(だいしんけいきょうりゅうこうちゅうごくひ)を実際に見る機会があった。これは、中国の明末に長安の崇聖寺境内で発掘された古碑でキリスト教ネストリウス派(景教)の教義や中国への伝来などが刻まれている。唐代の781年(建中2年)に伊斯が建立し、碑文は景浄が撰した。古代キリスト教関連の古碑として世界的に有名である。現在は西安碑林博物館にて保管されている。

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そもそもネストリウス派とは?という疑問が出たので、キリスト教について調べてみた。

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ネストリウス(381年? - 451年?)

ネストリウス派はネストリウスというコンスタンティノープル(現在のトルコ共和国のイスタンブール)の大司教(複数教会によって構成される教区を管轄する「司教」の中で権威の高い位として用いられる称号)が創設した、昔のキリスト教の教派の一つである。

と言われても、訳がわからないと思うので、更なる解説を加えたい。そのために、キリスト教の教派について振り返っていく。

 早くからキリスト教信仰の中で、イエス=キリストをどのようにとらえるかによって異なった信仰があった。イエスは大工のヤコブとマリアの間に、マリアの処女懐胎(処女なのに懐妊すること)によって生まれたと信じられているが、その本性は、人性であるのか、神性であるのか、あるいはその両性を持った存在なのか、という違いが地域、教会の中に生まれてきた。

キリスト教は、313年にコンスタンティヌス帝(4世紀初頭当時のローマ帝国の皇帝)の出したミラノ勅令によって、ローマ帝国の国教としての地位を公認されてから、その教えの統一が必要とされると、いくつかに分かれて対立していた考えを一本化する必要が出てきた。

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コンスタンティヌス帝

アレクサンドリア教会(現在のエジプト)の長老であった、アリウス(250頃~336)が、神の本性はいかなる分割もありえないものであるから、キリストは神から放射されたもの(被造物)、したがって神に従属するものでなければならない。キリストの本性は、神聖ではあっても、神性をもつものではない、その本性は神の本性とは異質のものである、と主張した。つまり、平たく言うと、イエスは人で神が創った、ということを主張した。

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アリウス

この説をどう扱うかで、当時のキリスト教会は揉めた。ローマ皇帝のコンスタンティヌス帝としてはキリスト教を国教にした以上、その教義を一本化していかなければならず、司教間の対立は皇帝として仲裁しなければならないと考えていた。そのため、ニケーア(現在のトルコ共和国のイズニック)で会議がおこなわれ、アリウス派に反対するアタナシウス派との間で2ヶ月間にわたる議論が展開され、その結果、中間派も含めてアタナシウス派が大勢を占め(300人の司教のうち反対は5人だった)、イエスの神性を認めるアタナシウス派が正統、アリウス派は異端とされ、ローマ領からの追放が決定された。

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ニケーアは地図の北東部

このように、この後キリスト教の教義に関して不明な点が出た場合は公会議を開催し、主流派じゃ無い方は異端とされ、異端は追放される。という流れが誕生する。
ちなみに、正統(スタンダード)とされた、アタナシウス派とは、アレクサンドリアの司教であったアタナシウスが中心となった派閥で、イエスは神の子であり本質において神性を持つと主張した。
アタナシウスの説いたことは、「哲学的、論理的であろうとなかろうと、キリストは本当の神性を持ち、まさに神自身と全く同質である」と、論理的ではないけれども、これはキリスト教の伝統的なキリスト観であり、多くのキリスト教徒たちは、自分たちの救いを神なるキリストに託していたことに基づいている。
つまり、アリウスの主張はイエスを神とする民衆の素朴な信仰と相容れないと主張したのだ。この主張は、イエスは神聖ではあるがあくまで人の子であり、神そのものではない、というアリウス派とするどく対立したが、ニケーア公会議で激しい論争の結果、アタナシウス派は正統と決定された。

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アタナシウス

しかし、コンスタンティヌスの時にアタナシウス派が正統として確立したわけではなく、ついで聖霊をどう考えるかという新しい間題が加わった。
急に聖霊が出てきて訳がわからないかもしれないが、申し訳ない。聖霊は神の力であり、神は聖霊を送り出し、そのエネルギーによってどこにおいても意志を成し遂げるとされている。我々が我々の動作を手や足を使って達成するように、神は意志を自分の聖霊を使って実現させるらしい。
キリストが地上を去った後、罪や死や律法から人類を救い、信者に信仰と心の平和を写えるのは、聖霊という形で信者の心に宿るキリストであると考えられた。しかし、聖霊に神性を認めれば、論埋的には多神教となってしまう。会議後もアリウス派の勢いが盛り返し、一時アタナシウスの説は逆境に経ち、対立が続いた。次のコンスタンティウス2世の時には逆にアタナシウスが追放されている。

