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上原清吉のフィリピン武勇伝?

昨年、アメブロのほうで「上原清吉の実像」という記事を書いた。どういうわけか、「上原清吉はこういう武道家だったに違いない」とステレオタイプ的なイメージで語る人が一部にいるが、実像はまったく違っていたということを指摘するために書いた。

先日も、多聞館のブログのほうで、「ちなみに当時の本部流の上原清吉氏も招待されており、みんなの前で私はフィリピンで米兵を素手で何人も殺害したと自慢してそうである」と書いてあるブログのことがコメントに書かれていた。

上原先生をよく知る本部御殿手内部の人間ならばあり得ないと思う話だが、案外それを真に受ける人もいるかもしれない。多聞館のブログでも反論が書かれていたが、筆者もここで少し述べておきたい。

筆者は小学生の頃から上原先生を知っていて、上原先生が宗家を教えに来たときには拙宅に何度も泊まっていただいたが、上原先生がフィリピン時代の武勇伝を嬉々として語ることなど一度もなかった。そもそもご自分の武勇伝もほとんど語られることはなかった。

上原先生と筆者(左)、昭和51年。

太平洋戦争中の逸話も、著書『武の舞』ではあまりに生々しいので、削除したほどである。初稿では少し語られていたのだが、結局削除された。筆者は多聞館の新崎師範よりコピーをいただいてその初稿をもっている。

「素手で何人も殺した」などということもそこには書かれていなかったし、聞いたこともない。フィリピンで知り合った薩摩の「じがん流」の宗家から白鞘の日本刀を贈られて、それで幾度も戦ったという話は聞いたが、それも別に自分から進んでペラペラしゃべっていたわけではない。

『武の舞』は口述筆記で書かれたもので、実際の執筆者の一人は新崎師範だったが、本を作るにあたって、上原先生は「自分のことはどうでもいいので、朝勇先生がいかに偉大だったかが読者に伝わる本を書きたい」という方針を示されたそうである。上原先生はそういう人だった。

筆者は子どもの頃、宗家に連れられて、自称「本部朝基の知り合い」という人たちに会いに行ったことがある。本部朝基はああだった、こうだったといかにも詳しく話しているのである。しかし、実際に会ってみると、実は本部朝基とまったく面識がなく、ただのホラ話だったということが何度かあった。

件のブログは読んでいないが、信憑性のある話とは思えない。あるいは又聞きでどこかで話が膨らんだのかもしれない。戦後の沖縄の口碑には当てにならないものが多いので、よくよく慎重でなければならない。

沖縄に行くと、平気で他流派の人のことを悪しざまにいう人がたまにいて、聞いていてこちらがびっくりすることがある。しかし、よくよく考えてみると、根拠のない話で、その人自身も直接知っているわけではなく、伝言ゲームみたいな話だったりする。もしその話が真実か知りたければ、何重にもクロスチェックして確かめた方が良いであろう。


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