苦しいときに想い出すこと
世界は新しいウイルスの感染に覆われている。仕事が急にリモートワークになり戸惑いを覚える人、子供の学校が休みになって家事が急に増えてペースが乱れて疲れる人、学校や幼稚園・保育園にいけなくなってしまった子供たち、明日のことが不安でましてや1ヶ月、2ヶ月先も不安で仕方がない人、病を抱えもしも感染したらと恐れを覚える人、感染して苦しみの中にある人、家族を失って大きな痛みを覚える人、病める人々の命を救うために自らの命を賭して病と最前線で日夜戦う人、その人を支える人。
多くの人が困惑と苦しみと痛みと恐れの中にある。自分もそのうちの一人である。私も動揺している。まさか自分が生きているうちに、このようなことが起きるとは想像もしていなかった。一体なぜこんな事が起きてしまったのか、その答えのない問いをつい持ってしまう。この先この状況が一体いつまで続くのだろう、と思うと苦しい。だから今この文章を書いている。
自分を支える言葉たちを考えたい。今日はその1つ目である。
ヴィクトール・フランクル『夜と霧』から考える生きる意味
ヴィクトール・フランクルの『夜と霧』はご存じの方も多いと思う。
著者で、ユダヤ人の精神科医であったフランクルは、ナチス・ドイツによってアウシュビッツ強制収容所に収容され、収容者として、また収容者を支える医師として日々を過ごした。その時の経験からの考察を綴ったのが同書である。今のこの時間を生きる我々は、強制収容所の世界に比べれば、食べ物は食べられるし、行動も自由である。しかし、この書からは苦難のときにどう生きるかについて多くのの示唆が得られる。1つご紹介したい。
この中に、夢の中で3月20日に開放されるというお告げを聞いた、という男性のエピソードが出てくる。しかし、その日が近づいても、そのようなことは起きず、そのことにひどく落胆して、病気が急激に悪化して亡くなってしまった、というものである。また、同様に1944年のクリスマスには釈放されるだろう、それまでは頑張ろうと希望を持って生きてきたある収容所の人々は、その時が来ても釈放されなかったことでやはり同様に落胆して多くがバタバタと亡くなっていった。もとより極限状態の人々を支えていたのは、肉体よりも精神であったが、その精神が死んでしまった時、肉体はあっけなく死んでいったということであろう。
しかし、この事は何を意味しているのか。
フランクルは死んでしまった人々について、このように述べる。
「生きる目的を見出せず、生きる内実を失い、生きていてもなにもならないと考え、自分が存在することの意味をなくすとともに、がんばり抜く意味も見失った人は痛ましいかぎりだった。そのような人びとはよりどころを一切失って、あっというまに崩れていった。」ヴィクトール・フランクル(池田香代子訳)『夜と霧 新版』みすず書房
自分の人生に何の意味があるのか、ということについて、私たちはこうした苦難のときにとても思い悩む。そして、そうした中で「きっと○○の頃には良くなっているはずだ。だからそれまでは辛抱して頑張ろう」と思うかもしれない。だが、それは間違っているとフランクルは述べる。なぜならば、そのときには自分の人生を自分の期待に対する道具として扱っていることになるからだ。つまり、人生は私の期待に答えるためのものである、という関係性になっているからである。
フランクルはここで大きな思考の転換を求める。それはこのようなものである。
「ここで必要なのは、生きる意味についての問いを百八十度方向転換することだ。わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ、ということを学び、絶望している人間に伝えねばならない。哲学用語を使えば、コペルニクス的転回が必要なのであり、もういいかげん、生きることの意味を問うことをやめ、わたしたち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ。生きることは日々、そして時々刻々、問いかけてくる。わたしたちはその問いに答えを迫られている。考えこんだり言辞を弄することによってではなく、ひとえに行動によって、適切な態度によって、正しい答えは出される。生きるとはつまり、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請を充たす義務を引き受けることにほかならない。」ヴィクトール・フランクル(池田香代子訳)『夜と霧 新版』みすず書房
これは大変重い言葉である。
つまり、私たちは人生を自分の期待に答える道具として生きることを止め、生きることが私たちに問うていることに答えるべきである、と述べている。
なぜこんな事が私たちに起きるのだろうか、なぜこんな目に遭わなければならないのか、と私たちは日々悩む。
私も、早くこんな事が終わって欲しい、きっともう少し湿度や気温が上がったりしたら良くなってくれるのではないか、ワクチンはきっとあっという間に開発されるはずだ、と勝手な期待をしている自分がいる。そうしたニュースをどこかで見つけたいと探していたりもする。そして落胆する。これは、自分はこの状況に問われていることに向き合わず、自分が人生の方に勝手な期待をしている結果であろう。
こうした勝手な期待から私たち人間は完全には逃れることはできないかもしれない。
だが、自分がこの中で何ができるか、どう向き合っていこうかと考えることもできるのではないだろうか。その方向に自分をも向けられたらと思う。
人生から問われる問いに応答すること、このことはまさに苦悩の中に身を置くことである。しかし、この苦悩を通じて、私もあなたも何かを発見するだろうし、その発見は他者には代替不可能な、かけがえのないものではないだろうか。
いつか私たちはこの日々から必ず開放される。
その開放の時まで、苦悩を通じて、人生が私たちにもたらすものが何かを見出していきたい。何が見いだされるのかはわからない。だが、きっと何かが見いだされるはずだということは忘れずにいたい。
そして、いつか私たちが開放される日を信じ、日々を精一杯生きていきたいと思うのだ。
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