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切って切って切りまくれ

noteを1週間休んでいる間、庭の手入れをした。体調不良とはいえ暇な時間をすべて寝倒せるほど若くはない。寝倒せるのは若さの証だ。

かといってPCやスマホを眺めていると目眩がするし、noteを休む意味がなくなってしまう。何かしら、軽く体を動かそう。そう思ったとき、窓から見える庭木の伸び具合に呆然とした。

なぜ、こんなになるまで放置してきたのか。旦那は頻繁に「枝、切らないとね」とか言いながら、しかも枝切り用のノコギリまで買っておきながら、何もしない。平日は仕事があるから仕方ない。けど土日くらい、庭仕事をしてくれたっていいだろう。

旦那はいつもこうだ。トイレットペーパーホルダーが気に入らないとかで、新しいものを買ってきて、それを棚にしまいこんだまま何年も経過、なんてことはザラである。何かをするための道具さえ買えば、気が済んでしまう怠け者だ。

こういうところに本当にうんざりする。何がやりたいんだと常々思う。しかし、腹を立てても何も変わらない。それにも腹が立つから私が動くしかない。

それにしても、やたら長い庭木の枝である。縦横無尽な伸びっぷりに、げんなりした。しかも、一本や二本の話ではない。どんだけ切ればすっきりするだろう?

私は旦那とは違う。道具を買っただけで満足するような女ではない。道具は使ってなんぼだろう。

我が家の物置を確認すると、枝切りバサミや高枝切りバサミもあった。いや、こんな効率悪いもんは二の次だ。必要なのはアレだ。ギュイーーンと一気に切るアレ。チェンソーだ。

すぐさまホームセンターへ向かう。工具売り場を探すと、チェンソーコーナーはあった。少しドキドキする。なんといっても工具の花形である。そして危険極まりない凶器でもある。

チェンソーは色々なタイプがあった。刃渡りが短いものから長いもの、軽量タイプから重量タイプまで、何を選べばいいのかしばらく思案した。我が家の木を思い浮かべる。あの太い枝を、そんなに重たくなくて負担が少なく切るためには…と考えたとき、中型サイズのものがベストだと判断できた。

箱を抱えてレジへ向かう。こんなものを一般庶民が普通に買えるのか。買うときに氏名と住所を訊かれたり、免許証の提示を求められたりしないのか。銃刀法違反的な、何かよく分からない法律に抵触して、お縄になったりしないのか。

ドキドキしながらレジにつくと、何も問われず普通に買えた。私は拍子抜けして、チェンソーの入った箱を車に積んだ。

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持ち帰って帰宅し、箱から取り出す。おおお、チェンソー。物騒な見た目だな。うんうん、映画の中でジェイソンが持っていたやつ、これだよな。こんなもんを買う日が来るとは。乙女が買うような代物ではない。いいとこの奥様が買うような代物でもない。ということは自分はもう立派に乙女を卒業したということで、いいとこの奥様にも該当しないということだ。それにつけても私のような鈍臭い人間が、果たして使いこなせるのだろうか。

普段は取扱説明書などという煩わしい紙屑は読まないタチだが、今度ばかりは真剣に読んだ。軍手のような手が滑るものは付けてはいけない…防護用のゴーグルが必要…必ずオイルを充填するべし…ふむふむ。知らないことだらけだ。

説明書通りに下準備を一通りこなして、いざ庭へ出陣である。庭には大木とまではいかないものの、高さが建物二階の屋根を越えそうな木がデーンと構えている。生長がはやく、私が我が子を妊娠して出産、育児しているうちにニョキニョキ伸びてしまった。

こいつが伸びたせいで洗濯物や布団を干そうにもベランダが日陰になってしまって使い勝手が悪くなった。さらには昆虫がたくさんやってくるようになった。蝶やとんぼならともかく、飛んでくるのはアシナガバチや蝉である。アシナガバチは蜂スプレーで撃退できるものの、蝉はなかなかに厄介である。近所中の蝉が我が家に大集合したかというほどの大合唱に、うるさすぎて昼夜、寝つけないことはザラにあった。枝という枝に蝉がしがみつき、時にバタバタと洗濯物付近を飛び回り、気づかずに私が往来するとばちばちっと暴れて攻撃を仕掛けてきたりする。しかも、連中はタチの悪いことに死んだフリを得意とし、それにも気づかずつまみ上げようとすると、あの気持ち悪いストローで人間の手を突き刺してきたりする。

