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心が疼くならば、そこには心があるということ

今年もアドベントにチャールズ・ディケンズ原作の映画「Disneyクリスマスキャロル」を観た。毎年同じ作品を観ることで、自分の変化に目を向けることにしているからだ。

このパンデミックが始まった昨年は、なんだかよくわからないうちに終わっていった。
今年も緊急事態宣言に始まり、とにかく苦しい時間が続いた。年明けもひたすらに執筆をし、本を出すことができたのは良かったけれど、疲れもあった。感染が拡大する中で、どんどんと心が凍っていくような感覚を覚える時間だった。あらゆるものに痛みを覚え、希望を持つことを断念させられた。
とても苦しい一年だった。

しかし、私は思うのだ。私は何がそんなに苦しかったのだろうか、と。
それは、私の言葉、私の行い、それらの意味をともに探索してくれる他者を見失ってしまったからかもしれない。
だが、それがわかったからとて、何の救いがあるというのだ。

講義はオンライン化され、オンデマンド方式になった。毎週、自室で画面に向かって必死に語りかける。それでも学生からの応答を得ようとsli.doのシステムを使ったり、色々と工夫をした。画面の向こうの学生はどんな顔をしているのかわからないけれど、同じ思いもあったと信じたい。
しばしば依頼を受ける外部の講演もオンラインになった。自室でウェビナー画面に語りかける。ウェビナーになると登壇者以外の画面は消える。画面に語りかける、笑いかける。だれも応じない。応じるのは0.1秒ほど遅れて表示される自分の笑顔だ。あるいはスタジオに行って収録して帰る。他の登壇者との接点はない。聞いてくれている人がどんな顔をしているのかわからない。アンケートの数値では好評だったと言われる。それは悪くないことだ。だが、実感は持てない。結局、どうだったのだろうと、自然とネガティブな方に目が行ってしまう。

ずっと独りだった。仕事をする。論文を書く。研究のインタビューをする。ケーススタディを書く。本の構想を練る。講義をする。ゼミをする。アドバイザーの仕事をする。ZOOMで打ち合わせをする。打ち合わせが終わると緊張からどっと疲れる。自分は期待通りの仕事ができたのだろうか。終わったあと、学生たちは、クライアントたちは、どんな顔をしているのだろう。
疲れからうっかり昼寝をする。目覚めて今日はだるいな、とつぶやく。Twitterでつぶやいてみても、それに「いいね」がついても、つかなくても。独り。

やらねばならないと思うテーマはある。書かなければと思う本がある。構想を考える。まとまらなくて苦しい。私は一体誰のために、何のために頑張ろうとしているのだろう。よくわからなくなる。待ってくれている人がいますからと、教えてくれる人もいる。ありがたいと思う。けれど、やはり実感は持てない。私は一体何をしているのだろうとわからなくなる。

クリスマスキャロルを観ていて、独りで働く冷徹なスクルージの姿を見る。不思議と今年は物語全体よりも、断片に目が行く。
そうだ。彼は私なのだ。
心が凍り切った悲しい男の姿。
だが、3人の精霊との出会いを通じて彼は復活していく。その過程に思わず眼を見張る。以前の私は、こんな風に感じて観ていただろうかと思う。
彼には過去、彼を愛してくれた人がいた。しかし、苦難に満ちた彼の人生への恐れから、後にその愛を失ってしまった。
その愛は消えたかもしれない。だが、彼は人に愛されたことを精霊によって呼び起こされる。彼も過去に愛したことを思い出す。心が疼く。目を逸らす。だが、心が疼くならば、そこに心があるということだ。目を逸らすのは、そこに愛があったからだ。そこに、彼を受け止める存在があったからだ。後悔するのは、それが大切なものだと知っているからだ。
そこに心に開いた大きな穴があると知る時、それはそのまま残されるか、それとも埋められていくかの岐路に立つことが出来るのだ。その痛みを知らぬ者には、いつの日かその穴が埋められる喜びを知ることはできない。

私は思う。
もしも、この心が凍りつくような痛み、心が閉ざされるような苦しみ、心に空虚さを感じるような悲しみがなかったならば、私の人生は充足していたのだろうかと。もしも、このような心の棘がなかったならば、私は幸せなのだろうかと。
様々な棘は、いつの日か意味に包まれることを待っている。このパンデミックを通じて凍りついた心も、いつの日か柔らかさを取り戻すことを待っている。
全てのことには時がある。
彼が精霊との出会いを通じて、そして、人々への働きかけを通じて復活したように、私もまた様々な苦しみを通じて苦悩し、苦悩を通じて意味を探求し、それにも関わらず生きることを通じて、生きる意味を知る存在でありたい。


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