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人生初のおせち料理づくり

おせちというものに、昔から興味がなかった。
やたら酸っぱかったり、甘ったるかったり、調味料を多めに使って濃い味付けにされているのが嫌だった。

主婦がお正月の三が日は台所に立たなくて良いように、保存のきく料理ということでおせち料理というものが発達したのだと、母に聞いた。しかし、母も祖母も年末年始はずっと立ちっぱなしで忙しなく動き回っている。おせちづくりのみならず、大掃除に餅つき、門松や生け花など正月用の飾り付けがある。赤飯も炊くしうどんも茹でる。来客はひっきりなしにあるし、自治会の集まりに駆り出されるし、灯油ストーブの上にヤカンを置いて延々とお湯をわかしておかないといけないし、全くもってその意味を成していないではないか。子ども心に、そんな矛盾に氣づき、白けた目で見ていた。

親元を離れ一人暮らしするようになり、ますますおせちと縁遠くなった。おせちなんか無くたって生きていける。あんな不味いものは絶滅してくれて構わない。焼肉やしゃぶしゃぶ、タラバガニを食べている方がよほど美味しくて楽しい。社会人である以上、正月休みがあけたらまた、過酷な仕事生活に戻るのだ。そんな伝統行事などにかまけてられるか。悠長なものに時間をとられてたまるか。

それが、子どもが生まれてから氣持ちががらりと変わった。おせちが存在しない正月に、何とも言えない侘しさ、虚しさを感じるようになった。数の子は子沢山の象徴だよとか、栗きんとんは金運がアップするんだよとか、食べながら教える楽しい時間がないなんて、とても寂しいと思った。帰省すれば母が作ってくれるとはいえ、母も昔ほど力を入れて作らない。スーパーで買って来たものを並べるのがいいところだ。

おせちは日本が誇る文化である。決してお仕着せではない。義理もない。ただただ、そこにある先人たちの叡智の結晶を、美しい芸術を愛でれば良いではないか。心から楽しめば良いではないか。このまま絶滅させてはいけない。日本人の心を絶やしてはいけない。

一念発起して、おせちづくりを決心した。全部の品目をつくろうとせず、出来る限り自分でつくることに決めた。

形から入るのが好きな私はまず、重箱を購入した。出来れば、毎年これでおせちをつくるんだぞというやる氣が漲ってくるようなものがいい。

伝統的な黒い重箱もいいし、磨き上げられた赤色の重箱も美しい。なかには曲げわっぱ製のオシャレな重箱もあり、悩みに悩んだ。

結果、選んだのがこの白い重箱だ。

私は白が好きである。何色にも染まらないシンプルな白が、逆にどんな料理も引き立ててくれるように思えた。中仕切り付きで、使うのがなかなか楽しそうな重箱である。

そして、おせちは8時間かけてようやく完成した。


一段目。

数の子、田づくり、栗きんとん、大学芋のような何か(謎料理)、いくら、黒豆、にしんの昆布巻き、酢レンコン、紅白なます


二段目。

海老の煮しめ、紅白かまぼこ(豆苗入り)、伊達巻、豚のテリーヌ


三段目。

筑前煮

半分は市販品だし、作ったものの中に失敗作もあるが、今回特に思い入れがあるのは伊達巻だ。伊達巻用の巻き簾(ギザギザした山型をつくれる巻き簾)を買い忘れてしまったのだが、調べて他のもので代用した。

代用したのは割り箸、輪ゴム、クッキングシート

3時間ほど放置した。

それっぼい凸凹が出来た


子が喜んで沢山食べてくれた。私が子どもの頃は、伊達巻なんか嫌いだったのに。感無量だ。


赤飯とうどんも用意した。来年はさらに楽しんで作ってみよう。