見出し画像

那覇手のクーサンクー

今日、首里手とか那覇手と言う場合、多くの人は型をイメージするであろう。例えば、首里手ならナイハンチ、パッサイ、クーサンクー。那覇手なら、サンチン、セーパイ、スーパーリンペイなど。しかし、こうしたイメージは、おおむね20世紀初頭に形成されたものである。たとえば、本部朝基は、首里と那覇の唐手の特徴について、以下のように述べている。

古来、首里においては、稽古の初期は、六分の力でもって習練し、ひたすら敏活を旨とした。那覇においては、それと反対に、十分の力を傾注して、専ら、筋骨の発達に意を用いた。

(注1)

上記によると、本部朝基は首里手と那覇手の違いを型の種類ではなく、体の使い方や鍛錬方法の違いで区別していることがわかる。たとえば、大正時代の新聞記事に、以下のような一文がある。

当時、那覇では東の桑江小くわえぐわと云う人がその道の名人で、この人もまたクーサンクーが得意であったと云う。

(注2)

これは、糸洲安恒の没後直後の新聞記事からの引用である。糸洲先生が活躍した琉球王国末期から明治時代の空手の名人を列挙した中で、那覇に桑江小くわえぐゎーという人物がいて、この人はクーサンクーを得意としていたということである。

「東」というのは、今日の那覇市東町のことである。当時は東村と言った。そこの出身に桑江という人物がいたのだが、誰のことかわかっていない。松村宗棍の弟子に桑江良正という人がいたが、このひとは首里鳥堀町の出身であるから別人である。那覇の桑江小に「小」が付くのは、首里の桑江良正と区別するためだったのであろうか。同時代に同姓の有名な人物が2人いた場合、身分、年齢、名声等の差に応じて、片方に「小」をつける習わしがあった。

那覇市東町。Google Mapより。

このように、当時はクーサンクーは那覇でも行われていたのである。同様に、ナイハンチやパッサイも那覇で行われていたかもしれない。それゆえ、古流の首里手や那覇手の場合、型で区別することができないのである。

ところで、糸洲先生は「那覇六分、首里四分」と屋部憲通から評されていたが、糸洲先生の型のリストには、サンチンやスーパーリンペイ(一百零八歩)など、「現代那覇手の型」は含まれていない。これは糸洲の型の6割が那覇手で4割が首里手という意味ではなく、本部朝基同様、体の使い方や鍛錬法で那覇手の影響が大きかったという意味であろう。

これは裏を返せば、糸洲先生が教えた首里手と思われている型が実は那覇由来だった可能性もあるということである。たとえば、糸洲先生のパッサイやクーサンクーは、実は那覇の武士長浜から教授された「古流那覇手の型」だった可能性はないであろうか。

糸洲先生が既存の型を大規模に改変した事実は以前紹介したが、糸洲型と古流型との相違は改変によるものだけでなく、同名の古流那覇手の型を採用した結果であるかもしれない。

実は糸洲先生の型の伝系はよくわかっていない。たとえば、糸洲のナイハンチは松村のナイハンチを改変したものなのか、それとも武士長浜のナイハンチを改変したものなのか、それとも両者をミックスしてさらに改変したものなのか。

ほかにも糸洲先生は泊の城間にも師事していたという説がある。本部朝基はローハイとワンシューは廃藩以前は泊でしか稽古されていなかったと述べているが、ではそれ以外は特に地域による垣根はなかったのであろうか。その可能性は十分あるので、古流の場合、型の種類で首里、那覇、泊と区別することには慎重でなければならない。

冒頭写真:戦前の那覇東町。出典:那覇市歴史博物館。

注1 本部朝基『私の唐手術』昭和7年、2頁。
注2 「糸洲武勇伝(5)」『琉球新報』大正4年3月19日。

出典:
「那覇手のクーサンクー」(アメブロ、2020年4月19日)。note移行に際して加筆。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?