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勝手に「かわいそうな人」にしないで

5歳のときに父親を実家の火事で亡くした。父の記憶はほとんどない。ほとんどというのは、1つだけ覚えていることがあるからで、自転車の補助輪を外す練習をしたときのこと。

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ある日、父と近くの公園に。目的はもちろん、補助輪を外した自転車に乗るためで、それまでは母が練習に付き合ってくれたのに、なぜかその日は父親と1対1だった。結果的にその日を境に補助輪を外した自転車ライフがスタートしたんだけど、今でも覚えているのは、「お父さんの前でがんばらなかったら、いつがんばるんだ」と強く思った気持ち。もちろん戦いではないんだけど、なんというか「男と男の勝負」みたいなドキドキした気持ちになったことを覚えている。

残念ながら、この時以外の父との記憶は無い。次に覚えている1シーンは、父の葬儀。会場に集まった自分の友だち(といってもみんな5歳)の前でピースをしている自分。父が死んだことも理解できていなかった。でもたった一つでも、すごく強い、印象的な思い出があるから、2歳の息子にも今しっかりと向き合えている気がしている。

あれは小学校高学年くらいだったか。ある日を境に、あまり仲良くない人に対しては「父親がいない」ということを話さないようになったのは。なぜかというと、父親を亡くしたと伝えるだけで「大変だね」とか「かわいそう」と言われることが増えたからで、そう言われる度に「いやいや、俺別に大変じゃないよ。なんで勝手にあんたの中で「かわいそうな人」にするんだよ」「ふざけんなよ」と。

今も健在な母は、本当に息子たち(兄と私)のために一生懸命に働いて、ご飯も作ってくれて、おもちゃも買ってくれて、旅行にも連れて行ってくれた。おじいちゃんおばあちゃんもいつだってやさしかった。親戚のみなさんにも良くしていただいた。いま、当時を振り返っても胸を張って言える。私は、大変じゃなかったし、かわいそうな人間でもなかった。だからこそ、そうやって自分を「かわいそうな人」と思わせる言葉から自分の心を守るために、父親がいないことを打ち明けなくなったのかな、と今になって改めて思う。悪意のない言葉は、時に誰かの心を深くえぐるナイフにもなるのかもしれない。

今、新型コロナウイルスの影響でひとり親家庭が大変だ、というニュースをよく目にします。このような世の中で、楽なご家庭は多くない、それはきっとその通りだと思う。コロナ禍以前から、OECD加盟国の中でもひとり親世帯の相対的な貧困率が群を抜いて高い日本。仕事が無くなり、必死に稼いできた収入がなくなり、貯金も底をつき、補助金もなかなか手元には来ない。でも目の前には育てていかなければいけない子どもがいる。そんな親御さんもいらっしゃるのでしょう。間違いなく大変で、厳しい。でも、彼らは「かわいそうな人」ではないはずだ。少なくとも、私は「かわいそうな人」とは思いたくない。きっと、そんな状況であっても、多くの親子は一生懸命、必死に、本当に必死に、目の前の自分たちにできることに向き合っている。誰よりも前を向いている。私の母親がそうであったように。

前職で母子生活支援施設というところで働いていた。当時からとてもお世話になっていた親子と話をする機会をいただいた。色々と苦しいこともあるはず。学校にも行けない、友達にも会えない、お留守番の時間も長くなってしまう、いつまでこの生活が続くのか。それでも私が彼らと話して感じたのは、前向きなエネルギー、でした。親子の深い結びつき(それを愛というのかな)でした。

胸を張って言える。彼らは、かわいそうな人ではなかった。

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トップ画像について

私たちがプロジェクトを実施しているのは、東アフリカ諸国(ケニア・ウガンダ・ルワンダ)で暮らす機会に恵まれない子ども達です。たとえば、HIVエイズで親御さんを亡くされた子ども達や、スラム街で暮らす子どもたち。彼らの多くは、サッカー用のスパイクを買う経済的な余裕がないため、練習をするときは素足やサンダルです。でも、彼らの多くはその状況に文句言いません。

誰かにとって有益な記事になっているのであれば幸いです。いただいた代金は、私のルーツでもある母子家庭の支援団体への寄付に全額使用させていただきます。