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空手の達人、石嶺(伊志嶺)とは誰か

琉球王国末期から廃藩置県後にかけて、石嶺もしくは伊志嶺という空手の達人がいた。読み方は「いしみね」であるが、漢字表記は一定しない。

たとえば、本部朝基『私の唐手術』(1932)に以下のような記述がある。

赤平の石嶺も、強力の持主であった(84頁)。
寒川の石嶺は、身軽で技が敏捷で、且つ傳統的唐手の保持者として知られて居る(87頁)。

上記によると、首里赤平村の石嶺と、首里寒川村の石嶺の二人の石嶺がいたことがわかる。

安里安恒談、松濤(富名腰義珍)筆「沖縄の武技(上)」(琉球新報、大正3年1月17日)には、「赤平の石嶺」のほかに、「儀保の石嶺」の名が見える。儀保村は赤平の西隣である。

以上のことから、石嶺には3人いたことが判明する。

赤平の石嶺
儀保の石嶺
寒川の石嶺

仲宗根源和編『空手道大観』(1938)に、赤平の石嶺と儀保の石嶺が試合をした様子が物語風に書かれている(原文は旧漢字旧仮名遣い)。

首里城下儀保の町に石嶺と云う人があって、空手の修業にはげんで居た。同じ城下の赤平の町に同姓の石嶺という力持ちがあった。赤平石嶺は儀保石嶺より年の頃5、6歳も上だった。ある時、赤平石嶺が儀保石嶺に向かって
「君は武術の稽古をして居るとの噂だが、それがほんとなら、しっかりやらなくては駄目だぞ」云々と高飛車の態度でやや侮辱的に響くような話ぶりだった。はじめは儀保石嶺は年長者の言として、謹聴していたが、あまりしつこく言われたので、遂に黙って居られなくなった。
「では、幸い今日は一つ御教授を願って、今後のはげみにも致したいと存じますが」と、仕合(しあい)を申込んだ。

270頁

いざ立ち会ってみると、赤平の石嶺は絶対に攻撃はしないで、ただ儀保の石嶺の攻撃を受けるだけであったが、何度やっても儀保の石嶺はいつの間にか追い詰められて負けてしまった。赤平の石嶺は儀保の石嶺が自分の実力を過信し、天狗になっていると聞いて、わざと試合を仕向けて、儀保の石嶺の未熟を悟らせたのだという。

すると、この時点では、実力では赤平の石嶺が儀保の石嶺よりも上回っていたことになる。残念ながら赤平の石嶺も儀保の石嶺も誰かは分かっていない。

ところで、「本部朝基は泊手?」の記事で紹介したように、本部朝基は石嶺(石峰)にも師事していたという。ただ残念ながらどの石嶺を指すのかは不明である。

冒頭写真:戦前の首里観音堂、首里市寒川町。出典:那覇市歴史博物館


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