蝉が嫌い。大嫌いだ。もうこんな連中と、こんな低レベルな争いをしたくない。つまりは木の枝が減ればいいのだ。

私は梯子を抱え、木のそばに置いた。そこからゆっくりよじのぼり、てっぺんのところにしゃがむと、深呼吸して、チェンソーをスイッチを押した。

ギュイイイイイイン

なかなかに強烈である。音もそうだが、猛烈な木屑を飛び散らせながら枝に切り込みが入り、やがて音もなく枝は落下していった。着地した時にバサーンという音がして、地面の振動がはしごに伝わる。自分では大した枝を切ってないと思っていても、振動からその重量がなかなかのものだと察した。

私は黙々と枝を切った。ギュイーン、ギュイーン。なかなかに爽快である。まるでこの世の汚物を斬り落とす、全能の神になったような気持ちになる。枝の一本一本がディープステートの悪党に思えた。

ファウチ。ギュイーン。ビルゲイツ。ギュイーン。オバマ。ギュイーン。ヒラリー。ギュイーン。

それに日本の竹中平蔵やら天ぷら家、電通など、悪党の枝はどこまでも伸びて空に侵食していく。すべてはこのチェンソーという杖を握る、私という神の手にかかっているのだ。こんな奴らに慈悲は要らん。みんなギュイーンだ。

そんなこんなでかなりの枝を切り落とした。ふと梯子の上から地面を見下ろすと、相当量の枝が散乱していた。しかもこの盛夏の、葉がたっぷり生い茂っている状態の枝が、である。

私はそれを見て急にうんざりした。これらを、さらにハサミで切り落として、袋に収納しなければならない。いくら手打ちにした悪党といえども屍を焼かずに放置できないのと同じで、ちゃんと処分しなければならない。

梯子から降りて木を見上げると、なんとも無様な樹形に豹変していた。いかにもヘタクソな奴が、手の届くところだけ目一杯切りました感が否めない。こんな間抜けな木が他にあるだろうか。しかし、枝が減って、蝉たちが悲しげにどこかへ消えていったのを見て、ザマミロと思った。

この日は予定が他にもあり、中断することにした。

翌朝。庭の散らかりぶりを見て我が子や旦那が「すごいねえ」「汚いねえ」などと楽しげにヤジを飛ばしていた。くそ。お前らのような怠け者は、手は出さないくせに口は出すのだな。旦那に「誰もやらないから私がやってるの」と笑顔で言ってのけると、蚊の鳴くような声で「ありがとう」と言ってきた。

さて、旦那と子どもを送り出し、2日目も作業再開である。庭の隅にある大きな石にしゃがみ込み、私は延々と枝を切った。切っても切っても枝はある。それどころか時々、強烈にベトベトした樹液や、得体の知れない虫に遭遇したりして、声にならない声で叫んだりした。しかも、樹液はまるで接着剤のアロンアルファのようである。大変に強力な粘度があり、一度指につくとなかなか取れない。こんなに気色悪いご馳走を、こんなに沢山絞り出す木だからこそ、我が家は蝉の標的になっていたのか。私は苦々しく思った。

それにしても、普段の私は相変わらず仕事がほぼ無く、こんな地味な庭仕事に精を出している。おのれDS。馬鹿げたコロナ騒ぎなど作り出しやがって。怒りに燃えて、ヤル気が出た。この枝を全部、DS連中の股にぶら下がってるアレだと思うことにしよう。それをハサミでバチンバチンと切る。実に愉快、痛快ではないか。

私はさらに、木の幹に巻きついた蔦植物を不快に感じていたことを思い出した。あまりに日常に溶け込みすぎたが、こいつは木に寄生し、絞め殺さんばかりに幹に食い込んでいる。ちょっとやそっとじゃ巻き取れない。

なんだかこいつも日本に巣食う寄生虫、既得権益に群がるDSのアレに見えてきた。こんなのがいるから日本(我が家の庭)は荒れているのだ。ならば、こうだ。とう!私は鉄棒を扱う体操選手よろしく、蔦に向かって飛びついた。がっちりと蔦につかまった。すると蔦は私の体重で、ズルズルと樹皮から剥がれ落ち、私と共に地面に落下した。大量の蔦を、これまたバチンバチンやった。

無惨にも短くなったアレの山を、すべて袋に突っ込み切った頃、私は咳が鎮まっているのに気づいた。顔のあちこちにあった鈍痛も弱まっている。真夏の強烈な日差しが照りつけるなか、汗だくになりながらギュイーンギュイーン、バチンバチンやると、体調はよくなるらしい。なんとも言えない充実感と達成感、爽快感に、私は身を委ねていた。

散々働いてくれたチェンソーとハサミ、本当にありがとう。チェンソーはまた、箱に戻した。

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この日は遅い時間にお昼を食べた。喘息を理由に、しばらく我慢していた大きなフランクフルトである。バチンバチン切ってよく焼いたそれを見て、ほくそ笑んだ。