アタナシウス派が正式に正統とされるのは、381年のコンスタンティノープル公会議においてである。テオドシウス帝によって催されたその公会議で、聖霊の神性は認められ、神は父と子と聖霊なる三つの位格(ペルソナ)を持つ、すなわち、父なる神と子なるイエスと聖霊とは各々完全に神である、が、三つの神があるのではなく、存在するのは一つの実体(スブスタンティア)、一つの神である、とされた。これが三位一体説であり、教会(その後分離するローマ教会も東方教会も)の現在に至る基本的な正統の教理とされる。また、この二回の公会議で確定した教義なので、「ニケーア=コンスタンティノポリス信条」という。

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三位一体説の考え方(左はラテン語、右は英語)

三位一体説の説明は三位一体でないものを否定することによってなされることが多い。つまりニケーアでのアリウス派の否定はキリストに人性のみでなく、神性があるということの証明になる。
さらに、この議論はそもそも、キリストに人性と神性の2つがも備わっていることを前提としている。このことは、後に再び解釈の違いを産むことになった。

三位一体論が難解であることはキリスト教会においても前提となっている。正教会においては、「三つが一つであり、一つが三つというのは理解を超えていること」とし、三位一体についても「理解する」対象ではなく「信じる」対象としての神秘であると強調される。
つまり、歴史的経緯から正統に選ばれた三位一体は難解で、一見わかりづらいものになっている。

さて、前述の通り、この三位一体説ではキリストは神性と人性の両性があることを前提としており、2つをどのように統合しているのか、両性は対等なのか、どちらかが優勢なのかなどの疑問が出されるようになった。

キリストの本性についての疑問に、ついに大秦景教流行碑のいうところの景教であるネストリウス派の元祖、ネストリウスが登場し、有力な説を提唱した。

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ネストリウス

コンスタンティノープル総大司教のネストリウスは、キリストの両性説はみとめるものの、キリストの位格は1つではなく、神格と人格との2つの位格に分離されると考えた。聖母マリアを通例である「神の母」と呼ばず「キリストの母」と呼び、キリストの人性を明確に示そうとした。イエスを神だとすれば、その母マリアは人なのだから、人が神を産んだことになって神が創造主であると言うことが成り立たなくなると考え、キリストは本来、人性が本性であると主張した。人性と神性は区別されるべきであり、キリストの人性は受肉(三位一体のうち子なる神が、イエスという歴史的人間性を取ったこと)によって神性と融合することによって単一の神性を有することとなった、と主張した。

これに対するアレクサンドリア教会の司教キュリロスは、キリストは人性と神性の両性をそなえていて、唯一の自立存在であると強く反対した。神性と人性の両性が一体となったものなのか、それともそのいずれかの本性に収斂された単性を有するのかという論争が起こった。

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キュロリス

この論争が行われたのが東ローマ帝国皇帝テオドシウス2世が開催した、431年のエフェソス公会議であったが、ネストリウスは出席しなかった。この公会議で、最終的にはネストリウス派は異端とされた。

ついでに、この後の正統の流れも記しておきたい。
逆にキリストの本性は神性にあり、人性は外見に過ぎないという主張が現れた。一般にこの「キリストに神性だけを認める」教説を単性説という。451年にはカルケドン公会議が召集され、単性説について論争された結果、ここでも三位一体説が勝利を占めた。この時、ローマ教会の司教レオ1世の主張が強く影響した。その結果、三位一体説は正統の座を維持すると共に、ローマ教会の権威が高まり、その司教はローマ教皇と言われ、コンスタンティノープルの総主教と首位権を巡って争うこととなる。

つまりここまできたんだけど、こんなどうでも良いこと真面目にめちゃくちゃ議論してたの面白くない?
当時の人間からしたらどうでも良くなかったんだろうね。
そしたら、今私たちが真面目に議論してる環境問題とか年金問題とかも後の時代からすればどうでも良いことなのかもね。

まあここらへんでやめておこう。



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